第8話 眠る邸
「走矢、お疲れ様」
「ただいま、姫さん。……話は、聞こえた?」
「うん。あとは、父上からの文を待たなくてはね」
走矢が昌明の邸を出た時、日が傾きかけていた。桐子の眠る邸に日が暮れる頃に行く予定であったから、揚羽たちはそちらへと向かう。
牛車で出掛けるのが貴族の姫の常だが、揚羽は
「……あ、見えた。……えっ?」
慣れ親しんだ我が家が見えた、揚羽がそう思った時。彼女の目に映ったのは、邸の前で立ち尽くす一人の若者の姿だ。
「姫様? ……あれは」
「この前覗いてた奴の片割れじゃないか?」
「本当だ。姫様、追い返す?」
「ちょっと、待って」
警戒心を露わにする化人たちを制し、揚羽はゆっくりと彼に近付く。邸を見上げていた青年は、ザクザクと道を踏みしめる足音に気付いて揚羽を目に止めた。
「――君は」
「こんばんは。この前、お友だちと覗いていた方ですよね?」
「そ、その節は無遠慮に申し訳ない」
慌てた様子で頭を下げる青年に、揚羽は驚いた。貴族の男が、女に頭を下げるなどほとんど聞いたことがない。ましてや、互いに名前も知らないのに。
否、名乗ってはいた。
(……変な人。でも、嫌いじゃないな)
思わず、くすりと笑みが零れる。揚羽は青年に顔を上げるよう促すと、口元を緩ませた。
「皆、垣間見から恋を始めると言いますから。それに、覗いたのは貴方のお友だちの発案でしょうし。きちんと謝ってくれたから、許してあげます」
「……」
「顔を上げてください。……柊殿」
「えっ」
名前を呼ばれた柊が、パッと顔を上げる。すると、揚羽が「やっと見た」と微笑んだ。
「下を向いていても、話は出来ませんからね」
「君は確かあ……いや、二の君」
柊は、彼女の真名を呼ぼうとした。しかしそれは、往来で口にすべき名ではないと思い直したのだろう。
女の真名は、本当に特別な人にしか教えてはならない。それは太古からの約束事であり、己を守るための
揚羽は柊の気遣いに微笑み、ちらりと後ろに頷いて見せた。そこには、化人たちが揃っている。警戒心丸出しの彼らを、安心させたかった。
しかし、三人の態度は友好的とは言い難い。
「……お久し振りですね、少将殿」
「こんばんは」
「どうも。こんなところで、何をしているんだ?」
「……こんばんは。君たちも、この前出会った……」
瑞飛たちは順に警戒しながらも挨拶し、名も名乗る。こういう妙に素直なところがあることを知っている揚羽は、笑い出したいのを懸命に堪えていた。
「名乗ったところで、さっきのオレの問いに答えてもらうぞ。あんたの邸は、もっと左京側にあるはずだ。それなのにこんなところまでやって来たのは、何故だ?」
「それは……」
走矢は、見た目十代後半の若者だ。揚羽や柊よりも年かさに見える彼に威圧的に問われ、柊はごくんと喉を鳴らす。
しかし、もう黙って逃げるような若者ではなかった。
「……出仕した朝、友人から聞いた。大納言様の邸で変事があり、大納言様はしばらく物忌みで出仕なさらないと。噂だけでは信じられなかったから、各部署にも昼間に聞き回ったが、間違いないという話だけが集まった。だから、気になって来た。……二の君が、お怪我などされていないかと」
「……わたしが?」
「そう。俺は、きみがどんな人なのかまるで知らない。だから、大多数の貴族の男がそうであるように、姫君は守るべき対象だと思っていたんだ」
幼い頃から、穏やかで大人しい母を見て来た柊にとって、揚羽は初めて知る性質の女人だ。御簾の後ろにいて姿が見えないのではなく、自ら外に出て笑って駆け回る姫君。今も、柊の目の前で手の届くところにいる。
「俺の杞憂で、むしろ君に対して失礼だった。もう、帰るよ」
「あっ……」
思わず、揚羽の口から零れ落ちた言葉。そして彼女が柊の袖を引き、驚いた彼が立ち止まった拍子に事が起こった。
――ドンッ。
何かが地面を叩き付けるような轟音が響き、視界が揺れる。それは地面が振動したからだと気付いた時、揚羽と柊を囲む三人の化人の姿があった。
「い、今の音は……?」
「瑞飛、何かいるんだよね?」
揚羽と柊の反応は、見事に対照的だ。
正体のわからない揺れに恐れおののき、怯える柊。そして、音と気配で何か良くないものが近くにいることに気付き冷静に判断しようとする揚羽。
そんな二人の言葉を背に、瑞飛は「いますよ」と一言呟いた。
「どうやら、この場所が大切な場所だと知った妖がいるようですね。さっさと倒さなければ、桐子様に叱られます」
「叱るで済めば良いけど……」
「怖いこと言うなよ、竜玉。瑞飛、一旦オレが行く」
「わかった。任せるよ、走矢」
「――おう」
ニッと笑った走矢が、暗がりの中を駆けて行く。その後ろ姿を見送った後、竜玉が手で印を結んでこの辺り一帯に結界を張った。
「……一体、何が起こっているんだ?」
「巻き込んでごめんなさい。少将殿、少しの間我慢して下さい」
「我慢? それに、何故君が謝るんだ?」
怯える柊だが、拳を握り締めて揚羽に問う。
懸命に震えを抑える姿に、揚羽は苦笑いを浮かべた。勿論、呆れたわけではない。少しだけ、見直したのだ。
「――巻き込むから。わたしたちの運命に」
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