9【天獄団十郎】

第34話

   【天獄団十郎てんごくだんじゅうろう


 二〇二五年八月八日 十四時五十四分


 マガツ教の御神体であるマガツコが菊織ひおりの手により母体と共に持ち去られてから、五日が経過していた。

 団十郎の狼狽ぶりは余程のものであった。気付けば食事も喉を通らず、心穏やかで無いので二日目から夜も眠れないでいる。次第に瞳は落ち窪み隈が目立って来た。げっそりと頬も痩けて、瞳は充血しながらも獣の様にギラギラと光っている。

 たったの数日で団十郎の人相はここまでやつれ果てた。

 事の発端となった唯の処罰さえも保留したまま今日まで忘れてしまっている。それらは全て今の彼にとっては細事に過ぎなかったからだ。

 団十郎の胸中を占めるものはただ一つ――

 再誕の儀式は失敗に終わってしまった。数十年とかけて画策して来た計画は全て水の泡になった。

 マガツコは……神は産まれ無かった。神は受肉し産声を上げる筈だった。そう信じ、そう努める事が重要だった。奇跡が起こり得るのだと信じていなければ、彼は悲しみに満ち溢れ希望のないこの未来を生きられはしなかった。

 だからこそ団十郎は今、境界に立っている。

 正気と、狂気のその狭間に。

 一刻でも早くマガツコをこの手に取り戻さねばならなかった。もう一度再誕の儀式をやり直せば、奇跡は叶うかも知れないと団十郎は考え始める。正しくやれば神は産まれ直すに決まっている。そうしてまた自分に微笑み掛ける……そうだ、そうに違いない。何か手順を間違ったのだ、ただそれだけの事だ。奴らが邪魔立てしたから儀式が中途半端な結果になった。もう一度、もう一度儀式を行えば、次こそは……。

 団十郎はそう盲信する。

 母体の代えは幾らでも効くだろう。数年越しになろうと必ず準備する。

 しかしマガツコは――

 マガツコはあの子でなくては駄目なのだ。

「菊織は……菊織は何処に行った?」

 電気も灯さぬままの教主殿二階の居室で、団十郎は鬼の形相で歩き回り、瞬きする事さえ忘れて思考に耽り続けていた。その思考回路が既に常軌を逸しているという事実に当人はまるで気付く様子も無い。

「……マガツコを無事に返さねば、わしはお前を……」

 室内を徘徊する足音は延々止む事も無く、灯る双眸は黒暗淵やみわだを彷徨い続けていた。

 ――「かさねの祟りや……」

 ――「再誕ん儀式で教主はいったいなんば……」

 階下から、警護にあたらせている男達の会話が聞こえて来た。

 ひた、と団十郎の足が止まる。

 先の連続襲撃事件を皮切りに、島の者の不信感は団十郎と織部へと向かい始めていた。

 何も知らぬ愚衆は言う――

 ――再誕の儀式で何を行っていたのか。祟りの原因はお前達では無いのか。

「ふざけた事を……」

 何が祟りか。

 黒塚累の首無し死体が焼島に打ち上げれた事を皮切りにして始まった連続襲撃事件は、累の祟りとして島民に認知されているようだった。

 団十郎はその胸中で、愚かな信徒達へと罵声を浴びせていた。

 死んだ累が蘇って報復を始めているのだと本気で考えているのか。姿形が瓜二つの一卵性の姉妹が共に失踪しているのに、どうしてその様なたわけた結論に至るのか。

 累は死んだ。わしはこの目でその命が途絶する瞬間を目にした。


 うふふ、

 うふ。


 ……笑っておった。ならば累も信仰に救われたのだろう。

 つまりあれは菊織だ。菊織が姉の怨念を晴らそうと姉の容姿を真似ているのだ。ふくれた腹とやらも衣服の上から見ただけに過ぎない。何か詰め物をしているのだ。

 馬鹿げている。祟りも呪いも科学的に起こり得るものではない。島の礼拝の時間に集中する襲撃は、菊織による背信を意とした人為的な報復としか考えられんだろう。

 

『お祈りの時間です』


 十五時の礼拝の時間を告げる島内放送があった。

 団十郎は再び暗い室内を歩き始めた。

 祈る事はしない。この礼拝には形骸化した慣例以外の意味はないからだ。それは同時に彼の定義した神の信仰の先が禍津日神ではないという事を意味していた。

 団十郎も初めの内こそ先代黒塚頼豪の提唱する禍津日神への信仰に魅せられた。彼の口元より奏でられる信仰は蜜の様に甘い蠱惑的な魅力を放っていた。

 しかし、蓋を開けてみれば、マガツ教とは実に空虚な信仰だった。

 形骸化した神像を祀るだけの説得力のない信仰に、れっきとした神を与えたのは団十郎だった。その功績が認められ、彼は二代目教主となったのだ。

 ……与えたというより――与えさせられたと言った方が表現として適切だろうか。

 団十郎はそんなものを納めたくなど無かった。神像に唾でも吐き掛けてやろうかと思った。けれど全ては教祖黒塚頼豪の思惑通りになってしまった。

 ――教主となった団十郎が信仰に手を加えた部分は二点だけだった。

 元よりマガツ教にあった『神は形を成す』という教義をそのままに、再誕の儀式という大願を提唱した。そしてマガツコという禍津日神が宿るとした、実体のある神の概念を付属した。

 同じ神を信仰している様でいて神がすり替わっている。思えば御神体が変わっているのだから当然の成り行きでもあった。信徒達はその事に気付かずに、団十郎の中でのみ意味を成す、マガツコという名の実在の神を信仰するようになっていった。後は思うがままに信仰という名を借りた実験を続けられた。そこにあるのは団十郎による私利私欲の為の野望でしかない。

「菊織……何処へ行った。返せ、わしのマガツコを……」

 その時。緊迫した空気が張り裂けるかの様な物音が起こった。

 締め切った雨戸を突き破り、窓ガラスが打ち破られている。

 外は鬱々とした曇天で、無惨に破られた窓から差し込む日差しは鈍かったが、雨戸を閉め切り、長く暗闇の中に居た団十郎の視界を眩ませるのには十分な光量だった。

 しばし目を瞑ってから団十郎は首を捩り、細めた視線をぎろりと向かわせる。雨戸もろともに破壊され、足下に散乱した硝子に拳程の石が紛れているのに気付いた。

 ――島民達の不信感はここまで高まっているか。

 団十郎はそう思った。これは島民による自分への反感なのだと。

 しかし事実はそうではなかった。

 彼はやにわに窓際に立ち、打ち破られた二階の窓から階下を見下ろす。

 誰も居ない。

 あるのは田舎の曇り空の景観と暑苦しくなる虫の音だけである。

 次第に戸口の方角から喧騒が上がり始めた。唯の監視にあたらせていた男達が、物音を聞き付けて戸口から飛び出して来ている。 

 団十郎は忌々しそうに屋外を見やり、荒れた寝室へと踵を返していった。

「……おのれ」

 吐き捨てる様に言った団十郎の視線は、足下に転がるままとなっていた石塊に注がれていた。

 外からの陽光に照らされて、石塊を包んだ一枚の紙が見える。

 しゃがみ込んだ団十郎は、石を包んだ紙を解き、そこに鬼の様に劣悪な視線を落とした。


『儀式の続きを始めましょう。明朝、日の出と共に虫喰崖へお一人で』


 憤激する面相で小鼻を膨らませた団十郎は、結んだ口元をピクつかせながら、メモを丸め込んだ。

「殺してやる」

 

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