未解決
B3QP
本編
診察室では、医者が窓際のデスクに向かい、受け取った問診票を眺めたまま黙っていた。おれは椅子に座り、焦りながら最初の言葉を待った。診察の時間は十五分しかない。文字数にして四千字も話せないだろう。その代わりにこの精神科では、初診時に詳細な問診票を書かされるようだ。学歴や職歴の項目まであるのは意外だったが、それらはおれに有利に働くはずだ。なにせおれの学位は兄より上だからな。
「では、怒りっぽい症状を抑えたいということですね。具体的にどんな経験がありましたか」と、ようやく医者が口を開いた。
「双子の兄とやりあった。趣味のサークルを二人で運営していたんだが、おれに暴言を吐いたのでサーバーからキックした。やりすぎだとメンバーに仲裁されたものの、結局そのサークルは解散となったわけだ。その後、あいつは表でおれを批判し続けてやがる。そのポストを見るたびに怒りが湧き上がる」おれは急いで話しすぎたと感じ補足する。「ああ、元々は内輪向けのクローズドなサーバーだった。表というのはインターネットのことだ」
「……本当に誹謗中傷を受けているのでしたら」と医者が言うのをおれは遮った。
「それが、空リプなんだ。暗示のようなもので、証明することは難しい。それでも、あいつがおれを軽蔑している以上、その全ての発言はおれへの批判を含んでいるわけだ」
「なるほど。統合失調症とまではいかなくても、妄想性障害の可能性もあります」
「妄想じゃない。おれがそれらのポストに自分の不安を投影させていることは認知できている。多少の過大解釈はあるだろう。だが、サーバー内であいつに侮辱されたのは事実だ。それが撤回されていないのだから、あいつのポストに悪意がないとは言いきれない。とにかくおれは、この怒りを抑えて冷静に戦えるようになりたい」
「なるほど。そういった場合、抗不安剤であれば比較的処方が容易です。眠れないなどの症状はありますか」
「ああ。昨日は怒りで眠れなかった。大人は時間を守るものだという趣旨の発言を、あいつがリポストしていたからだ。口論の時に別の用事で遅れたおれを馬鹿にするための引用だ。二つ年上なだけで大人だのなんだのとぬかしやがる」
「二歳年上なのですか?」
「そうだ。おれが二十九であいつが三十一だ」
「……先ほど、双子だと」
「年上だろうが、とにかく双子だ。まったく、同時に受精卵から発生したくせに、いつも先回りしやがって。先に産道を通った方が偉いなんて誰が決めたんだ。それに、おれの方が学はある。その問診票を見ただろう」医者は表情を曇らせた。その顔を見てまた怒りが湧いてきた。こいつは今、おれのことを軽蔑した。間違いない。「おい、疑っているのか? 実在する双子だ。若い頃から数年おきに大喧嘩をする。最初はおれが三歳であいつが五歳の時だった。次に五歳、十一歳、十七歳だ。このまま歳を重ねるたびに、こんな割り切れない思いに直面するのはごめんだ」
「ええと……つまり……幼少期から同じような症状が? 過去に通院されていたことは?」
「症状とはなんだ。今まで何度も対立してきたことは事実だ。しかも毎回、同じようなやつに仲裁される。六がつくやつだ」
「はあ……六が」
「いや、最初だけは四だったが、その次から毎回六がつく。名前に島が入っていたり、馬が入っていたりするわけだ。どちらもその漢字の形の一部に、アラビア数字の六を含んでいるだろう。完全数だかなんだか知らないが偉そうに。あいつらは割り切って生きていけるんだ。おれたちは違う。あいつら、あいつらは勝手に……!」
「ええと、アラビア数字の六……つまり、四角や丸のような閉じた図形と、そこから伸びる棒を含む漢字ということですか。それは、かなり出現する頻度が高いように思えます。たいていの人物の名前に、その形が含まれているのではないでしょうか。漢数字でいえば、四や五にだって含まれています」
「十までの漢数字で同相な部分図形を持つのは四と五だけだ! 五分の一だぞ? 偶然なわけがない。だいたい、三連続した整数が二と三の倍数を含む以上、毎回、六の倍数が間に入ってくるのは自明じゃないか。馬鹿にしているのか」
「分かりました……落ち着いてください。その歳に喧嘩をしていたのが事実だったとして」
「事実だ」
「はい。お伝えしたかったのは、こういうことです。その年齢を聞く限り、少しずつ間隔が開いているということですね。そのうちに収束するのでは」
「ははははは。ひひひ。ははははは。医者というのは馬鹿なのか。収束という言葉は、極限が存在する場合に用いるのだ。喧嘩する年齢がそのうちに出現しなくなるという意味なら、有限と言うべきだ」
「ええと、では、それは有限なのでは。お二人の寿命も有限でしょう。いつかはきっとお二人も……」
「ふざけるな! 有限なものか! 無限に続くことが我慢できないと言っているんだ。いいか? まず
「何の話をしているのです」
「双子素数が無限にあるということだ」
「あなた、双子素数なのですか⁉︎」
「最初からそう言っているだろう! 五と七、十一と十三、十七と十九、二十九と三十一! その間に割って入る数はみな六の倍数だ! 分かるか? この無限に続く割り切れない苦しみが。おれは双子素数の弟だ」
「待ってください。双子素数が無限に存在するかどうかは証明されていないはずです。数学上の未解決問題です」
「おれが証明した」
「え……本当なら、フィールズ賞を狙えるのでは。あなたはまだ四十歳になっていないのですから。せっかくなので、その証明を聞かせてもらいましょう。それがあなたの症状だというのなら、尚更です」
「確かに。あなたも医者ならこの問題を分析するべきだ。この論文を読んでくれ」
どうやら詳しい話を聞いてくれるらしいぞ。おれは意気揚々とブリーフケースからクリアファイルを取り出し、中に束ねられたコピー用紙を医者のデスクに置いた。それを受け取った医者はまた窓の方を向き、黙ってその論文を読んだ。診察時間はもう残り僅かだ。おれが足を踏み鳴らして催促しはじめたころ、医者はため息をつき、その書類をおれに返してこう言った。
「専門家に見せるまでもありませんね。これでは証明できていません」
「なんだと⁉︎」
「素人質問で恐縮ですが……」医者は椅子をこちらに向け直して言葉を続ける。「まず、後半の数値検証部分は、ハーディとリトルウッドの漸近式を用いたプログラムの出力と、実際に発生する双子素数を比較しているだけですね。これだけでは新規性が無いのでは。なぜわざわざ確かめる必要があるのでしょう」
「そ、それは、前半の証明を補強するためだ。双子素数が無限に存在することを明らかにした上で、そこから既知の予想における定数を仮定し、結果を個々に検証した。一つ一つ確認すべきだろう。ほら、また兄がポストしているぞ。見てくれ。これは明らかにおれへの攻撃だ」
おれが差し出したスマートフォンを医者は見ようともしなかった。
「そう確信しているのなら、お兄様の投稿が更新されるごとにその意図を確かめなくてもよいと思うのですがね。まだ予想にすぎないからこそ気になるのではないですか」
「予想じゃない。前半の定理を見てくれ。この漸化式では、nが無限に近づくにつれ数列が発散する。これが双子素数予想の証明になっているはずだ」
「ええと、冒頭のウィルソンの定理、クレメントの定理まではいいでしょう。その後に導出されたその漸化式が双子素数の存在を表しているかどうかは不明確で、論理の飛躍があります。この式の分母が無限に大きくなることは明白ですが、膨れ上がっているのはあなたの妄執なのではないですか」そんな馬鹿な。医者は口を開いて固まったままのおれに向かって続ける。「安心してください。あなたたち兄弟の割り切れない関係が無限に続くかどうかは、まだ証明されていませんよ。いつかは終わってしまうかもしれないのです。有限な人生を有意義に生きるため、必要なことを考えてください。抗不安剤を処方しておきましょう」
「待ってくれ。どこに飛躍があるのか教えてくれ」
「残念ながら、これ以上話すには余白が狭すぎるようです。そもそも、精神医療というものは、そのような問題を解決することを目指してはいないのですよ。もう時間です。次の方ー!」
おれは診察室を追い出された。あの医者め、有耶無耶にしやがって。苛立ちながら会計を済ませ、同じビル内に併設された調剤薬局で抗不安剤を受け取る。即効性のある薬らしい。おれは仕方なく、その場でその錠剤を飲むことにした。
しばらくすると、思考が落ち着いてきた。考えてみるとあの定理は、確かに論理の飛躍を含むかもしれない。だとすると、双子素数の予想は、未解決問題のままということになる。
SNSアプリを立ち上げると、兄がまた何やら呟いている。例によって暗示的な空リプだ。しかし、もしこの関係が無限ではないとするなら、どうだろうか。将来の兄の投稿に対する不安も、そこから生じるおれの憎しみも、永久に続くものではないのかもしれない。
ビルの出口へと向かう階段の踊り場に立ち止まり、一つ深呼吸をしてから、おれは六を名前に含む仲裁者の一人にチャットしてみることにした。
その時、階段を登り精神科へと向かう一人の男とすれ違った。神経質な面持ちで俯いたまま、両手で携帯ゲーム機を操作している。覗き込むと、落下式パズルゲームをプレイしているようだ。
なんとなく分かった。こいつはP≠NP予想だ。そのパズルゲームはNP完全問題であることが知られている。こいつがどんな悩みを抱えているのかは知らないが、あの医者なら、きっと良い処方箋を書いてくれることだろう。
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