第23話 美の探求

神が今度は「芸術家」を選んだのは、これまで天候や戦争など壮大なドラマを経験してきたゆえの、ある種の反動のようなものだった。政治的な野心や命のやりとりとは程遠い、ただひたすら人間の体を見つめ、その造形を追究することで独自の世界を築く――そんな静謐な時間に惹かれたのだ。神は適当に人間の青年の肉体を作り上げ、彫刻の名門と呼ばれる街へ流れつき、あたかも在野の彫刻家であるかのように生き始めた。


そこには、彫刻を生業とし、神殿や市民広場を飾る像を手がける工房がいくつもあった。大理石の粉が舞い、金槌やノミの音が途切れなく響く。床には失敗作のかけらや木炭で描かれた下絵が散乱し、彫刻家たちは砂埃にまみれながらも夢中で自分の理想を形にしている。神はその様子を脇でしばらく観察し、やがて工房のひとつに「弟子」として入り込むことに決めた。いくばくかの金と、自分が彫った小さな作品を見せるだけで、工房の主は「腕は悪くなさそうだ」と受け入れてくれた。


はじめこそ礼拝像や神殿の柱飾りといった定型的な彫刻をこなしながら、神は次第に“人体”というモチーフに強く惹かれていった。最初はただ女性の顔を彫る練習をしていただけだったが、そこに宿る表情や曲線美に魅了され、やがて全身像へと欲求が広がっていく。なめらかに連なる肩から腰、豊満な胸や柔らかな腹部の起伏、足首の細やかさ――それらをひとつずつ丁寧に石へと写し取ろうとするたび、神は胸が高鳴るのを感じた。同じ人間の体であっても、位置やバランスをわずかに変えるだけで全く異なる印象を生む。そこには科学者が方程式を解明するときの理知とは違う、直接的で官能的な喜びがあった。


やがて男性像にも挑むと、その大胆な筋肉の張りや雄々しい骨格に心を奪われた。胸や腕に宿る力強さだけでなく、ふとした斜めの角度から見たときの骨と筋肉の収まりが絶妙に美しかった。だが同時に、男性像の陰茎をどう彫るかで工房の仲間と議論になることもしばしば起きた。ある者は「英雄の尊厳を示すため、大きく逞しく彫るべきだ」と言うが、神の考えは違った。過去にいろいろな時代や文化を経験した神は、古くから伝わる「大きすぎるそれは滑稽さを招く」という価値観にも共感を覚えていたのだ。偉大さや崇高さは、むしろ上品に控えめな表現に込めるほうが美しさを際立たせる。それゆえに神が仕上げた男性像は、全身のバランスを繊細に保つようにそれをあえて小さく、控えめに作っていた。


不思議なことに、神が手がけたそうした人体彫刻は、工房の仲間から「バランスが完璧だ」「安らかな気品がある」と高く評価された。もともと神には完璧な形態が分かるというよりは、あくまで“人間から見れば”どう魅力的かを知るため、何度も試行錯誤を繰り返す必要があった。たとえば太ももの肉付きや、背中の僅かなえくぼのようなくぼみ、指先の表情など、何度もノミを入れ直し、表面を削り、布で磨き上げた。すると少しでも角度を間違えれば石が欠け、ひどいときは腕全体が落ちてしまうことさえある。やり直しの苦労こそあれ、この工程自体が神には魅力的だった。科学者が図形を一夜中にらみながら公式を導くのと似ている。永遠を生きる神にとっても、こうした試行錯誤があるからこそ“ものづくり”は面白いのだと強く感じた。


ある日、工房でひそかに彫り続けていた等身大の女像がようやく完成した。腰をやや落としたポーズで、柔らかい腹部から太腿へ流れる線が滑らかに続き、胸はしっかり存在感を放ちつつも誇張しすぎない。顔はわずかに微笑を含むように刻み、彼女が何か内なる活力を秘めているような印象に仕上げた。神がこの彫刻に最後の磨きをかけ終えたときは、外が薄暗くなりはじめる頃だったが、ランプの光を当てるたび、石の肌に彫られた曲線が美しく浮かび上がり、自分でも驚くほどの満足感がこみ上げてきた。それは「完璧」に到達したという気持ちではない。むしろ「まだまだ改良したい箇所はあるけれど、ひとまずここまでやった。次はさらに良いものが作れる」という昂揚感に近かった。


翌日、工房の仲間がその女像を見つけると口々に賞賛を浴びせかけた。師匠は目を丸くしながら、「おまえ、この短期間でどうやってこんな彫刻を」と驚き、同時に嫉妬さえ感じさせる複雑な表情を見せた。まもなく彫刻を引き取りたいという貴族や商人が現れ、工房はちょっとしたお祭り騒ぎになるが、神は「あれは自分の最高傑作というわけではなく、まだ彫り足りない部分もある」と言って渋った。結局、押し切られる形でその像は高値で売れ、持ち主は宴会で披露し、多くの人々がその曲線を眺めては賞賛を惜しまなかった。神が目にしたのは、こうした人々の反応がもたらす一時の栄光と、それがいかに儚いかという光景だった。称賛は嬉しい反面、神にとっては「次はさらに上を目指せるだろう」という欲求を刺激するだけに過ぎない。


一方、男の逞しい像を彫る作業も同時に進んでいた。神が特にこだわったのは肩幅や背骨の通り方、腹部の筋肉の起伏を控えめに刻むことで、誇張した雄々しさではなく“自然に宿る力”を目指すことだった。ノミで肌理を整え、表面を滑らかに仕上げると、光を当てたときに柔らかい陰影が筋肉の隆起をさりげなく強調してくれる。陰茎を小さく仕上げることで、全体のラインが洗練され、神秘的な雰囲気を残す――そう神は考えた。実際に仕上がってみると、工房の若者たちが「男なのにどこか気品がある」と怪訝がりながらも、その大胆さと品を両立させる造形に唸っていた。


神はそれらの作品を次々に仕上げ、街のあちこちに設置する機会を得ると、妙な充実感を覚えた。生と死や、愛と欲望、悲喜こもごもの歴史を数限りなく見てきた神にとって、こうして人間の美を賛美する行為はある種の癒しにも近い。血や涙に塗れる世界を離れ、純粋に“形”としての人体を研究し続ける時間は、静かな喜びと緊張に満ちていた。もしかすると数百年、あるいは千年後には、こうした石像の多くが風雨にさらされ、壊れたり埋もれたりして人々の記憶から消えるかもしれない。けれど、神にとってはそれでいいのだ。作品が残ろうが消えようが、ここで彫刻に打ち込み、理想の人体を追い求めた時間こそが尊い。科学者が真理を探求するように、芸術家もまた“どこまでも完璧には到達できない”世界で試行錯誤を重ねる。その不完全さが、途方もない可能性を生むという点で両者は似ているのかもしれなかった。


街の生活に慣れてきたある夜、神は工房の屋根にのぼって夜風に吹かれた。遠くからは祝祭の喧騒がかすかに聞こえ、空には星がまたたいている。手のひらを広げて眺めながら、神はふと考えた。自分はこれまで数えきれないほど人間の肉体を作ってきたが、それを石に写し取るという作業に、こうも深い満足を覚えるのはなぜか。人間の体は、個々の男女が現実に持つ形だけでなく、“美”という概念によってさらに引き上げられる余地がある。誰もが自分の理想を追い求め、そこに工夫を重ねることで、新しい価値が生まれる。戦いや科学や宗教にも通じる“探究心”が、芸術にも同じように息づいているのだ。神にとっては、それがとても好ましかった。


数ヵ月後、神はある段階で工房を去ることを決めた。仲間や師匠は「もっと一緒に彫刻を」と惜しんだが、神は次の旅に出たくなっていた。最後に仕上げた等身大の男女像を工房に残して、神はそっと街を出る。石像は劣化すればいずれ廃棄されるかもしれないし、人々が気に入って神殿へ奉納するかもしれない。どの道、神という存在にとっては大差ない。大事なのは“そこに打ち込んだ時間と情熱”の記憶だ。石が砕けたとしても、一度魂を注いで彫り上げた過程は消えない。まるで科学者のひらめきと同じく、一瞬燃えあがって世界を一変させるような衝動でありながら、やがて無数の人間の心を揺さぶっていく契機にもなるのだろう。


夜明け前、街道の先へ歩き出した神は遠くから公会堂の尖塔を眺め、そっと目を細めた。これまでいくつもの人生を渡り歩き、激しい戦場も権力の暗殺劇も体験してきたが、この街で過ごした“ひたすら人体を彫る”時間は、どこか穏やかで静かな感動をもたらした。また違う時代や場所でこの記憶を活かし、より美しい形に挑戦してもいい。芸術には完成がない。神はそこに人間の本質が凝縮されているように感じた。できる限りの情熱を注ぎ、どうやっても完璧には到達しない――だからこそさらに探求したくなる。そんな営みの中に、神は人間の最も尊い部分を見た気がする。


唇に微かな笑みを浮かべ、神は次なる行き先を思い描く。激しい嵐や血塗れの戦いばかりが面白いわけではない。彫刻家としての暮らしも、かけがえのない体験だった。あの石の肌をなで、陰影を調整し、完成を見たときの高揚感――それは永遠の存在である神にも確かな熱量を与えてくれたのだ。いずれまた別の街で、別の作風で、人体を追求してもいい。あるいはこの街に戻ってくるのも悪くはない。どちらにせよ、神は今しばらく観測者に戻り、人間たちが彫刻に何を求め、どんな風に美を形づくっていくかを見守ってみるつもりだった。完璧とは程遠いがゆえの探求、そこにこそ人間の根源的な力が宿っている。それを思うと、神はやはり微笑を深くするのだった。

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