第22話 我発見せり
神がその地域に初めて降り立ったときには、ざわざわとした活気が空気を満たしていた。しきりに数や図形を扱い、自然界の仕組みを解き明かそうとする者が多く暮らす土地だった。街角にはやや風変わりな道具が置かれ、粘土板やパピルスに幾何学の図形が書きつけられ、酒場や公会堂で夜な夜な議論が交わされている。神はさっそく興味をそそられ、適当な肉体を作って人の姿になり、さらにそのなかでも特に際立った才覚をもつ一人の科学者のもとへ足を運んだ。
大柄でも小柄でもないが、切れ長の目と尖った鼻、そしてきびきびした口調をもつその科学者は、王の命によってある難題に取り組んでいた。王が誂えた金の王冠が、本当に純度の高い金で作られているかどうか――つまり密度を調べよという要請だ。しかし、飾りを壊してしまうわけにはいかない。どうやって調べればいいのか誰もが頭を抱えているのを、その科学者は一人、湯浴み場でぼんやり湯に浸かりながら模索しているらしかった。神は「弟子」と名乗ってそっと師のそばに仕え、研究の様子を見守ることにした。師の机の上には様々な形や数値の書きつけられた薄い板が散乱し、部屋の隅には金属の塊や壺が積まれている。あれこれ考え抜いては、それでも結論が出ず、重たげな溜息を漏らす姿は痛々しくもあった。
ある日のこと、師はいつも通り湯浴み場へ出向いた。弟子たちは誰もが慣れたように見送り、当人も普段と大差ない様子だった。ところが、湯に浸かった瞬間、その表情がぱっと輝いた。どうやら体が水に沈むとき、湯があふれ出る量に何かしらのヒントを得たらしく、師は湯船から躍り出るように上がるなり「我発見せり」と大声で叫び始めた。あまりにも興奮したのか、着衣のことなどすっかり忘れて裸のまま通りへ駆け出した。その姿を見た通行人は仰天し、神も呆気にとられてしまった。けれど、その突き抜けた歓喜の表情こそが、真理を掴んだ者の狂喜そのものだった。師は口々に不可解な言葉を叫んでは角を曲がり、石畳を裸足で駆け抜けていく。神はこっそりその後を追いかけながら、なんとも奇妙で愉快な場面だと胸を弾ませた。
その後、師は王冠の密度を見事な方法で測り、王が満足する結果を導いてみせた。街の人々はその偉業に舌を巻き、「あの奇行にも意味があったのだ」と敬意を抱くようになった。師の周囲にはさらに多くの弟子や学者が集まり、ますます研究に没頭していく。神はその傍らで単純な雑務にいそしみながら、師の思考回路を観察する日々を続けた。数学や物理といった分野を、師は地面に図形を描きながら解説することが多く、巧みな言葉というよりは、幾何や比率を描写する直感的な方法を得意としていた。刻々と変化する日差しの下で、地面や床に線を引く姿はどこかしら芸術にも似ており、見ていると不思議な満足感を覚えた。まさしく「真理を追う」という楽しみが、この師の中には満ち満ちていたのだ。
だが、あるとき領土をめぐって対立する国の兵士が街へ侵攻し、混乱のさなか師の家まで踏み入ってくる事件が起こった。師はまるで兵士の存在など気にもとめず、いつものように地面に図形を描いていた。そこへ足音を立てて押し入ってきた兵士が図形を踏みにじると、師は憤慨して激しく叱責し、自分の大切な思考の結晶を踏み荒らすなと激昂した。兵士にしてみればそんなこと知る由もなく、むしろ逆上して「こちらを侮辱するのか」と剣を抜いた。無防備に地面を指し示していた師は、そのまま兵士の剣に貫かれ、血を流して倒れてしまった。神が目撃したのは、あまりにもあっけなく、そして悲愴さと滑稽さが交差する最期の瞬間だった。
師は地面の図形に集中するあまり、自らの身を顧みなかったのだ。兵士が剣を構える様子を認めてもなお、紙に代わる土の上に刻むラインを指さしていた。まるで最後の最後まで「数学」の証明か、あるいは発見を諦められなかったかのようにも思えた。その執念と狂気は、神から見ればどこか深い尊敬を誘うものだった。死に際してさえ、師の瞳には「ここを踏むな」という戒めが宿り、兵士に向けて口を動かそうとしていた。その声は血に泡立ち、やがて息絶えてしまったが、それがかえって師の生涯を象徴しているようでもあった。
街に流れる時間が、いつにも増して重苦しいものに変わった。人々は侵攻してきた兵士たちの暴虐に恐れおののき、一方で名高い学者が理不尽に殺されたという衝撃がひろがり、愚かな争いのやるせなさを嘆く声があちこちで上がった。神はぼんやりと、静まった師の屋敷の庭に立ち尽くし、地面にまだ残るかすれた図形の線を見つめた。ここでは確かにたくさんの知識や発想が生まれ、いくつもの難題を解決してきたのだ。どうして人間はこれほど貴重な思考を、一瞬の暴力でかき消してしまうのか。荒れる空に向かって神は問いかけるように視線を上げたが、やはり答えはない。
ただ、こうして師が死んでしまっても、いずれ誰かが彼の理論や図形に宿る真理を継いでいくだろう。死がもたらす喪失は大きいが、思考の灯火が完全に消え去るわけではない。師に学んだ弟子たちが他国へ逃げ延びるかもしれないし、違う学者が別の形で同じ問題へ挑むかもしれない。そのバトンは細くとも紡がれるかたちで、人間の手に握られ続けるだろう。神はそれを想像して、胸の奥で小さく笑んだ。結局のところ、知を追究する行為は破壊に遭っても再び芽吹く強さを持っている。師が走り回った裸の姿は、この世界にくっきりと刻まれた一コマとして長く語り継がれるかもしれない。そんな思いに浸りながら、神は屋敷を出て静かな町並みを歩く。周囲ではまだ軍の影が残り、道端に座り込む老人や、壊れた門を悲しむ家主の姿があったが、その一方で焼け残った書物や木簡を抱えて逃げる学者も見かける。人々のあいだには哀しみと同時に、知識を護ろうとする執念が確かに宿っていた。
師はああして死んだが、その命はまさに科学に捧げたようなものだった。王冠の密度を調べた一件に象徴されるように、一つの謎や不思議へと没頭し、答えを求めるためならば他人が何と言おうと構わない。結果、それが戦争の渦に巻き込まれ、あっけなく命を断つことになってしまったとしても、彼には後悔などなかったに違いない。神はそんな確信を胸に抱きつつ、淡い青空を見上げる。風がゆるやかに吹き、砂塵を巻き上げ、道端の瓦礫を転がしている。生と死のはざまに人間が織りなすドラマはいつもあまりにも儚く、そして美しいと神は思う。命を落とした師の魂がどう巡ろうとも、あの描きかけの図形だけはどこか別の場所へ継がれていくかもしれない。それこそが人間が持つ、不思議な連鎖の仕組みなのだろう。
神はそのまま町を歩き出し、声をかけてくる者も軽くあしらいながら、また世界の次なるドラマを求めて移動を始めた。荒れ果てた城壁の隙間から外に出れば、一瞬で静かな自然の風景が広がる。そこに戦の痕跡は少ないし、人の喧騒も聞こえない。しかし、この地もいつか誰かの研究室になり、数学や物理の工房になる可能性を秘めているだろう――そんな空想を巡らせるとき、神の足取りは軽い。結局、何かに執着して暮らすことこそが、人間の真骨頂なのかもしれない。師の最後の瞬間を思い出すたびに、その限りない情熱が今も光のように脳裏を横切るのを感じる。しばらくはその残響を抱いて、神は古道を踏みしめていた。
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