第18話 おまえもか

戦乱の炎が大陸を横切り、大河も砂漠も、かつてない規模で征服の足音に震えていた時代が訪れた。従来の王たちを寄せつけないほど強大な軍隊を編成し、広大な領土をまとめ上げる「皇帝」が現れたのだ。彼が率いる軍勢は、これまでの都市国家や小国同士の抗争など問題にならぬほど洗練された編制を持ち、兵士は厳しい訓練を受け、遠征する先々で恐怖と服従を刻みつけていく。どんな頑強な城壁も、その軍団の規律と武力の前には脆く、征服地は次々に彼の版図へ組み込まれていった。


そうした華々しい征服の果てに行われる凱旋式は、荒々しくも壮大な祝祭だった。長い行列が大通りを練り歩き、黄金や宝石、従えてきた異民族の捕虜、あるいは戦利品を載せた車が続く。兵士たちは胸を張り、街の人々は歓声を上げてその行列を出迎える。皇帝は高みの車上でゆったりと腰をおろし、周囲の喧騒を堂々と受け止める。そこには古来なかったほどの権力が一極に集中しており、この瞬間だけを切り取れば、あたかも世界の頂点に神が立っているかのようでもあった。


神と呼ばれる存在――すなわち星のすべてを見届けてきた“観測者”である彼は、その時代にももちろん興味を抑えられず、また新たに人間の身体を生み出して地上へと降り立った。今度は元老院議員という地位を得て、その広範囲を支配する国家の中枢へ入り込む。法律を定め、国策を議論し、他国との折衝を行う立場は、かつて王を演じた経験とはまた違う面白さがあった。複数の有力者たちが権力をめぐって水面下の駆け引きを繰り返し、ときには同盟を結び、ときには手のひらを返す。政治の世界とは、互いの思惑が入り乱れる盤上の競技であり、戦場で武器を振るうのとはまた異質の緊張感が漂っていた。


しかし、どこまで行っても人間は人間。巨大な軍事力を背景に権力を固めていく者がいれば、その台頭を快く思わぬ者が必ず現れる。やがて国中を支配下に置いた“皇帝”が、一段と身勝手な振る舞いを強めてきた。国政を勝手に動かし、法や元老院すらも形骸化させようとしている。あるときには、在りし日の宗教や伝統の上に自分の像を建てさせ、まるで生き神のように祭り上げるよう周囲へ半ば強要した。彼が遠征から凱旋するたび、その野心はさらに膨れ上がる。そしてついには「終身独裁者」として自らを称し、誰もそれを止められない状況を作り出した。


神が身を置く元老院は、表向きは皇帝に従順な態度を示していたが、内部では密かに反発が渦巻いていた。このまま独裁を許せば、古くからの伝統と自由を誇った議会の威光も消えてしまう――そう危惧する者たちが、少しずつ共謀を始める。こっそり小部屋に集まり、顔を寄せ合っては計画を囁くのだ。重々しい建材でできた回廊を誰にも見つからないように歩き、深夜に人目を避けて閑散とした議事堂の裏手へ向かう。火の光がわずかに照らす中、口を押し殺して誰がいつどこで刃を振るうのかを決める。そこにはじんわりとした恐怖と、抗えない高揚が同居していた。


神としては、これもまた一つの刺激に満ちた人間ドラマだと感じた。権力者の独裁を阻み、暗殺に打って出るなど、生半可な覚悟ではないだろう。もし失敗すれば、首をはねられるか、拷問の末に無惨に殺されるのは目に見えている。それでもなお、こうして刀を研ぎ、机に地図を広げ、陣営を固め、決行日を検討する者たちの顔は生気に満ちている。古の戦争で血を浴び、娼婦として夜毎の男と交わり、聖職者として信仰を演じてきた彼も、この種類の緊迫感には抗いがたい魅力を覚えずにはいられなかった。


そして運命の日がやってくる。皇帝が元老院へ出席すると聞きつけた謀議の一団は、事前に武器を忍ばせるよう手配し、仲間たちとともにその場を取り囲むことを決めていた。大神殿に捧げる儀式が行われるため、皇帝は気を許して単身でやってくる可能性が高い――ある者は耳打ちをしながら、ある者は落ち着き払って衣を身にまとい、まるで何も変わったことはないかのように振る舞う。一同が元老院の座席に陣取ったところへ、実際に皇帝が姿を現したときには、誰もが息を呑んだ。光を放つようなオーラがあり、歩く一挙手一投足に貫禄が宿っている。


そして決定的な瞬間。仲間の一人が合図に従って裾を掴み、もう一人が「ご相談があります」とかき口説くように話しかける。そのわずかな隙を狙い、刃がいくつも抜き放たれた。神もまた、その一人として決死の想いで武器を握りしめる。なにしろ失敗すれば、自分も殺されるし、目の前の皇帝がこれから永遠にも等しい独裁を謳歌してしまうかもしれない。張り詰めた空気の中、皇帝は何が起きたかを悟り、激しく抵抗を見せた。隣にいた議員は斬りかかろうとして逆に突き飛ばされ、そのまま血まみれになって床に転がる。その姿を横目に、神は一瞬の判断で、その重厚なローブの奥へ刃を突き立てた。


鋭い衝撃が手に返り、肉を貫く感触がある。皇帝の体が一瞬、ぐらりと揺れる。そして、こちらへ振り向いたあの苛烈な眼差しは、驚愕と怒りと憎悪が混じり合った凄まじい表情を携えていた。「おまえもか!」と叫ぶ声は、深く胸に刺さる響きをもって神の耳を撃ち抜いた。次の瞬間、皇帝の体ががくりと崩れ、彼を睨んでいた視線が力を失っていく。そのとき、時間が不思議なほどゆっくりと流れたように感じられた。血が噴き出し、床を濡らす。周囲の議員があわただしく逃げ回る一方で、仲間の何人かはなおも刃を振り下ろして皇帝を完全に沈黙させようとしていた。


最期の最期、皇帝の口から吐かれた言葉は、裏切られた痛みと絶望が交錯したようにも思えた。神である彼に向けられた視線は、一瞬だけ「なぜこんなことを」という問いを浮かべているかのようだった。人間社会を転々としてきた神は、そこに奇妙な感情を覚えた。ひょっとすると皇帝もまた誰かに焦がれる想いを抱えたただの男であり、ある意味ではこの巨大な権力に翻弄される一個の存在だったのかもしれない――だが、もうそれを確かめる手段はない。血を流し、崩れ去る彼の姿はあまりにも儚く、生々しい最期だった。


一方、謀議の者たちは皇帝が倒れたのを確認すると、それぞれ手を取り合って賛美か歓喜のような声を上げた。彼らは取り返しのつかないことをやってのけたという恐怖と興奮が混ざり合った面持ちで、神に近寄ってくる者もいる。「よくやった!」と肩を叩く者、「これで我々の自由が守られるのだ!」と涙を浮かべる者もいた。神は自分の手元にこびりついた血を凝視しながら、淡い興奮と虚無感を味わっていた。殺しの数だけ体験してきたと言えばそうだが、ここまで劇的で、悲痛な声にまみれた刺殺は久しくなかった。あの力強い男を自分の刃で仕留める――その決定的な行為が胸に残す残響は、かつて戦場で何度も死を見たときとも違う重みがあった。


「おまえもか!」


その叫び声が、耳の奥に反響する。皇帝が向けた目の色は、今なお焼き付いて離れない。この場面を傍観者として眺めるだけでもじゅうぶん刺激的だったに違いない。だが、神という立場でありながら、人間の身体を借りて実際に自らの手で人を殺すという体験は、なんとも形容しがたい複雑な味があった。罪悪感、興奮、納得、喪失感――それらがせめぎ合いながら、心の中にぐるぐると渦を巻いている。これこそが人間の歴史を動かし続けている力の一端なのかと、改めて思い知らされる。


やがて神はそっと刃を床に置き、血のついた議員の衣服を乱暴に脱ぎ捨てた。どっと興奮の熱が冷めると、周囲からは怒号や悲鳴が飛び交い、議会の外では騒動を聞きつけた市民たちがざわめいている。まもなくこの暗殺は広く知れ渡り、国中が新たな混乱に飲み込まれるだろう。元老院の自由が復活すると信じる者もいれば、逆にさらなる独裁者が現れることを恐れる者もいる。誰が味方で、誰が裏切り者なのか、そんな混乱の渦のただ中を、この肉体を持つ彼はどう歩むのか――いや、そう考えた途端、彼の意識にいつもの衝動が湧いた。そろそろ、観測者である自分に戻りたくなってくるかもしれない。


ともあれ、いまはまだこの鮮烈な結末を味わい尽くそうと、神は思う。あれだけ壮絶な声を上げて死んでいった男を殺したのだ。おそらく歴史の歯車は回り続け、この出来事が語り継がれていくに違いない。神としてそれを見届けるのも、やがては面白かろう。血生臭い議場の床で、大切に練り上げられた計画が成就したかに思える刹那、神は自分の鼓動を確かめる。刃を握った手は震え、胸の奥では奇妙な虚しさと官能がせめぎ合っている。ほかの議員たちがあわてふためく声を背に、彼は深く一息ついた。たとえこの肉体が後に捕えられ、同じく惨たらしい結末を迎えようとも、神にはやすやすと戻れる世界があるのだから。だが、それでもこの劇の舞台に最後まで立ち尽くし、その結末を見てみたい気持ちもあった。これこそが人間界の魅力であり、彼が執着を禁じえない理由にほかならない。

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