第19話 銀貨30枚
彼がその男を初めて見かけたのは、ある砂塵舞う街外れの広場だった。ざわざわと人だかりができている中心に、ぼろ布をまとった青年が静かに立ち、周囲の民に向かって何やら話し続けている。懐疑的に集まった者もいれば、興味半分に集まった者もいる。だが、その青年が発する言葉は、この世界ではあまり聞いたことのない発想を織り交ぜていた。
「真に大切なのは、怒りや嫉妬ではなく、許しや愛なのだ」
穏やかな口調ながら力強い眼差しでそう語ったとき、聞き手たちは口々にざわめいた。争いを正当化する力が支配するこの世の中で、「許し」や「愛」を説くのは並大抵のことではない。それが堂々とした自信を伴って語られるものだから、人々は半分面食らいつつも耳を傾けずにはいられなかった。しかも、所々で奇妙な出来事が起こる。たとえば、路上に倒れていた病人に触れると、なぜだか症状が軽快して立ち上がってしまう。あるいは、荒れ果てた地面からほんのわずかだが芽が出てくる。まるで彼の存在そのものが小さな奇跡を連れてくるかのように見えた。
もちろん、神の視点で見ればそれらは「ほんの些細な奇跡」にすぎなかった。けれど、この世界の人々にとっては衝撃的であり、同時に強烈な魅力でもある。あの青年は“異端”と呼ばれそうな危うさを孕んでいた。彼の語る内容は既存の権力者や宗教指導者たちが嫌いそうな香りを漂わせていたし、実際、その広場にいた一部の者は眉をひそめ、冷ややかな視線を送っていた。しかし、そこにははっきりとした情熱と純粋さが混じっており、彼は強く惹かれた。この男はいずれ確実に波乱を巻き起こすにちがいない。そう確信して、彼は意を決してその男の「弟子」として加わることにしたのだ。
仲間となった弟子は他にも数多くいた。元は漁師や羊飼い、或いは町の掏摸だった者もいる。皆、青年の言葉に打たれ、そして小さな奇跡を目の当たりにして心を奪われたのだろう。彼らは青年を「師」と呼び、連れ立って各地を巡りながら、飢えた者にパンを分け与え、病人を励まし、時に厳しく支配する権力者への疑義を口にした。彼もその輪の中に溶け込み、青年のどこか聖なる雰囲気を間近で観察する。青年自身は、人間としてはただの若者に見えるのに、刹那的に顔立ちが光を帯びるような瞬間がある。たとえ自分が神として“本物の奇跡”を知っていても、この男が小さな奇跡を重ねる様は十分に魅力的だった。
やがて、その噂は権力者の耳にも届くようになった。民衆の人気を集める「奇妙な預言者」や「治癒の奇術師」がいると聞けば、既存の統治機構や聖職者たちは黙ってはいられない。そこでは往々にして“排除”の必要が出てくるものだ。彼らは密偵を送り、青年の動向を探り始めた。地元の役人が彼ら弟子の周囲を徘徊するようになり、各地の街では妙にそっけない態度で迎えられることが増えた。危険はじわじわと近づいていたが、青年はまったく怖れを見せずに聖なる言葉を説き続けた。
ある夜、青年はこっそりと彼を呼び出した。薄闇の下、集落の外れで燃える小さな焚き火のもとに青年はたたずみ、彼が近づくと静かに口を開いた。
「すまない。きみには、重要な役目を頼みたい」
少し焦点の定まらない瞳をしていたが、その言葉は落ち着いた口調だった。彼が一体どんな役目なのか尋ねると、青年はその唇をきゅっと結んだまま、少しためらった末にこう告げた。
「私を売り渡してほしい」
あまりにも突拍子もない内容に、彼の胸はざわついた。信奉する弟子が師を売る――裏切りも同然ではないか。しかし青年はそれが自分に“与えられた運命”の一部なのだと語り、やがてこの世界の流れに身を投じていくための“必要な過程”なのだと言い張る。どことなく悲しげな微笑を浮かべているその様子に、彼は言い知れぬ感情を抱いた。だが、彼自身も神としてさまざまな人間ドラマを見てきた。こういう不可解な行動こそが面白い展開を生むことを、どこかで知っている。だからこそ胸を騒がせながらも青年の申し出を受け入れることにした。
密かに彼は権力者の手先と会い、銀貨30枚を渡される。彼らは言外に「その預言者の居場所を教え、機を見て縄で縛り上げよ」と告げる。それまで師を慕っていた弟子が金と引き換えに裏切る――それは権力者たちにとっても、劇的な見世物になるにちがいない。彼は自らに「これは師の願いだ」と言い聞かせながら、ある種の高揚感と罪悪感が入り混じるまま動いていた。
そして決行の日。群衆を避けた夜更け、青年を慕う弟子たちが野営する場所を権力者側の兵士に密かに告げ、彼は荒縄を手に青年に近づいた。師はまったく抵抗しなかった。目の前に突き出された荒縄を、その腕に絡めると、青年はただしんみりとした笑みを浮かべて彼を見つめるだけ。裏切った者は彼を含む弟子であればこそ、集まりをよく知っており、周囲の弟子たちを混乱させて包囲網にかけるのも容易だった。飛び起きた仲間たちは何が起こっているのか理解できず、叫んで彼の名を呼ぶ者すらいたが、すでに後戻りはできない。
思えばこの瞬間がもっとも苦しかった。自分は一体何をしているのだろう。そもそも青年を売り渡すなんて、いかなる正当性があるのか。だが思い返すのはあの夜の頼み言――師が自ら選んだ道だ。ならば自分はそれに従うしかない。心の奥底でそう呟きながら、彼は兵士の前に青年を突き出し、権力者たちの下へ連行させる。その場で渡された銀貨の重みを手に感じたとき、妙な現実味がこみ上げてきた。師は連行される直前に彼へ振り返り、「ありがとう」と小さく言った。あまりにも不思議な場面だった。誰もが絶望と裏切りの表情に染まる中、当の本人が感謝を述べるなど――いったい何が“正しい”のか、もはやわからない。
やがて青年はみせしめのような形で処刑された。大勢の野次馬が集められ、権力者はこの“危険な異端者”を残酷な方法で処分することで、二度とこうした反乱や改革の芽が出ないよう釘を刺すつもりだったのだ。その様子を遠巻きに見守りながら、彼は痛みと興奮が交錯するのを抑えられなかった。血が流れ、息絶える師の姿は、これまでさんざん見てきた死の光景でもあったが、そこには神秘的な雰囲気が漂っていた。まるで師がその瞬間にすべてを受け入れ、苦痛すら超越していくかのように見えたのだ。
処刑のあと、弟子たちは四散し、一部は絶望のあまり自ら命を絶ったという噂も流れた。民衆はもとより恐怖に顔を引きつらせ、一夜のうちに街の空気が重く変わってしまった。権力者は勝利を宣言し、青年の名をもみ消そうとするかのように禁止令を発し、民に命じて事件を忘れさせようと躍起になった。しかし、かつて師の教えを聞いた者たちの心には確かに何かが刻まれていて、それはやがて地下へ潜るように受け継がれ、ひっそりと芽を膨らませていくのかもしれない――彼は観測者としての勘で、そんな予感を抱いた。
何よりも奇妙だったのは、あの青年が一見普通の人間にすぎないと思われながら、死に際に見せた不思議な輝きだ。あの瞬間、自分は裏切りという役割を忠実に果たしながらも、内心では「この男の人生が、まだ続くのではないか」という根拠のない予感を感じていた。身体は息絶えたのに、あの瞳だけは永遠を見つめているようだった。いったい自分は何を裏切ったのか。そんな不可解な問いすら浮かんだ。
「なんとも不思議な体験だった」
彼は処刑直後、夜が明けきる前にそっと街を離れ、山を越えて別の地方へと身を隠した。銀貨は大切に抱えていたが、その重みがやけに苦い。ひとけのない荒野で小さな焚き火を灯しながら、その金属の冷たい輝きを凝視していた。そしていつものように、意識は徐々に彼の本質である神へと戻っていく。「裏切り者」として歴史に名を残すかもしれないが、それもまた悪くない。あの師が意図したとおりの結末だったのかもしれないし、或いは想像を超える奇跡を引き起こすきっかけになったのかもしれない。人間界では悲劇とされるかもしれないが、神の視点からすれば計り知れない物語がそこに息づいている。
あの男の最後の微笑が、どうにも心にひっかかったまま、彼はゆっくりと火の粉を眺めた。心のどこかに感じる違和感は、行為そのものに対する罪悪感か、それとも師の謎めいた確信を自分がまだ飲み込めずにいるからか。どちらにせよ、ここまで特異な“救い”を口にし、世の中を転覆させようとした男はそう多くはない。神である自分が少しばかり手を貸す――いや、邪魔をしたのかもしれない――ことで、その物語がどう展開していくのか、今後じっくり観察するのもいいだろう。十年、百年、さらにもっと先の時代に、あの男が語った言葉がどのように受け継がれていくのか、興味が尽きない。
“異端”を口にする男への裏切り。民衆を魅了した小さな奇跡と処刑という結末。まるで演劇のように鮮烈な場面を思い返しながら、彼は再び星の深い闇へと溶け込んだ。次に地上へ降りるときは何を体験しようかと考えながら――あの男が本当に“奇跡”を起こしたのか、それとも自分の知らない別の力が働いていたのか。それを知るには、まだ人生を重ねるしかないだろうと、炎の揺らめきに映る銀貨の輪郭を見つめつつ、しばし考え込んでいた。
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