第17話 信仰する者たち

いつの頃からか、人間たちは自然災害や狩猟の成功を左右する目に見えない力を意識し始めていた。雷鳴や地震、疫病や日照りといった脅威に対して、ただ恐れを抱くばかりではなく、それをどうにか和らげようと儀式めいた行為を積み重ねていたのである。雨乞いのための踊り、病魔を祓うための呪文、豊穣を祈るための儀式――そうした祈りや願いは、彼から見れば幼い試行錯誤に思えたが、それがやがて「神を信仰する」という現象へと結びついていくのを目の当たりにして、彼は大いなる興味をかき立てられた。


信仰は最初、森や川、山や火といった自然そのものへ向けられていたようだった。人々はそれらを“霊”や“精霊”として敬い、獲物を仕留めた獣の骨や、月と太陽の巡りを祈りの対象とした。ときには仮面をかぶり、動物の皮をまとい、集落の者たちが輪になって夜通し踊る。彼が身体を創り、そこへ混ざっても、だれひとり違和感を持たない。なにしろそれは、集団全体で喜びと恐れをひとつにする営みであり、外部からの訪問者を拒むものではなかった。打楽器に合わせて足踏みし、大地を揺らすたび、火の明かりが人々の顔に赤黒い陰影を落とす。その儀式の渦中で、彼は人々が「自然の大いなる力」を畏怖し、そこに見えない意思を感じていることをじかに知った。


しかし、それだけでは終わらないのが人間の面白いところだった。集団が大きくなり、村や都市が広がるにつれ、ただ恐れを鎮めるための儀式からさらに踏み込んだ考え方が生まれてきた。やがて誰かが「この世界の真の支配者はたった一つの神だ」と唱え始めると、その周囲に「こうすれば神は喜ぶ」「これをしては神の怒りを買う」という戒律が形作られていった。最初こそ単純だったが、そこに智恵のある者が加われば加わるほど言葉が積み重なり、神の名において善悪を判断する仕組みが編み出されていく。


ある都市国家では、木の板や粘土板に刻まれた戒律を「聖なる教え」と呼び、これを絶対視する動きが見られた。川の氾濫を防ぐための祈りも、疫病を抑えるための願いも、すべてその教えにのっとって行動しなければならない。その秩序が、集団の中で力を持つもの――聖職者や祭司――を生み出し、さらに信仰が広範囲に浸透すると、“唯一神”という概念まで説かれるようになったのだ。俗世に溢れる偶像や精霊崇拝を捨て、ただ一本の神を仰ぎ、そこから派生するルールを遵守することで、より大きな集団をまとめあげていこうという思想。彼が初めてその噂を耳にしたときは、いったいどうなるのかと興味で胸を弾ませた。


そこで、彼は意を決して“聖職者”として生きてみることにした。いつものように人間の肉体を作り上げ、通りがかりの町で施しを受けながら神殿の門を叩いた。長い巡礼の末にこの街へたどり着いた、“神を学びたい”若者として自分を名乗ると、年老いた司祭はうなずき、見習いとして寺院の掃除や儀式の手伝いをさせ始めた。朝早くから聖堂の床を磨き、決められた時間に祈りを捧げ、経文を読み書きし、困っている民を助けることこそが“正しき道”だと教えられる。彼はその単調な修行に戸惑いつつも、神への崇敬の念を心の形だけで演じ続けた。


不思議だったのは、神殿の神官たちが本当に“唯一の神”の存在を信じ込み、それを絶対不可侵のものとして扱っていることだ。彼らは日常のすべてを神へ捧げ、戒律を破れば地獄が待つと怯える。一方で、その神が真にどこにいるのかは誰も知らない。彼が実際の神、いわばこの星のすべてを見守る存在にいくら近いと言っても、気づく者などいない。むしろ彼が“神を目撃した”などと口にすれば異端者扱いされてしまうかもしれない。そう思うと、なんとも不可思議でちぐはぐな気もするが、一方で「人間にとってはそれでいいのかもしれないな」とも感じた。目に見えないからこそ、その“神”に迫るために人々は一層熱心に祈り、互いに道を正し、また時には狂信的な対立を生む。


聖職者として暮らすうちに、民衆が神殿を訪れ、悩みや罪を告白し、救いを求める姿を幾度も見かけた。戦で大切な人を失い、悲しみに沈む者。飢饉で子どもを抱えて行き場を失う母親。あるいは恋に破れ、失意のまま彷徨う若者。彼らは聖なる戒律に縋り、司祭の儀式に希望を見出そうとする。その祈りがどれほど実効性を持つかは別として、人々は言葉を交わすたびに穏やかな表情を取り戻していくようにも見えた。そこで差し出される助言や戒律は、確かに抽象的ではあるが、相手の気持ちを支える導きになっているらしい。彼は“苦しみから救われる”と思えるだけで人間はこれほど強く生きられるのだ、と感心せずにいられなかった。


もっとも、その教義の裏にある権力構造はやはり複雑だった。神殿の主祭や高位の僧侶は、庶民から寄進を受け取り、祭礼の名目で莫大な贈り物を集める。威厳ある衣装をまとい、聖句を唱えては庶民を感動させるが、裏では王や貴族と通じ合い、政治的判断に深くかかわっている。「すべては唯一神の意志である」という言葉を振りかざしながら、自らに都合のいい解釈で教義を運用するのを見て、彼は笑いを噛みしめた。人間はやはり面白い。自己保身や欲望、そして心の内にある慈愛や使命感など、さまざまな感情が絡み合って宗教という大きな劇場を形作っている。


さらに、敵対する宗教を奉ずる者たちとの間でいがみ合い、流血の争いが起こることもあった。神はただひとつのはずなのに、なぜか複数の信仰が各地で乱立し、それぞれが「自分たちこそ正統である」と譲らない。彼が奉職している神殿は、一方では異教徒を異端視し、排斥しようとさえしていた。その険悪な空気の中で神職の衣をまとい、穏やかに祈るふりをしながら実際にはいくらでも血が流されうるのだと知ったとき、彼の胸はぞくぞくと震えた。戦争の名目が王の欲望だけではなく、神の名によって正当化されるのだ。なんと壮大にして滑稽な構造なのか――彼はその背理に惚れ惚れするような感覚さえ抱いた。


ある日のこと、彼は自分を慕う若い司祭見習いから打ち明け話を聞いた。見習いは厳しい戒律に耐えられず、異性との交わりを求める肉欲と、聖職者としての清廉さの矛盾に苛まれているという。荒涼とした瞳をしている青年が、「自分は罪深いのではないか」と問うたとき、彼はそっと肩に手を置き、小さく笑って「人間とはそういうものだよ」と答えてやった。唯一神を崇めても、聖典を読み込んでも、欲や葛藤からは逃れられない。それ自体が生きるということ――彼がこれまで幾度も経験してきた真実だ。見習いは涙を浮かべていたが、「ありがとうございます」と深く頭を下げた。彼にとっては救いになったのかもしれない。それだけで、聖職者という役割にも価値があるのだなと、彼は満足を覚えた。


儀式の合間に、彼はひそかに思う。自分こそが本当の神――この星を生まれる前から見守ってきた存在――であるはずなのに、人間たちはそれをまったく知らず、別の抽象的な唯一神を仰ぎ、経典を掲げている。それがなんとも滑稽であり、愛おしくもある。大樹が風に揺れるようにして彼らの信仰は揺らぎながら、それでも彼らを支えている。そして彼自身もその劇の一員として、熱心に祈りを捧げ、儀式を取り仕切り、布教のために近隣の集落を巡り歩いている。戒律通りに小さな子どもを救い、貧しい者にはパンを分け与え、病に苦しむ者を看取る――その行いが俗物的な側面を完全に打ち消すわけではないが、それでも人々を生かす一つの手段となっているのだ。


こうして信仰という名の巨大な枠組みを経験するにつれ、彼はますます人間の世界にのめりこみ、興味を募らせていった。原始的な段階とはいえ、すでに聖典という形で文字がまとめられ、教義やルールが整えられている。やがてそれがより複雑化し、様々な派閥を生み、大陸を股にかけて広がっていけば、その衝突や融合はどれほど壮大なドラマを生むだろうか。彼は神職という役目を演じながら、次なる時代の物語に思いを馳せる。やがて文明がさらに発達し、国家同士が交易や文化を通じて結びつくとき、信仰はどう変化していくのか。或いは戦乱の火種になるのか、それとも人々をまとめる力になるのか。いずれにしても、傍観者として、あるいはときに当事者として、この“信仰”という新しい要素を体験できるのは絶対に面白いはずだ。


彼は本来の無形の意識をまだ地上に縛りつけ、神殿の石段をのぼる。まだ夜明け前の薄暗い空気の中、影が黒々とのびる中庭で一日一度の祈りを捧げる。それは唯一神への賛美――彼にとっては誰か別の神への捧げ物というより、自らが見つめるこの星と生命への挨拶のようなものだった。もしここで「あなた方が信じている神は私だよ」と告げたら、どうなるだろうか。ほとんどの者は信じぬだろうし、ある者は異端と見なすかもしれない。だが、そんな真実など必要ない。大切なのは人々が抱く思いが、嘘や偽りを超えて互いの心を支え、苦悩を乗り越える力になることなのだ。


そうして彼は静かに両手を合わせ、彼らの唯一神に向けて、祈りの言葉を口に乗せた。これはまた一風変わった感覚だった。自分こそが神でありながら、“自分ではない神”に祈りを捧げる背徳と滑稽さが胸に滲む。それがなぜか快感に近いものを呼び起こす。神を演じながら神を信じる――人間たちにとっては当たり前の矛盾を、彼は新鮮な魅力として感じ取っていた。日の光が一条、石畳の上に伸び始める。遠くから聞こえる衛兵の声と朝の鳥のさえずり。今日もまた儀式があり、学問があり、救いを求める人々がここを訪れる。彼はそのすべてを見逃すまいと目を開き、祭壇へと向かった。人々の求めに応じ、聖人めいた祝福を与えるのも、“唯一神”という存在を代弁するのも、いまこの身体を通してならば実にたやすいことだった。かくして彼の新たな体験が、静かな興奮とともに幕を開ける。

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