第16話 権力をもつ者たち

王という存在が初めて現れたのは、人々が青銅器や鉄器を手にし始めた頃だった。人間社会が道具を鍛え、土を耕し、山を削り、川を制し、そのうえ領土を広げていく過程で、必然的に生まれた権力の形。集落や都市をまとめるリーダーであり、神聖な称号を帯び、豪奢な衣装をまとい、家来を従える――その姿には、元来傍観者であった神の目にも、別種の魅力があった。彼はそれに興味をそそられるやいなや、新たに作り上げた肉体を通して、いとも簡単に王としての生活を体験してしまおうと考えた。


まだ戦乱が絶えぬ時代の小さな都市国家。彼は王として即位し、華美な玉座に腰を下ろして権力を揮った。肥沃な土地に農民を住まわせ、収穫物を管理し、軍を動かして周辺の弱小国を従えるのだ。一方で、宮殿の奥深くでは姫や側近たちが仕え、朗らかな音楽と美食が昼夜を彩る。その生活はまさに王の名に恥じず、退屈とは縁がなかった。ときには祭礼で神々への奉納を司り、ときには法を定めて罪人に判決を下し、ときには戦に乗り出し、勝利による栄光と敗北の恐怖を味わう。多くの人間が自分の命令ひとつで左右される――そんな驚くほどの高揚感は、かつて一般の男として暮らしていたときには得られなかったものだ。


ところが、どれほど権力を握っていても、人の世の闇からは逃れられない。王として君臨する日々が続くなか、彼は心を許していた側近に裏切られ、毒杯を飲まされたり、暗殺者の凶刃に倒れたりもした。周囲に疑心暗鬼を育て、自らが標的となる緊張感は、ちくりちくりと胸を刺すような驚きをもたらした。やがて呼吸が浅くなり、視界がかすみ、王としての華やかさと権力を手放して床に崩れ落ちる瞬間――それすら、彼にはどこか甘美にも思えた。死の予感がじわじわと迫る体験は、神としての永遠の存在からかけ離れたスリルそのものだった。


次に彼が降り立ったときは、娼婦としての生活を選んでみることにした。女の肉体を作り、さほど大きくない城郭都市の外れに建つ歓楽街の一角で、遠来の商人や兵士に体を売る日々を送る。絹のような衣を纏い、吐息とともに男たちの欲望を受け止める。彼らは大金を払って、抱く者と抱かれる者のあわいに陶酔しに来る。夜毎、数多くの男たちが熱い視線とともに部屋へ足を踏み入れ、愛撫や挿入に溺れては汗と液体を残して去っていく。それはまさに、彼が女としての性を最大限に生かす舞台だった。


薄暗い灯りの下で、男を喜ばせる演技をしながらも、彼は不思議と満たされていた。触れ合いのたびに聞こえる甘い囁きや、切なげな吐息、欲望に目をぎらつかせる相手の表情がまざまざと記憶に刻まれる。そこには殺すか殺されるかの緊張はなく、ただ互いの快感を求め合う一夜の夢がある。時には相手の荒々しさに体が軋むこともあったし、涙がこぼれるほど辛い行為を強いられることもあったが、それでも深く沈み込むような快楽が全身を痺れさせるとき、彼は陶酔の極地を感じた。娼婦としての日々には、また別のドラマがあったのだ。男たちはさまざまな事情を抱え、金を払い、薄幸の少女を求める者もいれば、単なる憂さ晴らしに来る者もいる。そんな人間模様をひとりひとり体感しながら、彼は夜を重ねた。


またある日は、兵士として血にまみれるのを望んだ。どこかの都市国家の歩兵団に加わり、鉄製の剣や槍を握って荒野や城壁の前で敵とぶつかり合う。馬上から弓を射る者に怯えながら、仲間といっしょに前進しなければならない。肉と筋肉の衝突が響き、憎悪の叫びが飛び交い、倒れる仲間の姿が視界を染めていく。そこには、かつて王として眺めた戦場の光景とはまるで違う体感があった。最前線に立っていれば、いつでも自分の喉元に刃が突き立つ恐れがあり、死は間近なリアリティとして迫る。盾の裏側で必死に息をこらえながら、剣を振りかざして敵の首を切り裂く瞬間――その反動で自分にも血が飛び散り、吐き気をこらえながら地面に倒れ伏す姿に胸が軋む。


けれど、そんな苛烈な場面ですら、一歩引いた冷静さを保ちながら、彼は「これほど生々しい体験はない」と内心で歓喜を覚えていた。相手を殺める恐怖と高揚が一体となり、傷口から染み出す体温がそのまま意識を遠のかせるような官能を伴うことすらある。人間が脆い肉体をもって殺し合いをするのは、なんとも不毛で儚い。しかし、それだからこそ、彼には最高に新鮮だった。敗北して捕虜となり、鞭打たれ、散々な仕打ちを受けて死んでいく人生も体験すれば、また別の苦痛と衝撃が体を刻んでいく。


そうした生と死の狭間の体験から離れた後には、農民の女としての穏やかな生活を選ぶこともあった。鍬を持ち、畑を耕し、夫と呼ぶ男とともに一年の収穫に歓喜し、小さな娘を抱えて笑い合う。そのような平凡でありふれた暮らしが、逆に彼にはとても輝いて思えた。早朝に起き、鶏や牛の世話をし、昼には土埃にまみれて働き、夕方には家族で粗末な飯を囲む。その脇には大きな洗濯桶があり、日は落ちるとランプの灯りだけで薄暗い家を照らす程度――それで十分、心が満たされた。夫と二人、たまの休息日にだけ密やかに愛を交わす様子も、軍や娼館で体験した激しい行為とは異なる優しさがにじんでいた。地味で平凡な暮らしこそが、かけがえのない幸福を育むのだと、彼はしみじみ思った。


そうしてさまざまな人生を渡り歩くうちに、何度も死に、何度も生まれ、彼はその都度「人間の生はなぜこんなにも多彩なのか」を再確認していた。青銅器や鉄器の出現によって、人間は新たな時代を築き、権力や欲望の形を一段と複雑に広げていく。集落は都市へと発展し、路地には人が溢れ、商人や旅人が行き交い、衣服や食事が洗練され、祭りや宗教が起こり、憎しみや愛情といった感情も社会の中で絡まりあう。農耕生活が定着したことで貧富の差が顕在化し、王という支配者が絶大な力を誇り、そして、戦や陰謀や裏切りが横行する。それでも人々はそれぞれの暮らしを全うするしかない。彼がいくら介入しようとも、世界はめまぐるしい変化を遂げていく。それが何よりも魅力的だった。


暗殺される王になることもあれば、欲望を受け止める娼婦にもなる。兵士として殺し合いに身を投じたり、農民の女として静かな幸せをかみしめたり。どれもが一度きりの物語でありながら、彼にとっては新鮮な驚きと楽しみに満ちていた。星の外から眺めるだけでは決して味わえない、肉体と社会と歴史が織りなす生々しさ。そこに喜怒哀楽や生死の断面が凝縮しているのだ。まさしく“生きる”という実感を、神である彼は何度も反芻する。


ときどき、意識を戻して神の視点に立ち返ると、思い出すのはその体験の細部だ。王城の美酒の味や、娼館で火照る肌の感触、血まみれの戦場のにおい、土にまみれた農村の季節の移り変わり――すべての風景が今なお鮮やかに心に残る。それは何もかもが儚いからこそ光を増す、生の一瞬一瞬だった。今や彼は、かつて漆黒の宇宙で孤独を覚えたころには想像もしなかった充実を知っている。この世界で人間として過ごす年月こそが、自分にとっての最高の娯楽であり、学びであり、試練であり、悦びなのだ。


またいつか飽きる日が来るのかもしれない。あるいは、さらに新しい時代が訪れ、人間たちが違う価値観を築いたとき、それを体験するために地上に降りるかもしれない。それがいつになるかはわからないが、彼はこの世界の流動を見守りながら、次に降りる好機を逃すまいと意識を研ぎ澄ませる。生きることの喜びと、死ぬことの刹那があいまってこそ人生は彩りを得る。すべてを知るはずの神が、あえてその彩りを求めて人間になる――それは自身にも計り知れないほど刺激的な行為だった。


彼はまたふいに思う。青銅器や鉄器があり、王がいて、戦が起こり、愛や欲望が乱れ合うこの時代ですら、きっと序の口に過ぎない。人々はやがてさらに精巧な道具や武器や技術を発達させ、世界の姿を塗り替えていくことだろう。そこには貴族や奴隷、新たな宗教や国境、交易や大航海時代などが待っているにちがいない。彼はその大いなる流れに胸を躍らせつつ、今はただ人間の死や悲喜劇を“面白い”と感じる己の感性を誇りに思っていた。


王として自らの血を流し、娼婦として男を受け入れ、兵士として矛を交わし、農民として土の香りを味わう――そこに広がるのは、愛しさと哀しさに満ちた生の現場だ。彼の心はもう、かつての冷徹な観測者とは別人のように、その営みにとりこまれている。いつ戻っても自由だが、いつ降りてもまたスリルと愉悦が待っている。しばらくはこの星を去る考えなど浮かびそうもなかった。彼はまだ数えきれないほどの人生を楽しめるだろう。それこそがいま、神としての最大の喜びなのだから。

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