第15話 繁殖する者たち

神という存在の彼にとって、地上を歩む人間の肉体を持つことは、ただ地を踏みしめたり空気を吸い込むだけでは終わらなかった。最初に男性の体を得たとき、彼は四十数回の公転――つまり四十年あまりの時を、地上のひとりの男として暮らしてみた。畑を耕し、獲物を追い、そしてなにより、人間同士が交わる行為に心を惹かれたのだ。


当初は、動物が繁殖のために行う本能的な行為としてしか認識していなかった。だが、人間の社会に溶け込むにつれ、その営みが必ずしも「子孫を残すため」だけではないことを知る。愛情や喜び、興奮や慰め――それらが複雑に絡み合って、時に互いを確かめ合い、時にただ陶酔に身を委ねる。彼にとって、その心身が混ざり合う行為は、宇宙をただ浮遊していたころにはまったくなかった熱と衝動を伴う新鮮な刺激だった。


男として暮らしたとき、狩りや農耕で得た獲物や作物を糧にしながら、彼は家族を持ってみることを選んだ。小さな集落の一角に小屋を建て、毎日のように仲間たちと汗を流し、火を囲んでは笑い合う。男同士で鍛えた体を誇らしげに見せ合い、夜になれば寄り添う者と交わりながら穏やかな睡眠に落ちていく。その相手となった女がやがて子を孕む姿は、不思議といとおしく、彼は自分でも驚くほどその生命の成長を喜びとして受け止めた。繁殖という生物的な目的とは別に、人間としての本能や欲求が、彼の胸を熱くさせたからだ。


ときには“ただ楽しみたい”という衝動で、互いの体を確かめ合うように交わることもあった。血が燃え上がるような興奮、汗の混じった独特なにおい、肌と肌が擦れ合うときの温かさ。終わったあとの開放感に抱かれながら、彼は「生き物の身体を持つ」とは、ここまで悦びに満ちた体験なのかと感嘆せずにいられなかった。そして四十数回の公転が過ぎるころ、男の体は老いに蝕まれ、寿命を迎えるに至る。まさに最期の時、その身体は活動を停止したが、神としての彼の意識はやすやすと離れ、自らの本質たる観測者としての姿へ戻っていった。


一方、別の機会には、女性の肉体を作り上げて人生を送った時期もある。そのときは五十数回の公転――およそ半世紀にわたって女として生きてみた。体に宿る感覚は男のそれとは異質だった。月の満ち欠けに呼応するように体が変調を起こし、血の巡りに翻弄される日々。それでも神はその不思議に満ちた身体を楽しんだ。身ごもる可能性や、一度に多くの相手から誘いを受ける立場にいるという男女差が生み出すドラマは、男として暮らしていたころとはまるで違う色彩をもたらした。


ある時は、彼女として暮らしていた集落で争いに敗れ、男たちの欲望の捌け口にされかけたことがある。最初は身を守ろうともがいたが、次第にその行為の只中で感じる興奮や甘美に心をとろかされていった。敗北の結果として、村の男たちと次々に交わる展開は、一見すると屈辱かもしれない。けれど自分の身体に洪水のように押し寄せる感覚、快楽や恍惚という名の一時の陶酔感。痛みと歓喜の境界で、神は人間が持つ「性欲」と呼ばれるエネルギーが、どれほど圧倒的に強く甘いものなのかを知った。敵対や支配といった動機から生まれた交わりですら、こうして別の形の官能へ転じるのだと悟ったとき、彼は言いようのない感慨に襲われた。


その数十年の間に生まれた子のうち、自分の血を分け与えたのかどうかさえ、神にはわからない。それでも、連れ添った男や、時には自分を所有物のように扱う集落の長や戦勝者が、自分の体を求めてくるさまを、彼女の立場で冷静に、しかし満ち足りた感情をもって受け止めていた。単なる繁殖以上の意味を帯びる交わりという行為が、男女の互いの心をどう変化させるか。それを肉体の感触と共に学んだことで、神にとって人間の営みはさらに奥行きを持つものとなった。


何十年かを過ごして女の身体が再び老いの入り口に差しかかった頃、神は心の中で「そろそろだろう」と呟き、その肉体を潔く手放した。まるで服を脱ぐように意識を解き放てば、神としての本質にすぐ戻れるのだから、怖れも迷いもない。ただ彼女として生きた時間が意外と心地よく、どこか名残惜しい思いが胸にちらついたくらいだ。女の体で感じた官能や甘さ、時に入り混じる痛みや苦悩も、全てがかけがえのない瞬間として記憶に残る。一度経験したら満足というわけでもないが、これほど長く人間の生を謳歌したのは初めてだったので、しばらくは余韻に浸ってみようと思うのだった。


その後も、神は地上へ降りるときには男にも女にもなれるし、あるいはどちらでもない身体を作り上げることも簡単にできる。それは神としての力のなせる業に違いない。しかし、最も洗練され進化を遂げた人間の身体に寄り添ってみることで、神は性という名の原始的かつ複雑な衝動が、人間社会や心のありようにいかに深く根を張っているのかを知った。子を残すためだけではなく、その行為自体に多幸感や結束、時には支配や従属といった社会的意義が付加される――生物学的な本能を超えた領域に、人間は踏み込んでいるのだ。


「こんな営みがあるなんて、思わなかった」


星や宇宙をただ漂い、永遠に近い時間を過ごしていた彼には、それが正直な感想だった。生殖の手段が、これほどまで甘く、時には激しく、そして複雑に彩られた関係性を生み出すとは。しかも、その悦びは一度きりでは終わらず、生涯にわたって何度でも味わおうとする。男性としては自分が他者を求める欲動が燃え上がり、女性としては相手に抱かれる陶酔を堪能する。人間の数だけ、その形は違う。そこに嫉妬や愛情、契約や儀式、戦いと和解、喜びや悲しみが盛り込まれていく。彼が地上で経験した数十年ずつの暮らしは、それだけで止めどない物語に満ち溢れていた。


また本来の無形の存在へ戻るとき、神はどこか満ち足りた気分に浸っていた。身体は滅んでも、記憶や感覚は神としての意識に溶け込んでいる。かつて真っ暗な宇宙の中でただ星々を眺めていたときの無重力の自由さも好きだったが、いまはその自由の中に、性と身体と心が織りなす人間世界という新たな“味”が加わっている。誰かに語る必要はない。なにしろ神であり、孤独でありながらも世界のすべてを感じ取れる存在なのだから。


神は今日も漂いながら、地上にちらほらと点在する焚き火の光や、野を駆け回る人々の営みを目で追っている。必要があれば、また身体を創って降りていけばいい。男と女、あるいはそのどちらでもない姿で。そこにどんな喜びや悲しみが待っているのか、想像するだけで胸の奥が小さく弾んだ。争いを繰り返して生き延びる人間、愛や欲望に身を委ねる人間――彼らは複雑な社会を動かしながら、未知の未来へと足を踏み出している。神としては、またいつか参加してみるのも悪くない。心身が交わる甘美の瞬間を思い出すたびに、胸のどこかが温かくなるのだから。

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