第14話 争う者たち
時折、彼は気まぐれに地上へ降りては人間たちの営みをじっと観察するようになっていた。農耕が始まると、その変化の早さには彼自身も驚いた。ほんの十回程度、公転を繰り返す――つまり彼らの暮らしにして十年ほどの間に、村の畑はみるみる拡大し、森や荒れ地を切り開き、整然とした畝を作り上げては種を蒔いていく。それまで狩りや採集が中心だった生活が、急速に「耕す」ことによって収穫を得る形に変化していた。
彼はときどき、その種蒔きの作業を手伝ってみることがあった。地上に降り立って身体をまとったまま、人間の男女に混ざって土を掘り返してみる。たっぷりと水を含んだ黒い泥が爪の隙間に入って、腕に土のにおいがこびりつく。集落の人々は最初こそ戸惑っていたが、そのうち彼の手際のよさを見て「おまえも仕事をしてくれるのか」と笑い合い、土の塊を彼の足元に掘り投げるようになった。力仕事に慣れていないらしく、彼が余計な動きをしてしまうと仲間たちは無邪気に笑ってからかう。それでも手を貸してくれるのは、人間のやさしさにほかならず、彼はそういう小さな触れ合いに何度も穏やかな幸福を噛み締めた。
何度かの収穫と、その合間の飢えや飢餓を経るうちに、ある集落は豊かになり、別の集落は貧しくなった。貧富という概念が生まれ、それはやがて「どうしてあの村にはあれだけの食糧があるのに、こちらは足りないのか」という疑問や不満を引き起こした。神である彼にとっては、余剰が生まれるくらいに食糧を蓄えるなんて、古の狩猟生活では考えられなかった大変化で、その仕組み自体が新鮮だった。人々は蓄えを管理し、足りない者や別の価値を持つ品を手にした者に分配する。そこにはもう単純な“食うか食われるか”の自然の摂理とは違う、ある種人工的な仕組みが見え隠れしていた。
やがて、誰がたくさん持っているか、誰が持っていないか、という格差によって争いが生まれた。かつては動物を仕留めるための武器を、今度は人間同士に向けるようになったのだ。森の中で集落同士が鉢合わせし、食糧や物資をめぐって衝突する場面を目にするのは、彼にとってたいへん興味深いことだった。どちらが圧倒的に強いわけでもない。大抵は石斧や木の槍で、ぎこちなくも必死に相手を突き刺そうとするか、逃げ回るかしている。死者やけが人が出ると一気に士気が下がり、一方が引いていく――その繰り返しだ。彼らがこの争いをなんとも不毛だと感じていないところがまた面白かった。憎しみと怒りで、勝たねばならぬと拳を握りしめる人間たちを遠くから眺めていると、彼はかすかに胸が高鳴るのを覚える。
そんなある日、彼はあえて自分もその争いに混ざり込んでみることにした。ちょうど、二つの集落が川沿いの藪の中で小競り合いを始めたときのことだ。片方の男が大声で怒鳴り、もう一方の若者が槍を振り回して応じる。すぐに何人かが投げ槍を放って、それを受けた大柄の男が痛みに呻きながら倒れ込んだ。血のにおいが空気に漂い、交錯する足音が川岸を踏み荒らしている。彼が躊躇なくその場に飛び出してみると、一瞬、両方の集落の人間が「何者だ?」という警戒の眼差しを向けた。けれど、程なくして彼は地上の“人間”の体格をしていると認識すると、それぞれが自分の味方にしようと近寄ってくる。武器を握らされ、ある者は「一緒にあいつらを仕留めるんだ」と叫び、また別の者は「おまえもあちら側か!」と襲いかかろうとする。
奇妙な興奮を覚えながら、彼は木で作られた原始的な棍棒のような武器を振るってみた。何度か空振りして笑われながらも、勢い余って相手の肩に叩きつけると相手は苦痛で表情を歪め、その場にうずくまった。槍先がかすめて自身の腕を引っ掻くように通り過ぎる時、軽い痛みと皮膚が裂ける感触があり、彼はその生々しさに鳥肌を立てる。血がにじんでいるのが見えると、近くでそれを目撃した敵対者が勝ち誇ったように笑う。その表情に憎悪や脅えや興奮が入り混じっているのがはっきりとわかる。彼はそれを見て、じわりと体が熱くなるような衝動を感じた。
激しく息をつきながら周囲を見回すと、何人かはすでに地面に倒れ込んで動けなくなっている。どちらが優勢なのかも判然としない中、ぶつかり合いは混迷を極めていた。槍や棍棒のぶつかる音と、罵り声や悲鳴が交錯し、血の匂いが川辺の湿った風に溶け込む。結局、どちらかの集落が大きな被害を出し、少しばかり食糧や道具を奪われて引き下がる形で、乱戦は終わりを迎えた。残った方も、勝利の代償として負傷者を大勢抱え、手当てに追われる。その一部始終を中に混じりながら体験した彼は、まったくもって不思議な満足感を覚えていた。命を殺し合う狩りとは違う、種同士の戦い――なんと不毛で、なんと必死で、なんと強烈な光景だろう。彼はぼんやりと辺りを眺めながら、泥だらけの手を洗った。
その晩、彼は勝ったほうの集落の焚き火に招かれるような形で残った。腕に負った軽い傷から血がこぼれ、ひりひりと痛んではいるが、動きに支障はない。集落の女たちが器用に薬草をすり潰し、布切れのようなもので応急処置を施してくれた。戦いの後なので余裕がないかと思いきや、そこには疲労と緊張を伴いつつも、噛みしめるような「勝った」という達成感があった。彼は静かにその空気に浸りながら、また発酵させた果実の酒を勧められ、火の周りで息を潜めるように座る。
「どうして争いなんかするのか」と、もしも彼らに問うたなら何と答えるだろうか。豊かな集落の食糧や器具を手に入れたい、仲間を守りたい、あいつらが憎たらしい――いろいろな理由があるだろう。だが、その根っこには農耕や蓄積がもたらした「財産」という概念があって、互いに不足を感じるからこそ、それを取り合おうとする。要は不毛といえば不毛だし、必死といえば必死だ。彼はその矛盾を深く笑いながら、「これはこれで、長い進化の果てに見られる新しい闘争だな」と楽しんでいた。
火の光を眺めていると、隣に座っている壮年の男が、声を出さずに彼を見つめてくる。瞳には好意的な光と同時に、どこか険しい緊張感が宿っていた。勝ちはしたものの、明日にもまた敵が襲撃してくるかもしれない。その不安は拭い去れないのだろう。「明日もおまえはいてくれるのか」とでも言いたげだが、言葉にはならない。彼は苦笑して、軽く肩を竦めるしかなかった。明日いるかどうかは、彼自身にもわからない。なにしろ神にも等しい存在であるがゆえに、ちょっと気まぐれを起こせば、また空へと意識だけになって帰るかもしれないのだ。
とりあえず今日は、この傷ついた身体で人間たちと同じ釜の飯を食うことにするか――そう思いながら、彼はちょっとだけ体をずらして火のぬくもりを背中にも感じるように座りなおした。思えば、闘争が起きるからこそ、彼らは必死に工夫し、武器を作り、集団を強固にする。農耕が生まれるからこそ、富を巡って争いが起こる。その不毛さも含めて、なんと奥深いドラマなのだろう。彼は鼻先に漂う焦げた肉の匂いを感じながら、ほのかに赤く照らされた夜空を見上げた。かつてただの動物に見えた人間たちは、いまや濃厚な人間社会を築き始めている。それは螺旋を描くように発展し、時に破壊し合いながらも、また別の形を産んでいくのだろう。
彼はその新たな段階に踏み込んだ世界を、たまらなく面白いと感じていた。夕闇の風にちらつく焚き火の炎は、かつて彼がこの星を観察してきた長い歴史のなかでも、もっとも奔放で奇妙な輝きを放っている気がする。その奥底には、生命が生きるための必死さだけではなく、欲望や嫉妬や苦悩といった濃密な感情が渦巻いているからだろう。彼はまだ、すべてを見届けるつもりだ。願わくば、次に地上に降りるときは、もう少し強い武器を自分で持てるようにもなってみたいと密かに思う。彼らが何を作り出していくのか、もしかしたら自分が手を貸せばさらに面白いことが起こるかもしれない――そんな考えが頭をよぎりながら、彼はうっすら笑みを浮かべたまま火の揺らめきに目を凝らしていた。
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