第3話「どうやって死にたい?」
結局、事情を正しく説明する事は諦めた。
「ストレス発散の為に屋上へ行ったらたまたま飛び降りようとした女が居て助けようとしたら一緒に落ちた」
ほら。文章にするだけで理解する気が失せる。
「一夏ぁ、お母さん一人にしないでよぉ……」
ストイックな母親の演技に限界を迎えたのか、私の腰にしがみ付いてスンスン鼻を啜りながら泣き始めたお母さんの頭を撫でてため息を吐く。
「だから……事故みたいなもんだから、大丈夫だよ」
全く、相手が肉親という事を鑑みても大の大人が晒して良い醜態じゃあないよな、これ。看護師さんたちが居なくなるまで我慢したのは褒めてあげるべきなんだろうけど。
私が物心つく前にお父さんが事故で死んで以降ずっと二人で暮らしてきたからか、どうにもこの人を母親として認識できない所がある。すぐ泣くし、料理も下手だし全然頼りにならない。ちょっと年の離れたダメなお姉ちゃんって感じだ。
まあ、実際クラスメイトの両親と比べると結構若いのだけれど。小学校の頃はお母さんが授業参観に来ると友達が「若い」とか「美人」とか褒めてくれて、私も何となく鼻が高い気持ちになったものだった。
これで学生時代は四字熟語みたいな名前の暴走族のチームで華やかな反抗期を過ごしていたというのだから驚きだ。お父さんにプロポーズされなかったらこの人はどんな大人になっていたんだろうか。
鼻を啜り続ける母親の頭頂部から窓へと視線を移す。私が飛び降りた(という事になっている)というのとは関係ないのだろうけど、窓から地面は随分と近かった。それでも、頭から落ちれば死ねるのだろうけど。
あんな高さのビルから落ちて助かるのに、こんな低い窓から飛び降りて死ねるなんて。生き物ってあべこべな作りだなぁ、と感心してしまう。
人間なんて地球の大きさと比べれば、自然の偉大さに比べれば、という言い回しはよく聞くけれど、医者の話によれば久本が衝撃を殺しながら落ちてくれたおかげで(非常に癪な言い回しだが)助かったらしいし、久本は「死にたくない」という意思の力で地球という巨大な星の重力に勝ったことになる。
「……そういえば」
久本は死ぬ為にあの屋上に来たんだろうな。
色々と妙な理屈を捏ねていたけど、まさか本気で空を飛ぼうとしたわけでもあるまいし。そうすると久本は私を死なせないために予定をキャンセルして生きてくれたという事になる。
さっきまではぶっ殺してやるという気持ちだったが、多少は感謝するべきなのだろうか?
と、そこまで考えた所でベッドのカーテンが乱暴に開かれる。診察中もずっと腫れ物に触るようだった看護師たちではあり得ない乱暴さだ。
「や」
おおよその予想通り、開いたカーテンの向こう側にはムカつく笑顔の女──久本が立っていた。今は入院着を着用していて例のジャージではないけれど、流石に顔は覚えている。
それも、二本の脚で立っていた。片腕にギプスを嵌めてはいるけれどそれ以外に目立った外傷も無さそうだった。
久本はニヤニヤと笑いながらベッドの上で何も言えずにいる私を見下ろして続ける。
「何本折った?」
「2本。お陰様で206分の2でした」
「103分の1でしょ」
「人の骨を勝手に約分すんなよ」
笑い方はムカつくけど助けてもらったのも事実だし、この女に対してどういった態度を取ればいいのか分からず、どうでも良いような言葉を返してしまう。迷惑を掛けられたという気持ちは今も健在だが怒鳴りつけたりするのも何だか筋違いな気がするのだ。
「──久本さん、改めて。娘を助けてくれてありがとうございます」
いつの間にか体を起こしていたお母さんが神妙な顔で久本に頭を下げているけれど、まずは鼻水を拭いた方がいいと思う。
ベッド脇にあったティッシュでお母さんの顔を拭きながらふと、筋の通った文句があるのを思い出す。この女、自分が飛び降りた癖に私を哀れな自殺未遂者に仕立て上げたんだった。
「ねえ、久本──」
口を開きかけた私を抑えつけるような勢いで、久本がずいとベッドの傍まで進み出る。
「いやいやいや!人間として当たり前のことをしたまでですよ、お母さん。一夏ちゃんもあんなに辛い目にあったらそれは当然ってもんです」
──あんな辛い目?
私の頭に小さく違和感が走る。だが、久本の騙りは止まらない。
「"写真"の件は友達である私も相談を受けていたのですけれど、学生の身分だとどうしようもなくて。先生にどう伝えるべきかと迷っているうちにこんな事になってしまって、申し訳ありません」
待て。写真がなんだって?そんな事久本には一言も言ってない。お母さんが話したのか?私の了解も得ずに?そんな訳ない。あり得ない。
「ひさ──」
二度目の開口も、久本の人差し指で抑えつけられる。
「お母さん。すみませんが一夏ちゃんと大事な話があるのでそこで黙って座っててもらえますか?」
違和感。小さな疑問にも等しかったそれは明確な形をもった恐怖となって目の前に現れる。
「はい」とだけ言って、うんともすんとも言わなくなったお母さん。身じろぎする事もなく久本に"お願い"されたままの姿勢で固まっている。
マネキンのように無表情で、ではない。娘の友達の前で鼻水を娘に拭かれて照れ臭そうにしていた顔のまま、ただその形で固まっている。
時間が止まってしまったのかと思うような完璧な静止。時折呼吸の度に肩が上下するのだけが無機物とお母さんを分けている。
小さな違和感を、大きな恐怖で吹き飛ばされて二の句が継げない私を久本が覗き込む。ムカつくニヤニヤ笑いはいつの間にか引っ込んでいて、空虚な微笑みだけがそこにあった。病室の暗い照明で輝く濡れた睫毛が私の額に触れてしまうのではないかと思えるほどの距離感。
静まり返る病室で、私の荒い呼吸と久本がゆっくりと体を近づけてくる衣擦れの音、そして秒針の音がやけに大きく響いている。
「私は──何をやっても上手くいくんだ」
秒針に遠慮するような囁き声が耳孔を擽る。
「君の事情を知りたい、と思えば知る事が出来るし」
「お母さんに立ち上がって欲しい、と思えば」
お母さんが、ゆっくりと立ち上がる。その為だけに作られたブリキ人形のように、一切の無駄がない動作で。
「窓を開けて欲しい、と思えば」
また、お母さんが動き出す。ブリキ人形に目的を刻み込んでいく。
「その窓に足をかけて欲しい、と思えば」
動く。
「飛び降り──」
がしゃん!
カーテンを巻き込んだからか、派手な音を立てて久本がベッドの上から転がり落ちる。その高く細い鼻筋からは紅く血液が垂れていた。
ただでさえ濡れっぽいその睫毛に、朝露のように涙が滲んでいる。それでも、拳を握りしめて震える私を久本は微笑みながら見上げていた。
「間に合わせたのは褒めてあげるけど、殴り飛ばしたのはマズかったね」
「次に私が口を開くまでにここまで歩いてこれるのかい?その足で」
「何が、したいんだ。お前」
幽霊、超能力、宇宙人。世の中にはオカルトが溢れているけれど私は生憎そのどれも信じる気にはなれない。だけど、お母さんがあいつの言う通りに動いているのは紛れもない事実だ。
冷静に考えれば悪質なドッキリである可能性の方がまだ高いとしても、久本の言葉には異様な現実味があった。こんな訳の分からない状況でも咄嗟に動けたのはコイツに喋らせ続けたら確実にお母さんがここから飛び降りる、という確信にも似た恐怖が沸き上がってきたからだ。
全く力の入らない下半身を引き摺ってベッドの脇まで移動しようとする私を見ながら、久本は頷く。
「君のせいで私は死ねなくなってしまった。せっかく勇気を出して一世一代の自殺を試みたのに」
「知ってるかい?自殺未遂者の2度目の自殺は、大体失敗するそうだ」
鼻血を入院着の袖で拭いながら久本はニヤニヤ笑いをまた貼り付ける。
「死ぬ、という事の意味をはっきりと理解してしまうから。2度目の自殺は1度目のそれとは比べ物にならない程恐ろしい」
「さっき私は病室から飛び降りようとしてみたけれど、恐ろしくて足が竦んでしまって無理だった」
きっと、首つりでも電車への投身自殺でもそうだろうと久本は笑う。
「だから、腹いせに私を不幸にしてやろうって?」
「いいや?さっきはああいったけれど、別に口に出したら必ずその通りになるわけじゃない。私が本気で望まなければお母さんも飛び降りたりはしないからね、安心しなよ」
「ただ、そういう事も出来るという意思表示でもある。端的に言えば脅しだ」
脅し。映画や漫画、あるいはドラマでたまに聞く言葉だし、知らない人はまあいない言葉だろう。だが、ここまではっきりとその意味を理解する人間もまたそう居ない。
「言う事聞かなきゃ母親を殺すぞ、って言いたいの」
「そうだ」
お母さんの為に、私は何をどこまで出来るだろう?
金?まあ出来る限り。
痛み?それもまあ出来る限り。
身体?これも同じく出来る限り。
命──は、無理かも。
死ぬのは、怖い。他人の為に死ねるならとっくにあのビルの屋上で自分の為に飛んでいる。自分の為にすら死ねないやつが他人の為に死ねるもんか。
「──何を、すれば」
締まり切った喉から震え声を絞り出す。何をさせられるか、というよりもお母さんを見捨てるという選択をしなければならないかもしれない、という事が何より怖かった。
そんなの、最低だ。
そんな私の恐怖を知ってか知らずか久本は安心させるような穏やかな笑みと共に、一冊のノートを取り出す。学習帳のように見えるそれには『自殺カタログ』というタイトルがマジックペンで綴られていた。
それをパタパタと振って久本は可愛らしく小首を傾げる。
「私と一緒に怖くない死に方探して!お願い!」
ヒキワリライラック もやし炒め @moyasi_itame
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