第2話「覚えてろよクソ女」
「一応聞くけど、何をしてるのかな?」
屋上から身体を全部投げ出して宙ぶらりんになった女が怪訝そうな顔を向けてくる。何もクソもない。屋上から飛び降りた女の身体に私がしがみ付いて、柵に足を絡めながらギリギリで踏ん張っているだけだ。
だけど、見たままの事をそのまま返しても仕方がないので、早くも疲労を訴え始めた腕に再び力を込めた後に。
「命を、助けてやってんだけど?」
そう、返した。女はいっそう怪訝そうに目を細める。月明りを反射して水っぽく光る睫毛と、反対に月明りを透過しているかのように思える透明な肌が綺麗だった。いや、それどころではない。
「私も一応聞くけど。あんた何やってんの?」
軽いとはいえ、人一人分の体重に引き込まれて私の身体が10cm程死に近づく。そんな状況でも問答を続けるのには明確な理由がある。今、この状況で二人共助かるにはコイツにも手伝ってもらわなければならないからだ。
身体を持ち上げて、柵に捕まって、二人で協力して屋上へ戻らなければならない。だから何とかしてコイツに助かろう、という気分になってもらわなければならないのだ。だけど、そんな私の目論見は次の一言で吹っ飛んだ。
「空を、飛ぼうと思って」
「──は?」
素っ頓狂な答えに、力を抜かなかったことを褒めてやりたい。
「私って、何をやっても上手くいくんだよね。だから、もしかしたら空も飛べるかもと思って」
もう、離しても良いんじゃないだろうか。こんな訳の分からないヤツはしがみ付いた拍子に落ちていった眼鏡の後を追えば良い。そんな考えに反して、私は震え出した自分の筋肉に鞭打って女の身体を数センチ持ち上げる。6年間毎日汗水垂らした運動部様を舐めんなよ。
「だった──ら、失敗、でしょ。落ちてた、じゃん」
ギギ、と柵が軋む音が響く。まさか折れたりしないだろうな。
「うーん」
私の心配をよそに、女は──また、ジャージの胸元が月明りに照らされて"久本"のタグが見える。そうだ、久本。随分前に流し見した映画で交渉には名前が必要、とか何とか言ってたような──。
「じゃあ、私は実は幽霊で」
「はぁ?」
「生前の飛び降り自殺を繰り返しているだけ、とか」
宙ぶらりんのまま腕を組んで唸る久本。
「あるいは、私は不死身の怪物で死ぬ方法を探しているのかもしれない」
「…………ぞ」
「うん?」
「だったら私が殺してやろうかクソ女ッ!そんなふざけた理由で私を巻き込んで──」
「いや」
たった数分前の絶叫最高記録を早速更新する私を久本は指で指して黙らせる。
「君が勝手に私の身体を掴んで死にかけているだけだろ。私を見殺しにして気分が悪いというのは君の勝手な都合だし、助けなかったら何かしらの罪に問われるかもしれない、という話ならもっと知らない。本来立ち入り禁止の屋上に入るのが悪いんだ」
状況的にその心配はないと思うけれど、と締めて私の返答を待つように腕を組んだ久本を見下ろして、私はその無茶苦茶な理屈に打ちのめされたような気分になっていた。大体その通り、というかもっと酷い。
私がこの女の身体にしがみ付いたのは見殺しにしたら気分が悪いし、もしかしたら何かの罪に問われるかもしれないからだし。
私が自分が落ちそうになっているのにまだこうして踏ん張っているのはムカつくからだ。
何がって。
さっきまで私は世界で一番不幸な気分だったのに、横からやってきた名前も知らない奴に先を越されたという事実にムカついているのだ。
お前の悩みなんかどうせ大したことないんだから、私より先に死ぬな。どう考えても私の方が飛び降りるに相応しい人間だ。その私が二の足を踏んでしまったのにお前みたいなヤツが笑顔で飛び越えていくなんて許せない。
改めて整理してみると本当に酷い理屈だった。感傷で許される範囲を明らかにオーバーしている。
だからといって、それを久本に糾弾される謂れはない。
「じゃあ、私の勝手で助けてやる。私の都合で助けてやる。久本が死にたいってならそれはお前の勝手な都合だし、私に助けられて迷惑だって話ならもっと知らない。私が立ち去る前に飛んだお前が悪い」
自分でもよく分からない理屈をベラベラとまくし立てると、よく分からないけど気分が良かった。理由は分からないけれど言い負かした気になった。驚いたように目を見開く久本の顔が心地よかった。
また、渾身の力を込めて久本の身体を持ち上げる。体温が実際に上がっているのか錯覚なのかは分からないが寒さはもうちっとも感じなかった。
また、柵が軋む。反射的にその音の方向を見ると柵の根元が錆びているのが見えた。厭な予感を覚えながら視線を戻すと、もっと不吉なものが見えた。
久本が──笑っていた。窓際の席で春風に吹かれながら本の頁を捲り、それに見惚れる私に気が付いたように、笑っていた。
柵が、悲鳴を上げる。久本は、まだ笑っている。そして、ほんの少しはにかみながらこう言った。
「お互い生きてたら、友達になろう」
返事の代わりに、柵が折れる。手を離し損ねた私は、久本と同じ場所へ放り出された。
吹き上げる風に全身が包まれるのを感じながら、アスファルトを見下ろして私は。
(空を飛ぶのって気持ち良いな)
と、思った。
◆
目を覚ました時、ベッドの傍にはお母さんが居た。私が目を覚ましたことに気付いたのか、ぼさぼさの黒髪を短く切ったショートヘアが揺れる。
「一夏」
お母さんは大げさに騒いだりはしなかった。ゆっくりと立ち上がって部屋の外に歩いていき誰かに目を覚ましました、とだけ報告してまた同じ歩調でベッドまで戻ってくる。
どうやらそこは病院のようだった。個室ではないらしく周囲にはカーテン付きのベッドが見えるが誰も寝てはいない。じゃあ、さっきのは看護師さんに報告に行ったんだな、と考えているとお母さんはゆっくりと座って私の手を握って低い声で私に問う。
「一夏。あんたがどうしても我慢できないっていうなら、アイツにトドメ刺してやろうか」
ぼんやりした頭ではアイツ、が一瞬誰の事か分からなかったがすぐに思い出した。頭を数針縫って入院中であろうアイツ、の事だろう。
「ほんとは聞かずにやってやるのが筋だと思うんだけどね、そしたらあんた一人になっちゃうから。一人で生きていけるってあんたが思えるなら──」
私の喉が中々開かないのを良い事に話を進めようとするお母さんの手を握り返して、かすれ声を絞り出す。
「……無理、に決まってん、でしょ。いいよ、もう」
いいよ、というのは許したとか無かったことにするとかそういう話では当然ない。またアイツの顔を見る事があれば私は今度こそ確実に息の根を止めてやるつもりだ。それでも、出来ればもうアイツの顔を見たくはなかった。関わり合いになりたくない。
許すとか、許さないとか、怒るとか、殺すかどうかとか、もう、そういう体力をあんな奴の為に使いたくなかった。だから、もういいのだ。
一言でいえば疲れた、という感想を「いいよ」というまた別の一言に込めた私の顔を、お母さんは真剣な眼差しで覗き込んでいる。
「よくないでしょ。だったら、なんで飛び降りるなんてマネしたの」
──はい?
いや、ちょっと待った。なんで私は今病院に居るんだっけ?鞄で叩きのめしたアイツが病院に居るならともかく、なんで私が?
「久本さんが居なかったらあんた、死んでたかもしれないのよ!?」
ひさもと?久もと──
「久本ッ!!!」
記憶のフラッシュバックと共にまたしても絶叫の最高記録を更新したことにより噎せてしまった私の背中を叩きながら、お母さんは続ける。
「飛び降りようとしたあんたを庇って一緒に落ちたって。人通りもなかったから、先に目を覚ました久本さんが救急車呼んでくれなかったら本当に危なかったんだからね!」
私より先に飛び降りた癖に、私より先に目を覚ましたのか?あの高さから落ちて?そういえば、さっきから足が動かない。というか感覚がない。慌てて布団を捲るとガチガチにギプスで固定された両足が露出する。
「あんな高さから落ちて両足骨折だけで済んだのは奇跡だって。一緒に落ちた子が上手く衝撃を殺しながら落ちてくれたみたいだって、救急隊の人が言ってたよ」
そこから先のお母さんの言葉は耳に入ってこなかった。つまり、アイツは──私よりも先に目を覚ましたのを良い事に飛び降りの順番を入れ替えたのか。都合の悪い事に私は自分でも言ったように、飛び降りてもおかしくない出来事を経験したばっかりだ。
これ以上ない説得力をもって私は自殺未遂の哀れな女の子に、久本はそんな女の子を救ったヒーローになったわけか。
「……す」
母親が看護師に呼ばれて部屋の外へ歩いていき、医者が私に向けて何か言っているのを聞き流しながら私は一生懸命に殺意を口内で噛み殺していた。
覚えてろよ、クソ女。絶対に探し出してぶん殴ってやる。
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