ヒキワリライラック
もやし炒め
第1話「そんな汚らしいもの」
血と汗と涙の結晶なんてものがこの世に存在するのなら、そんな汚らしいものには今後一生関わらないで居たいと思う。何故なら──血には痛みが伴い、汗には疲れが伴い、涙には悲しみが伴っているからだ。正真正銘の三重苦じゃないか。
放課後、窓際から見下ろした校庭にはグラウンドを汗を垂らしながら走る運動部や炎天下にも関わらずわざわざ屋外に出て名前も知らない楽器を鳴らす吹奏楽部の面々がいらっしゃる。みんな青春って名前の集団幻覚を見ていて、取返しの付かない所まで症状が進行しているらしい。
そして私は冷笑主義の重病患者、か。
別に私だって毎日こんな事を考えてるわけではないし、何ならついさっき退部届を提出するまでは私もあの中の一員だったのだ。
「何かをバカにしたくなるのって──自衛なのかなぁ」
そんな風に独り言ちていると教室のドアがガラガラと音を立てて開き、一人の男が入ってくる。ヘラヘラと軽薄な笑みを浮かべるその男は、現在進行形で私の交際相手であり。
「一夏、部活やめたん?なんでよ」
今から私が殺そうとしている相手でもある。
足元に教科書や学校生活に必要なものがパンパンに詰まった鞄があるのを確認してから、一枚の画像を表示したスマートフォンの画面を男に見せつける。
「これ、流したのあんたでしょ」
肌色でいっぱいになった画面。それはこの男の所属するグループラインに投下された私の画像だ。どんなものかについては一々口にしたくもない。隠し撮りされていた事に気が付かなかった私にも落ち度はある。だから、これは糾弾ではない。ただの前振りだ。
顔を青ざめさせ、間違えて~だの、すぐに消そうとしたけど既読が~だの、ペラペラと喋っている男に向けて精一杯の作り笑いを浮かべる。
「ちゃんと、聞かせて。反省してるなら謝罪も」
自然に、出来る限り自然に。隣の席の椅子を引いて男を座らせる。私の身長ではコイツに立たれていては狙えない。
「そりゃ怒ってるよ。これをあんたの友達から見せられた時の私の気持ち、分かんの?」
自然に、怒りを滲ませる。これが一番難しかった。笑顔を浮かべる事よりも。
「いいから。あんたの口からここで皆に消すように言って。ほら、今」
鞄を肩にかけ、男に自身のスマートフォンを握らせる。グループラインにたどたどしく消しては書き──とメッセージを送っている男の背後に立つ。
あとは簡単だ。鞄の肩ひもを両手で持ち、大げさな助走距離を付けてちょっとした家電くらいの重量を後頭部に思いっきり振り下ろす。
私の怒りと覚悟と想像に反して低く、鈍い音が一度だけ響いて男は教室の床に転がる。アニメや漫画のようにはいかず、激痛にのたうち回りながら叫ぶ男の頭めがけて何度も鞄を振り下ろしたが動く相手には上手く当てられなかった。
血相を変えてやってきた教師に取り押さえられるまでに何発叩き込めたのか、私もいまいち覚えていない。私の頭がきちんと記憶の作業を再開したのはアイツが病院に運ばれ、生徒指導室で教師に囲まれて事情を聴かれ出した辺りからだ。
流石に教職。原因である画像を一人の教師が確認すると男性教師は蜘蛛の子を散らすように撤退していき、残ったのは傷に触るように恐る恐る優しい言葉をかける女性教師だけだった。
そこからはどんな話があったのかは知らない。結局のところ、アイツの親は被害届を出さなかったし、学校側は私を停学処分にすることで落ち着いたらしい。学校という閉鎖空間はこういう時に便利なんだな、と他人事のように思った。話を終えた教師の荷物を纏めて自宅で待機しなさいという言葉に、凶器を持ち上げながら「これに全部入ってるんで大丈夫です」と返した時はほんの少しだけ小気味よかったのは覚えている。
私の決死の覚悟は何も変えなかった。アイツは頭を数針縫ってそのうち学校へやってくるだろうし、あの画像は教師の目の届かない所で残るだろう。
もっと、恥を忍んでネットで大騒ぎすれば野球部の活動停止くらいには追い込めただろうか。
「なんだ、ソレ」
そこまで考えて顔を上げる。教師からの事情聴取もとっくに終わった真夜中、雑居ビルの屋上。
「なんで」
「なんで私がこれ以上身を切らなきゃいけねーんだよ!ボケェッ!!」
眼下に広がる街並みに向けて喉が裂けてしまいそうなくらい全力で叫ぶ。
「悪い事したら死ね!全員!勝手にィッ!」
「なんでッ、なんでッ、私が……」
掴んでいた柵に思いっきり体重を預け、身を乗り出して叫ぶ。後ろから突風が吹けば落ちてしまってもおかしくなかった。
「お前の為にここまでしなきゃいけねーんだァ!!!!」
寒風を吸い込んだ喉から鉄の味がする。鼻の奥がじんじんと痛む。柵を掴んだ両手から伝わる冷気が頭の後ろを小突いている。寒い。それを自覚した途端に胸の奥が何も出やしないのに絞られているような気分になった。
──いっそ、飛んでみようか。
そんな感傷すら無数にある心残りに一気に引き戻される。それが何より悔しかった。あんなに好きだったのに。あんなに一生懸命だったのに。何もかも台無しにされて、それでも時間が経てばそれも擦り切れてなかったことになる。
じゃあ、今までの私ってなんだったんだ。
痛みも、疲れも、悲しさも、全部偽物じゃないか。そんなもの一生懸命積み上げたっていつかは無かったことになる。嘘ばっかりだ。
だったら、私は。
血と汗と涙の結晶なんて、そんな薄汚いものには今後一生触れたくない。そんなものに一生懸命になって、右往左往するなんて。
「馬鹿みた──」
「ねえ、終わった?代わってもらっても良いかな」
私の感傷は、背後からの声で一気に断ち切られた。殆ど飛び上がるようにしながら振り向くと、いつの間に上がってきたのか、一人の女が壁に背を預けて気だるげに立っていた。
年恰好からして恐らく私と同年代か、一つ二つ上。制服ではないが長く伸びた黒髪と縁の太い眼鏡からは優等生のような印象を受ける。そして、とにかく美人だった。雑居ビルの屋上で、真夜中というシチュエーションも相まって幽霊を見たような気分だ。
私の一世一代の叫びに対して「終わった?」と声を掛けてきたという事実に対して怒りを抱く気にもなれない。退屈そうに欠伸をしながら空を見上げる彼女からは、何というか現実味のようなものが欠如していた。
馬鹿みたいに呆けて何も言えない私にしびれを切らしたのか、空から視線を降ろしてもう一度「代わってもらっても良い?」と尋ねる彼女に、私は同じように馬鹿みたいな顔をして三歩下がるしかなかった。
私が退いたのを見てその女は二、三度その場で軽くジャンプをしてアキレス腱を伸ばす。それに合わせたスポットライトのように雲に隠れていた月明りが辺りを照らした時、彼女が着ている服がジャージである事に気が付いた。どこのものかは知らないが学校指定らしく胸のあたりに「久本」と書かれている。
見た目からはかけ離れているが、運動部の練習か何かだろうか。それにしたって屋上でやる事無いだろうに、と現実に脳がようやく追いついてきた私が文句を口にしようとした瞬間、恐らく久本であろう女は信じられない行動に出た。
「よし──」
と、一息ついたその女は辺りには同じような高さの建物など存在しないビルの屋上を笑みを浮かべながら全力疾走で駆け、私の真横にあった柵に足を掛けたかと思えば──
そのまま、飛んだのだ。
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