ああ！昭和は遠くなりにけり！！

夏休みの長期合宿。娘たちの活躍がどんどん広がっていきます。

ああ、遠くなる昭和の思い出たち

淡い恋心・・・信子そして美穂と里穂

高原の何時もの朝が来た。今日もりすくんたちがやって来てくれた。

慣れてきたからだろうか、皆２人の手のひらに乗っかってくれる。

嬉しくて仕方がない２人だった。小さなお客様たちを見送ると2人で手を洗って朝ごはんだ。早速皆を起こして回る。まだまだ眠たそうな里穂を急かしながら顔を洗わせる美穂。２人のママのお化粧が終わるとレストランに向け出発だ。今日からは信子の運転だ。

何時もの様にフロントの支配人さんたちに朝のご挨拶を済ませる。すると居合わせた皆さんからも挨拶を頂く。

朝食は何時ものバイキングだ。今日からは２人のママがお留守番だ。優太君と３人娘が小皿を手に繰り出していく。今朝もまた３人の悲鳴に似た声が聞こえてくる。あの名物“富士山盛り”だ。そして沢山の焼きたてパンが乗った大皿を持ってくる優太君。今日からしばらくはパンを供給してくれる私が居ないからだ。

２人のママはすっかり海鮮丼が気に入っている様子だ。日本海から届く新鮮な魚介類はこの高原ホテルの名物でもあるようだ。

食事をしながら今週末の出張公演の話をする２人のママ。

金曜日の午後にはここを出て日本海側の都市へ前のり（前日に泊まる）するようだ。鉄道を利用するのが無難なのだろうか？

気持ちは遥香さんも一緒だった。一旦家へ戻る予定でいたが居心地の良いここの高原に少しでも長く居たいとの思いが強くなってきていたのだ。遥香さんが合宿先の高原へ向かうには山を幾つか越えなければならない。鉄道ではあまりにも時間がかかりそうな気がしていた。そんな話をしながら朝食の時間は過ぎて行った。

レストランを出るとそのまま高原高校へ向かう。信子の運転に慣れてきたようで車内は和やかだ。

昨日同様に音楽室へ。音楽部の皆さんは既に勢ぞろいで「おはようございます！」と元気な挨拶で迎えてくれた。

演奏の準備をしながら部長さんに日本海側の都市へ向かう交通手段を尋ねてみた。数人で集まって何やら話し合っていた。

「一番良いのは、駅前から高速バスに乗ることです。鉄道はローカルなので本数も少なく特急も走っていませんから。」と答えが返ってきた。なるほど！高速バスか！２人のママは顔を見合わせて頷き合った。

「あのう、私は合宿施設のある高原へ行きたいんだけど・・・。」遥香さんは家に戻らず直接向かうようだ。

「あっ、それなら路線バスが出ていますよ。でも２時間に１本くらい。他のバスは途中の街中までしか行かないんです。」と、同じような返事が返ってきた。鉄道だと一度大きな町まで戻ってそこから向かうしかなく、しかも本数が少ないとのことだ。

「駅までどうするの？遥香お姉さん。」心配そうに里穂が言う。

「里穂ちゃん。ありがとう。フロントでタクシーを予約してもらうから。」遥香さんは優しく気遣ってくれた里穂に笑顔で答えた。

「皆さんお忙しいんですね。」申し訳なさそうに部長さんが言った。

「ううん、そんなことないよ。だって何時ものことだから。」明るく笑い飛ばす美穂。

「えっ？お２人のお仕事って？」部長さんが尋ねる。

「うふ。私たちはね、オーケストラの楽団員なのよ。だから演奏会などであちらこちらを回っているの。」そう説明する優太ママ。

驚きの声が上がった。

「えっ！私たちプロの方に教えていただいているのですか？」

ちょっとした騒ぎになっている中、信子の携帯が鳴った。急いで音楽室から出ていく信子。そんな信子の様子に優太ママは何かを確信したようだ。一人でにこにこしている。やがて信子が戻って来た。

「千夏さん、何だって？」信子に尋ねる優太ママ。信子は指でＯＫサインを作った。

「皆さんに発表があります。部長さんと副部長さんには昨日お話をしていましたが、皆さんを指導してくださる先生が決まりました。私たちの同期で警察音楽隊の隊長をしている人がいるのだけど、隊員の方の妹さんがこの近所の国立大の音楽部管楽器科に通われているそうです。現在、４年生で教職の課程も取られているようです。毎週水曜日と土曜日に来ていただけるとのことです。」信子の報告に音楽室に歓声と拍手が起こった。皆さん飛び上がって喜んでいる。遥香さんを始めとする４人も喜びを分かち合っている。

再び信子の電話が鳴る。騒がしい音楽室を出ていく信子。

戻ってきた信子が息を弾ませて皆に言った。「今から来てくださるって！」その一言でまたまた大騒ぎとなった。

ある程度騒ぎが収まったところで昨日のおさらいをすることになった。優太君と５人衆のリードで演奏が始まる。なかなかの演奏だ。

皆さん、美穂の楽譜を家に持ち帰り何度もエアーで練習したそうだ。

その成果が如実に表れている。演奏を聴いている遥香さん、美穂、里穂の３人も昨日との違いに驚きを隠せなかった。

１時間ほど練習して小休憩をしていた時、音楽室のドアをノックする音が。「はーい！」そう言って信子が出迎える。皆一斉に立ち上がってお客様を迎える。入って来たのはロングヘアーで清潔感溢れる女性だった。皆さんが声を揃えてご挨拶をする。やや緊張気味のその女性も一礼して自己紹介を始めた。そして遥香さんと美穂と里穂と優太君を見て一瞬驚いた表情を見せた。

「私は“桜”と言います。現在大学音楽部４年生です。昨日教育実習先の北海道から帰ってきました。姉の上司が音楽隊の隊長で同じご学友の信子さんと美智子（優太ママの本名）さんのご紹介で伺いました。どうぞよろしくお願いします。」皆から大きな拍手が起こる。

そんな中、桜さんが信子に尋ねた。

「どうして、どうしてピアノコンクール同率１位の遥香さんと美穂さん、そしてヴァイオリンコンクール１位の優太さん、さらに民謡コンクール学生の部１位の里穂さんまで！がいらっしゃるのですか？」主だった面々が集結しているこの状況に頭が混乱しているようだ。また、この発言が音楽部の皆さんをパニックに陥れた。驚きの声や悲鳴に近い声が上がった。その声にグランドで練習していた野球部とサッカー部の部員さんたちの動きが止まり、皆一斉に音楽室へ視線を向けていた。「何事だ？」

皆で大騒ぎをしている間にいつの間にかお昼のチャイムが鳴っていた。「はーい！お昼にしまーす！」部長さんの掛け声で三々五々お弁当を広げる部員さんたち。

「桜さん。一緒にお昼に行きましょう。」信子に誘われて頷く桜さん。

誘われるままワゴン車の助手席へ。信子の運転で「白樺」へ向かう。車中では美穂たちの質問攻めにあってしまう桜さんだ。

何時も通りに店内に入る。平日はかなり空いている。何時ものメンバーに一人増えているのに気づくマスター。にこにこ顔でオーダーを取りに来てくれる。「私が取りまとめます。」そう言ってマスターから伝票を預かる美穂。そしてオーダーを取り始める。「桜さん、お好きなものを頼んでくださいね。」

オーダーが纏まると遥香さんから自己紹介をしていく。どうやら桜さんは遥香さんが長女だと思っていたようだ。「やっぱり皆そう思うんだよ、遥香お姉ちゃん！」里穂がからかうように言う。一同吹き出してしまう。「えーっ！そうなのかなあ！」妙に納得してしまう遥香さんだった。それを見て皆が「可愛すぎるからだよ！」と茶化す。

そうしている間に料理が出来上がる。カウンターに上がる料理を３姉妹が次々にテーブルに運んでくる。

「いただきまーす！」全員で声を合わせる。

皆でナポリタンをいただく。桜さんも美味しそうに食べている。

マスターは皆が食べ終わる頃を見計らって紅茶を入れてくれる。

やはり「白樺」は最高の喫茶店だ。

マスターに「ごちそうさまでした！」と告げて高原高校へ戻る。

午後からは各パートに分かれての練習だ。ピアノは１台を２人で使うのだが１人分のピアノが足りなくなる。そんな話をしていると桜さんが使っていない電子ピアノを持っていると言ってくれた。教養課程の際に練習用として自室で使っていたとのことだ。

自由練習とも言えるこの時間に信子は電子ピアノで、優太ママは自分のヴァイオリンでコンサートの練習をしていた。美穂と里穂は新しい楽曲の楽譜を作っていた。美穂の殴り書きの音符を綺麗に仕上げていく里穂。こうしながら譜面の読み方を覚えていくのだ。そんな2人を見て感心する桜さん。そうこうしているとあっという間に３時のおやつタイムだ。桜さんが大きなバッグの中から大量のクッキーを取り出した。「お近づきのしるしに。」そう言いながらクッキーを配って回る。皆思わず笑顔になり、ますます話が弾む。

「美味しいです！」皆口々に言う。「どこのクッキーですか？」皆を代表するかのように美穂が桜さんに尋ねる。「大学の近くの洋菓子屋さんのクッキーなの。学内でも大人気なんだよ。」そう言って微笑む。

３時のおやつが終わると桜さん歓迎の演奏会を催すことになった。お互いの持ち曲を披露するというものだ。

最初は音楽部の「涙のトッカータ」、里穂の「トルコ行進曲」、美穂の「ひまわりのテーマ」、遥香さんの「エーゲ海の真珠」と続いた。

「ごめんなさい、私たち２人で１曲を弾かせていただくわ。」優太ママはそう言ってヴァイオリンを構えて信子に合図を送った。

信子の強烈な序奏が始まる。振動が音楽室のガラス窓を揺るがす。

全員が固まって身動きが出来ないほどの迫力だ。何時も優しい信子の何処にこのパワーがあるのだろうか！

曲は「カルメン幻想曲」だ。美穂と優太君の十八番となりつつある曲だ。何故この曲を？

優太君が気付く。ここのところ優太ママの演奏を聴いたことが無かった！そう、優太ママは優太君の演奏を聴くばかりだった。これは優太君へのプレゼントなのだ。優太君もそう確信していた。

美穂も同様だった。信子の演奏は１昨年の年末コンサート以来聴いていなかった。『ママ、この演奏を参考にすればいいのね！』美穂はそう思って涙を流した。それを見て里穂がそっと囁いた。「美穂お姉ちゃん、感動するね。」頷く美穂。

遥香さんは震えていた。音大に入ることに夢中になっていたけれども、もっと高いところを目指そう！と心に決めた瞬間だった。

そんな４人の表情を見て優太ママは信子に目配せした。信子は小さく頷いた。２人のママの演奏は開け放された窓から校舎に反響しながら学校の敷地外にも広がって行った。通りかかった人たちが思わず立ち止まり辺りを見回す光景があちらこちらで見受けられた。

演奏が終わると拍手が巻き起こる。音楽室だけでない。廊下に詰め掛けた大勢の野球部とサッカー部の皆さん、ご近所からも拍手する音が聴こえてきた。これがプロの演奏か！音楽部の皆さんの感動は言葉では言い現わせないほどだった。誰も一言もしゃべらず一生懸命拍手をし続けていた。

桜さんの顧問就任により私たちは何時もの時間を過ごしていた。

今日金曜日は午後から2人のママが出張のため旅立つ。それと行き違いで夜遅くながら私が戻ってくる日でもある。

何時もの様にりすくんたちに落花生をご馳走して朝食バイキングへ向かう。そして何時もの様に賑やかにバイキングを楽しむ。

２人のママは出張の準備に余念がない。そんな中何時も通りの練習をこなす４人だった。もう高原の生活にも慣れ有意義な毎日を過ごしていた。里穂は「天国と地獄」を始め数曲のアップテンポ曲をマスターし、美穂は優太君との新たなコラボ曲の譜面を書き下ろしていた。そして優太君はその曲の練習に励んでいた。特に高速演奏の部分が鬼門だったからだ。遥香さんは推薦入学試験に備えての課題曲に磨きをかけていた。それと合わせて来月からの音楽部の夏合宿に向けての練習も怠らなかった。

お昼は美穂と里穂がラーメンを作ってくれた。２つの鍋で麺を茹で出来上がった傍から食していく。外食が多くなりがちなのに加え来月初頭は遥香さんも夏合宿へ出向くため３人だけの生活になってしまう。特に夕方は日が沈むまでにロッジへ戻って来なければならない。そんな時、支配人さんから嬉しいプレゼントが。ゴルフ場で使っているカートを１台用意してくれたのだ。充電式の電動カートだ。ホテルの敷地内だけの走行のため免許は要らない。３人は大喜びだった。指への振動による負担を考えて私たちはバイクや自転車の利用を避けて来たので本当に大助かりだ。

そんな話をしながらラーメンを頂いているとウッドデッキに何やらお客様の影が。皆で見ているとキツネの親子連れだ。一瞬立ち止まりこちらの様子を見ていたが、あっという間に走り去っていった。ふさふさのしっぽが可愛い。リスくんたちはまだしもキツネさんたちにはご飯をあげないでくださいとのお達しがホテル側から出ていたので皆で見送るだけにした。

お昼が終わると２人のママが出張へと旅立つ。駅までは遥香さんが車で送ってくれる。３人を乗せた車を見送ると残った３人は午後の練習を始める。やがて遥香さんが戻って来た。何やら箱を持っている。駅前の洋菓子店でシュークリームを仕入れて来てくれたのだ。３時のおやつのお楽しみが増えて３人は大喜びだ。

遥香さんも自分の電子ピアノで練習を始めた。３人がヘッドホンで電子ピアノを使っているのでロッジからは優太君のヴァイオリンの音だけが流れていた。

３時のおやつにシュークリームを頂きながらその甘さに浸る４人。

バイキングでいただくシュークリームとはまた違うクリームの味を堪能する。頭に糖分を補給したところで今週末の演目を思案する。４人だけでの演奏会となるためだ。４人で意見を出し合い美穂が構成を練っていく。土曜日の演目は、里穂の「渚のアデリーヌ」、遥香さんと美穂の連弾で「モルダウ」、美穂と優太君の演奏で「カルメン幻想曲」、最後は美穂編曲による４人での「新世界」と決まった。この曲は各自で練習していた曲で今回が初披露となる。

日曜日の演目はお客様の反応を見て決めることになった。

夕方になると４人は着替えをしてカートに乗りホテル本館へ向かう。

すれ違う人たちが皆一斉に振り返る。子供だけでカートに乗っていると思われるようだ

「やっぱり子供が運転していると思われているのかなあ。」遥香さんのひとり言に他の３人がくすくす笑う。

４人が着くと高原高校の音楽部の皆さんによって会場の設営が既に終わっていた。皆さんにご挨拶してふとピアノに目を遣ると小さな女の子が一生懸命ピアノ椅子によじ登ろうとしていた。

「危ない！」美穂と里穂が猛ダッシュする。そして小さな女の子の手を貸してピアノ椅子に座らせた。女の子は大喜びだ。里穂が「チューリップ」を弾いて見せた。そして女の子が弾き易いように鍵盤を指差す。女の子は１音１音とピアノを鳴らしていく。それが嬉しいようで満面の笑みを浮かべている。会場に集まり始めたお客さんもその様子にすっかり和んでいた。母親らしきらしき人に呼ばれ「ありがとう！おねえちゃん！」と手を振って帰って行った。

定刻の19時になろうとしていた。会場は大入り満員だ。音楽部の皆さんは全員立ち見となった。しかし音楽部の皆さんは４人がどのような演奏をするのかを楽しみにしていた。そしてその傍に桜さんが合流した。桜さんも４人だけの演奏を楽しみにしていた一人だ。

美穂の司会で演奏会が始まる。小学５年生の見事な司会ぶりに驚く桜さんと音楽部の皆さん。遥香さんも加わり軽妙な掛け合いが続く。

小さな子たちがいることを確認しお互いに目配せする。その様子を見ていた優太君と里穂は童謡から始まると認識する。

「会場のみなさーん！少しだけちびっこさんたちにおつきあいくださいねーえ！」そう言いながら美穂はピアノの前に座りスタンバイ。遥香さんにマイクを渡すと序奏が始まる。「ドレミの歌」だ。ちびっこたちの目が輝く。遥香さんの愛らしい歌が流れる。まるで歌のお姉さんそのものの歌声に聴き惚れてしまう会場の皆さん。

「すごいわあ！」桜さんを始め音楽部の皆さんはただただ感心するばかりだ。２曲目はみんな大好きな歌「アンパンマンのテーマ」だ。遥香さんの歌に合わせてちびっ子たちが立ち上がって歌い始める。

思わずフロントの支配人さんたちも仕事の手を止めて見守ってくれていた。

ちびっ子たちのコーナーを終えると演奏会が始まる。

里穂がピアノ椅子に座る。小学３年生の幼さが残る里穂の登場に会場が少しざわつく。

里穂の「渚のアデリーヌ」が流れ始める。小学生の子たちが良く弾いている聴きなじみのある曲だ。だが、他の小学生の演奏とは何かが違う！そう感じた桜さんと音楽部の皆さんだった。里穂の小学生離れした演奏の後は遥香さんと美穂との連弾で「モルダウ」だ。余りの迫力に呆然とするちびっ子たち。さっきの優しかったお姉さんたちは何処に行ったのだろうと思っているようだ。続いて優太君と美穂の「カルメン幻想曲」だ。美穂の力強い演奏は何時もより強く前日の信子を思い起こさせるほどだ。それに誘発されたかのように優太君のヴァイオリンが音を刻んでいく。余りにも小学生らしからぬ高度な演奏に弾き込まれていく会場。桜さんは両手をぎゅっと握り締めて聴いていた。フロントを訪れたお客様も振り返って２人の演奏に聴き入ってくださっていた。「上手い小学生だねえ。」小さな声で支配人さんに囁いているようだった。

締めの曲は４人での「新世界」だ。交響曲をピアノ３パートとヴァイオリンのソロで演奏する。驚きの声が上がる。よくぞここまで！しかも子供たちだけの演奏だ。「この編曲は美穂ちゃんなのね！」思わず口走る桜さん。「大学生でもこなせない編曲を小学５年生が作り上げるなんて信じられない！」

曲が終わると会場は大喝采だ。

そんな中、最前列にいる小さな男の子がぽかぁーんと口を開けて立ち尽くしていた。遥香さんが腰をかがめて男の子に小さく手を振った。

男の子はにっこりと笑って手を振り返してくれた。

余韻の残る会場の後片付けが始まった。さすがに音楽部の皆さん２０数名のパワーは素晴らしく15分足らずで何時ものロビーに戻っていった。

「皆さんお疲れさまでした。良かったらレストランでゆっくりして行ってください。」支配人さんに勧められるままレストランへ。既にテーブルを連結させた大きな長いテーブルが用意されていた。ウエイターさんが全員に空のグラスを配る。バイキングと同じだ。

「あちらのお飲み物はお好きなだけ頂けます。もちろん無料です。」そう言ってドリンクサーバーを指差した。

「ええーっ！」驚きの声を上げながらもドリンクサーバーへと向かう部員さんたち。すると大きなピザが運ばれてきた。驚く美穂たち。

「支配人と料理長からのサービスでございます。」そう言いながら大きなピザが乗ったお皿を５皿並べてくださった。もう夜の９時を迎えようとしていて皆腹ペコだった。「いただきまーす！」部長の掛け声と共に皆ピザに手を伸ばす。そんな様子を優しく見守るウエイターさんたち。ピザがそろそろなくなりそうになると次の焼きたてのピザが運ばれてくる。それにしても高校生の食欲はすさまじい。その食べっぷりに唖然とする４人。４人はもう結構ですと言わんばかりに満腹だった。もう少し皆でお喋りしたいところだが夜ももう遅い。

帰りは桜さんの車と遥香さんの車が２方向に分かれて一人一人の家まで追走することにした。一人ずつ、10台近い自転車と車が付いて送り届けていく。幸いエリアごとに住宅が固まっているので思ったほど大変ではなかった。それでも夜は真っ暗だ。都会育ちの４人には信じられない暗さだ。最後の部員さんの家まで送ると県道までの道を教えてもらう。そして「おやすみなさい。」のご挨拶。

こうして土曜日の夜は更けていく。「今日は温泉を辞めてシャワーにするわね。」女子３名はきゃっきゃと騒ぎながら一緒にシャワーを浴びている。その間に優太君は冷蔵庫から麦茶を出して飲みながら時計を見る。もう23時を過ぎていた。明日の美穂の結婚式場の仕事のことを考えると夜更かしが気になって仕方がない優太君だった。

翌日の早朝、早起きした3姉妹、どうやら同じ部屋で寝たようだ。

リビングに私の荷物があることに気付く美穂。紙袋に入っているお土産を見つけたようだ。そっと出してみる美穂。包み紙から「大福だ！」と判断し大喜びの3姉妹。再びそっとしまうとおもむろにカーテンを開け、更にガラス戸、そして雨戸を開ける。明るい光がリビングに差し込む。

雨戸が開く音を聞いてりすくんたちがやって来た。

「わあ！かわいいーっ！」里穂は初めて見るりすくんたちに興奮気味だ。

２人の姉の真似をして手のひらに落花生を2個乗せて差し出す。すると小さな足の感触が！「わあー！」声は出さないがそう言う表情をする里穂。りすくんたちは次から次へ里穂の手のひらにやってくる。

「かわいい！かわいすぎるうーっ！」大声で叫びたい里穂だった。

そんな時に私は目を覚ました。昨夜遅くロッジに戻って来た私はそのままぐっすりと眠ってしまっていた。身体を思い切り伸ばしてからおもむろにリビングへ降りていく。

「あ！パパおはよう！」3人の娘たちが朝の挨拶をしてくれる。それだけで疲れも吹き飛んでしまう。さあ！今日も一日がんばるぞ！

最後に起きてきたのは優太君だった。そう言えば昨夜2階に上がった時に部屋に電気が点いていたなあ。夏休みの宿題をやっていたのかな？

皆がそろったところで朝ごはんを食べに本館のストランへ向かう。

フロントで朝のご挨拶をして支配人さんに昨夜のお礼を言う。「いやいや、ほんの気持ちです。」と、にっこりと笑ってくださった。

レストランに入って直ぐにウエイターさんたちにも昨夜のお礼を言った。それから席についてご飯を取りに行く4人。相変わらずの選択だが、優太君と里穂はサラダが中心で量も少ない。昨夜のピザが堪えたのだろうか。しかし遥香さんと美穂は相変わらず元気そのものだ。2人できゃっきゃとはしゃぎながら美味しそうなものを物色しているようだ。私もおもむろにパンを取りに行く。2人は元気、もう2人は胃もたれ気味と思った私はクロワッサンとロールパンを中心に選んできた。それを置いて、今度はサラダとコーヒーを取りに行った。

皆で手を合わせて「いただきます！」

会話の内容は昨日の演目だ。遥香さんと美穂の「モルダウ」の迫力が凄かったこと、皆で初めて演奏した「新世界」が想像以上の出来栄えだったことなどが話題になっていた。

「今晩はどうするんだい？」私が聞くと口々にまだ決めていないと言う。美穂も決めあぐんでいるようだ。うーんと考え込んでいる。

「里穂は「天国と地獄」をマスター出来てる？」「うん。大丈夫だよ。」

「遥香お姉さん、久しぶりに「トルコ行進曲」を弾いてください。

頷く遥香さん。「早いテンポの曲が続くから里穂、「メヌエット」をしっとりと弾いてね。」「うん。」「シメは優太君の「ホ短調」でいきましょう。」今日は美穂の帰りが期待出来ないので3人での公演となる。そのため、美穂は無理のない曲を選択したのだ。

朝食が終わるとロッジへ戻る。美穂の支度を済ませると即出発だ。

３人が見送ってくれる。窓から手を振り返す美穂。やがて車は見えなくなった。

３人だけになって寂しさは隠せない。練習に集中すればその寂しさも忘れられた。里穂の練習に付き合ってくれる遥香さん。そう、里穂には３人の先生がいるのだ。そのためか里穂の成長ぶりは目覚ましかった。「里穂ちゃん、どんどん美穂ちゃんに似て来た！」遥香さんはそう実感していた。最初は何度もつまずいていた「天国と地獄」も今ではすっかり自分の持ち曲にしてしまった。さらにこの曲が弾けるようになると他の同様のマーチ曲も自ずと弾けるようになっていった。

続いて優太君とのコラボに挑戦する遥香さん。微妙な所でタイミングが合わない。やはり美穂との演奏の違いなのだろうか。

そんな様子を見ていた里穂が思わぬ助け舟を出す。

「遥香お姉ちゃん。優太お兄ちゃんを誘惑するつもりで弾いてみて。優太お兄ちゃんに寄り添うように！」あまりにも的確過ぎる里穂の言葉だった。男性との恋愛経験のない遥香さんに一番足りない部分だったからだ。

「男の人を好きになる気持ちって？」自問自答しながら弾き続ける遥香さん。

「今まで美穂ちゃんとしか弾いてこなかったけど、これから先は色々な人と演奏するかもしれない。皆が美穂ちゃんみたいに合わせてくれるとは限らないし・・・。そうか！それなら僕が合わせに行けばいいんだ！」優太君はそう思った。じっくりと遥香さんの演奏の特徴を覚えていく。遥香さんの演奏は楽譜通りだ。それを考えると合わせに行くのは意外と容易だった。

何度も弾いている遥香さんのタイミングに合わせに行く優太君。

「あっ！」里穂が声を上げる。「合った！タイミングが合った！」

「優太君ありがとう。」遥香さんがお礼を言ってくれた。それは優太君が何時も寄り添ってくれる美穂に対して言っていた言葉と全く同じだった。その後何度か繰り返す。もうタイミングがずれることは無かった。「遥香さん、最後の「ホ短調」は２人で弾きましょう！」

「うん。」遥香さんは明るく頷いた。

夕刻、音楽部の皆さんと野球部、サッカー部の皆さん方も駆けつけてくれた。さすが体育系男子、重いソファーをものともせずたった2人で持ち上げて台車に乗せる。総勢40人のパワーであっという間に会場の設営が終わっていた。そんな様子を見守る支配人さんと従業員さんたち。設営もそうだが、今日は3人での演奏会ということが気にかかる支配人さんだった。

開演30分前に3人がカートに乗って到着。会場に向かう。すると会場から拍手が起こった。それに驚く3人。今日の応援は40名の各部員さんたちだ。「ありがとうございます！」と言葉にする3人は心から感謝した。

今日はちびっ子たちが少なく2人だけだった。遥香さんが呼びかけると元気に返事をしてくれた。幼稚園児位の女の子2人だ。遥香さんは観客席に入って行きそれぞれの子に声を掛ける。しばらく3人で幼稚園でのお歌のお話などをして2人のちびっ子を和ませていた。

「お姉さんと歌おうよ。月に代わってお仕置きよ！」そのセリフに合わせて里穂が気を利かせて伴奏を始める。「いつの間に！」優太君が驚く。里穂は美穂の演奏を鋭く観察し密かに練習しているのだ。

遥香さんの歌声に驚く野球部とサッカー部の皆さんたち。どうやらすっかりファンになってしまった部員もいるようだ。身体を揺らしながらリズムに乗っている。

ちびっ子2人に「楽器の音も楽しんでいってね。」と声を掛けてステージに戻ってきた遥香さん。里穂に「サポートありがとう！」と笑顔でお礼を言うと里穂はにっこりと頷いた。そして2人に言った。

「連続で3曲弾かせてください！」そう言って頭を下げた。

「わかった。思う存分弾いてごらん。」この返事は2人の優しいエールでもあった。

３人が定位置に着く。今日はどんな演奏を見せてくれるのだろう。

里穂の演奏が始まる。軽やかなリズムから高速演奏に流れていく。

最初の曲は「双頭の鷲の下に」だ。誰もが聞き慣れている曲なので油断が出来ない。続いては「クシコスポスト」、これも運動会などでお馴染みの曲だ。小気味よい高速の指使いを見せる里穂。会場からはため息も漏れる。

ラストは「天国と地獄」だ。ハイテンポの曲の最後はきっちりと決めてくれた。小学3年生の里穂の演奏に大きな拍手が鳴り止まない。

会場の皆様にお辞儀をして遥香さんとハイタッチをして入れ替わる。

じっと拍手が鳴り止むのを待つ遥香さん。会場が落ち着いたタイミングで演奏を始める。「おおーっ！」という声が上がる。こちらもお馴染みの曲「トルコ行進曲」だ。アップテンポの曲ながら流れるような曲調は遥香さんならではの持ち味だ。他者とはあまりにも違う「トルコ行進曲」に聴き惚れている会場の皆さん。「さすが遥香さんだ。」優太君はピアノを弾く遥香さんを見つめていた。しかも、見つめていたのは優太君や里穂だけではなかった。高原高校の皆さんも同様だった。もうアイドルを見つめるファンと一緒だ。

「ピアノコンクールでこの曲を弾かれたら・・・。」里穂はその先の言葉を飲み込んだ。それ程遥香さんの演奏は素晴らしかった。

演奏が終わるとものすごい拍手と「ブラボー！」「遥香ちゃーん！」と掛け声まで飛び交う。遥香さんはにっこり笑って立ち上がり会場に向けて一礼する。

次は里穂の弾く「メヌエット」だ。先ほどの高速演奏は影を潜めしっとりとした旋律が流れる。小学生らしからぬ演奏に思わず聴き入る会場の皆さん。

さあ、最後は先ほど仕上がった優太君と遥香さんの「ヴァイオリン協奏曲ホ短調作品64」、優太君の代名詞と言える曲だ。

遥香さんの最初のピアノの音にわずかに遅れて優太君のヴァイオリンが続いていく。優太君の独奏に花を添えるように伴奏を奏でる遥香さんのピアノ。静まり返った会場に優太君のヴァイオリンの旋律が力強く鳴り響いていく。その旋律に沿うように流れる遥香さんの旋律。会場はこの2人の演奏に完全に飲み込まれている。そんな中２人の演奏は終盤の高速演奏に突入する。とても小学5年生と高校3年生の演奏とは思えない素晴らしい。誰も身動き、いや、瞬き一つしない。フロントの皆さんも居合わせていたお客様も固唾を飲むように2人の演奏に包み込まれていた。演奏が終わった。会場の全員がスタンディングオベーションで拍手を送ってくれている。

そんな会場の通路を全力で走ってくる姿が！

「あっ！」里穂が真っ先に気付いた。

両手を広げて遥香さんの元へ一直線だ！

「お姉ちゃん！遥香お姉ちゃん！」そう言って遥香さんに飛び付く。

「み、美穂ちゃん！」優太君が驚く。

「美穂ちゃん！ありがとう！そしてお帰りなさい！」そう言って遥香さんも美穂をしっかりと抱きしめた。まだまだ拍手は鳴り止まなかった。

「実は曲の出だしから見ていたの。優太君の独奏だと思っていたから遥香さんの最初の1音で伴奏は遥香さんだと確信したの。コンビを組むのは初めてだから不安だったけど、さすが遥香さん、何の心配も要らなかったわ。それ以上に2人の演奏が聴けて嬉しかった。本当に嬉しかった。」そう言って泣き始めた。そんな2人を会場の皆さんは帰ることもなく見守ってくださっていた。抱き合う2人に優太君と里穂が加わり4人で泣いた。高校生1人と小学生２人だけでの初めての公演。無事に、大盛況のうちに幕を閉じた。最後は4人並んで会場の皆様に深々とお礼のご挨拶だ。再び拍手と歓声が飛ぶ。

４人はにこにこと手を振りながら舞台裏へと戻って行った。

お客さんたちが帰り始めると運動部の皆さんによるロビーの復旧作業だ。4人が感激して話し込んでいる間にあっという間に終わっていた。そんな皆に支配人さんと料理長さんからの差し入れがあると言う。40人の大所帯がレストランに収まると大盛りのフライドチキンが次々に各テーブルに運ばれてきた。「わあ！すげえ！」目を見開いて驚く男子部員さんたち。「本当に頂いて良いのかなあ？」皆そう言いながらもう手を伸ばしフライドチキンをしっかり掴んでいた。

「美味しい！」「うまっ！」そんな声がレストランに渦巻く。

優太君と里穂の元には和風スパゲッティが。えっ？と驚く二人にウエイターさんが告げた。「朝のご様子から軽めのものをと料理長が腕を振るいました。」何という心配り、本当の一流店のおもてなしだ。

「ありがとうございます。いただきます。」2人が美味しそうにスパゲッティをいただく。しょうゆベースの味付けが味わい深い。

「料理長さんは今いらっしゃいますか？」遥香さんはウエイターさんに声を掛けながら立ち上がった。すると山高帽をかぶった料理長さんが調理場から出てこられた。常にお客様に注意を払われている証拠だ。突然の外国人の料理長さんの出現に食べる手が止まる一同。

遥香さんは料理長さんに深く一礼すると英語でお礼を申し上げた。

突然の遥香さんの流ちょうな英語に一同驚愕する。

「は、遥香さん！英語喋れるんだ！」美穂たちもびっくり顔で2人の様子を見つめていた。

料理長さんはとても嬉しそうに遥香さんの礼儀正しさ、そして何よりの曲のプレゼントに深く感激したとのことだ。

最後に２人はにこにこ顔で握手を交わした。

「みなさん！たくさんたべてくださーい！」流暢な日本語で皆さんに食事を勧めてくださった。そして楽しい宴はしばらく続いた。

翌月曜日。今日から8月だ。そして今日から1週間、遥香さんが自校音楽部の合宿に出かける。遥香さんを駅まで送るついでに買い物をしたいという3人も乗せてワゴン車で駅に向かう。駅前で遥香さんを降ろして「行ってらっしゃあーい！」と皆で手を振る。明るく何度も振り返って手を振り返す遥香さん。バスターミナルでバスを待っていた時に事件が起こる。

「もしもし。君は何処から来たの？」2人のおまわりさんに声を掛けられた。

「今からバスで・・・。」そう言ってチケットを出そうとするがちょっと交番までと連れて行かれてしまった。

「だめだよ。中学生が一人でふらふらしちゃあ。生徒手帳を見せて。」そう言われて生徒手帳を差し出す遥香さん。中学生と言われて少し不機嫌だ。しかも遥香さんの学園は幼稚園から大学まで同じ生徒手帳だから余計始末が悪かった。3年生とは書いてあるが2人のおまわりさんは最初の先入観から中学3年生と思い込んでいるようだ。

しかし生徒手帳の最後に運転免許証があるのに気づいてくれた。

一応顔写真で確認はしたものの県警本部へ照会をするという。

「！」交番内を見回していた遥香さんが何かを見つけた。

「きゃっ！美穂ちゃんと優太君！敬礼していてカッコいいーっ！」

音楽隊募集の二人のポスターが貼ってあるのだ。それを見てほっこりしている遥香さんにもう一人のおまわりさんが声を掛ける。

「今朝届いたポスターだよ。二人とも凛々しいよねえ。」そう言いながら自分もポスターを眺めた。「盗まれると警察の恥だって本庁の広報から言われちゃってねえ、外には貼れないんだよ。」そう言って遥香さんにお茶を勧めてくれた。

「いただきます。」会釈をしてお茶をいただく遥香さん。礼儀作法がしっかりしている子だと感心するおまわりさん。

「えええーっ！本当ですか！間違いないんですね！」大きな声で話をしている。遥香さんともう一人のおまわりさんが電話をしているおまわりさんを見ていた。「わかりました！至急善処いたします！」

そう言って電話を終えたおまわりさんは低姿勢で誤ってくれた。

「今、確認が取れました。本当に失礼いたしました。そしてお足止めをさせていただきましたこと、深くお詫び申し上げます。」そう言って首を垂れてくださった。

遥香さんともう一人のおまわりさんは何が何だか全く分からなかった。

「巡査部長！何事ですか？」もう一人のおまわりさんが尋ねた。

「いやあ、本当に申し訳ありませんでした。県警本部に確認したら遥香さん18歳で間違いないとのことだ。」そう説明を始める巡査部長さん。「そしてもう一つ、鉄道警察から遥香さんと、このポスターの二人、と妹の里穂さんには要警備申請が出されているとのことだ。

つまり、安全にお送りしなければならないということだ。」

「お、お送りするって大袈裟すぎます！」遥香さんが手を横に振る。

「そう言えば、遥香さんが並んでいたバス乗り場って・・・高原行きでしたよね。チケットで確認させてください。」

遥香さんがかばんから予約チケットを出す。

「ああーっ！やっぱり！高原までの予約チケットだ。」そう言って焦る2人のおまわりさん。

「大丈夫です。次のバスまで待ちますから。」そう答える遥香さんに衝撃の事実が！

「いや、実は先ほどの便が高原まで行く最終便だったんです。本当に申し訳ありません。」

「発車してから小1時間か。追いかけるのは無理だな。うーん、そうだ！高原派出所に届ける備品があったな！」巡査部長が大きな声でもう一人のおまわりさんに言った。

「そうです！今日届けましょう。手配します。」

遥香さんはショックだった。「バスの最終が13時だなんて！」

遥香さんが住んでいる郊外では想像すら出来ないことだった。

「車の手配が出来ました。遥香さんお待たせいたしました。間もなく車が来ます。」

激しく笛を吹く音と男性の大きな声が聞こえた。

「だめだよ！一般車両はバスロータリーに入らないで！」そう言いながらバス誘導員のおじさんが濃紺のセダンを走って追いかけて来た。周囲の人たちの視線が注がれる。

「おじさん、ごめんなさい！何時もご苦労様です！」そう言って2人の女性警察官が車から降りて来て敬礼した。

「何だ！君たちだったのか。」息を切らしながらバス誘導員のおじさんは笑った。

「えへへ。覆面で来ちゃった！」そしてお互いに大笑いした。

２人の女性警察官の方が交番に入ってきた。

「ごくろうさまです！」お互いに挨拶を交わし敬礼する。

「遥香さん！お待たせしました。今から学園の高原寮までお送りします。」そう言って遥香さんの荷物を持ち車のトランクに入れた。

「い、いや、その・・・。」あっという間に覆面パトカーの後部座席に座らされた。横にはもう一人の婦警さんが乗り込まれた。

２人のおまわりさんに見送られて覆面パトカーは走り出した。バス乗り場に居合わせた大勢の方々にも見送られて高原の寮へ向かう。

２人の婦警さんはとても気さくで話が弾んだ。

「あのう・・・。お手洗いに・・・。」遥香さんが小さな声でお願いする。山の中の1本道だ。

「もう少し行くとドライブインがあります。そこで一休みしましょう。」

送っていただいくお礼に飲み物でもと進める遥香さんだが任務中だと言って笑って断わられる。さすが警察官だ。

再び走り出す。「もう皆は着いただろうか？」そう思った遥香さん。

「電話をかけてもよろしいですか？」そう言って遥香さんは携帯電話を取り出す。

「あっ！この辺りは“圏外”ですから電話は通じないです。」残念そうに隣の婦警さんが言う。初めての“圏外”を体験する遥香さん、なぜか心細くなる。静かだった車内に警察無線が入る。テレビでは見たことがあるが本物は初めてだ。「現在○○を走行中、どうぞ！」

ハンズフリーで話している。それにしてもこんな森林の中で良く場所が分かるものだと感心する遥香さん。

２回目の小休止だ。

「あの山の、もう一つ奥の山を越えれば高原寮ですよ。」

『わあ！まだまだ先は長い！』そう思う遥香さんだった。

ガサガサ！近くの茂みで音がした。婦警さん2人が笛を吹きながら走って近づいていく。大きな鹿さんだった。道路に出て来ての車との事故も多いと言う。そんなことも体験しながらやっと高原寮に到着した。出迎えてくれた寮の職員さんたちは覆面パトカーでの遥香さんの登場にびっくりだった。一礼をして見送る遥香さん。

「皆には内緒にしてくださいね。」そう言って微笑んだ。

一方、私たちは駅近くのスーパーで買い物をしていた。子供たちのリクエストのたこ焼きを作る材料を買うためだ。併せてお好み焼きを作るために高原キャベツを求めて野菜コーナーへ。そこには大量の高原キャベツが山の様に積まれていた。他の野菜類もどれも新鮮でついつい買い過ぎてしまう。ロッジに戻ると車を乗り換えて私は一人でわが家へと向かう。

今晩は子供3人だけになってしまうので夜間の外出は避けてロッジでの自炊となった。と言ってもホットプレートでたこ焼きとお好み焼き、そして焼きそばを作るだけなのだが。そんな夕食を３人とも楽しみにしていた。

陽がある内にカートに乗って温泉へ向かう。何時もの生活に戻った様に３人は過ごしていた。早々と温泉から出た優太君はフルーツ牛乳を飲みながら美穂と里穂を待つ。まだこの時間帯の温泉は空いていて貸し切り状態だ。火照った身体を冷たいフルーツ牛乳が冷ましてくれる。やがて美穂と里穂が温泉から出てくる。火照った頬をピンク色に染めた姉妹はとても可愛く、優太君は思わずドキドキしてしまう。目のやり場に困る優太君の様子を不審に思う２人。

「ああーっ！それ２本目でしょう？」と言って優太君をからかう。

「違うよ、早く飲みなよ。」ぶっきらぼうの優太君に勧められてフルーツ牛乳を飲む２人。「美味しいね。」

ロッジへ戻ると夏休みの宿題に取り掛かる。優等生の２人に教えてもらう里穂。ピアノだけでなく勉強も教えてくれる頼もしい兄と姉だと思った。５年生の二人はハイペースで宿題を進めていく。それにっ比べ、里穂はマイペース派だ。

気が付くと日が暮れ始めていた。３人で手分けして雨戸を閉める。これで戸締りは完璧だ。勉強を終えた美穂が台所へ立つ。夕飯の準備だ。優太君もそれに続き食卓にホットプレートをセットする。里穂も取り皿とコップを並べる。「たこ焼き、楽しみだね。」３人ともたこ焼きが焼けるとあってうきうきしていた。

美穂が食材を大皿に盛って運んできた。道具は全て家から持ってきた。慣れた手つきで美穂が作り始める。「里穂、旨くひっくり返してね。」たこ焼きの醍醐味部分は里穂に託された。張り切ってその時を待つ里穂。そんな姉妹を優しく見守る優太君。３人にとっては当たり前の楽しい生活だった。

里穂の活躍もあり、見事に丸いたこ焼きが完成した。各自の皿に取り分ける美穂。そして第２弾を作り始める。３人でふうふうと熱々のたこ焼きに手こずりながらも美味しく頂く。こうして夜も更けていった。

そんな3人の話の中心は今度の土曜日の老人ホームでの演奏会とこちらの高原ホテルでの演奏会の演目だった。夏休み期間の土日は２人のママは地方での演奏会で不在、次の月曜日までは遥香さんが音楽部の夏合宿で不在と、今度の土日は３人での演奏会になるのだ。

「まあ、原点に戻ったと思えばいいさ。いや、里穂ちゃんがいてくれるから原点＋αってとこかな。」優太君がそう言って笑う。美穂も同感だった。里穂はそう言われて少し照れ臭そうだ。しかし嬉しい言葉でもあった。

「ホームは歌が中心だからリクエストを見ながら考えるとしても一人３曲は必要だね。里穂は「あなたにあげる」の他に歌いたい曲はあるの？」里穂の希望を聞く美穂。「うん、「帰って来いよ」と「365歩のマーチ」が歌いたいの。」里穂の答えに頷く二人。「優太君は？」

美穂の問いにしばらく考えてから希望の３曲「雨の中の二人」「高校三年生」「誰か故郷を想わざる」を挙げた。「美穂ちゃんはどうする？」

「そうねえ、９曲じゃあ数字的に気にする人も居ると思うから４曲歌うわ。「逢いたくて逢いたくて」は外せないでしょ、後は「終着駅」と「みずいろの手紙」、そして「学生時代」にするわ。」そう言ってメモを取る。そのメモには美穂を含めた３人が挙げた曲が書かれていた。これを全て演奏してみて曲順を考えるのだ。さっそく１曲ずつ弾いていく。２人も耳を傾けて口ずさんでみる。キーの確認でもある。

次は当高原ホテルでの演奏会の演目だ。

「先ずは里穂ね。アップテンポの曲を披露したから今度は優雅に聴いていただける曲はどうかしら？何か弾きたい曲はあるの？」

「うん。皆が知っている曲を大人っぽく弾いてみたい。」そう答える里穂。「大人っぽく弾く曲はどんな曲？」優太君が尋ねる。そうねえ・・。「エリーゼのために」とか「乙女の祈り」「渚のアデリーヌ」が良いわ。」里穂の答えに頷く二人。「優太君はどうする？」美穂の問いに里穂同様に少し考え込む。「そうだなあ、僕もしっとりと「メヌエット」と「チゴイネルワイゼン」を弾いてみるよ。」

「うふ、それじゃあ私は久しぶりに「運命」を弾くわ。」

これで演目が決まった。今回は各自のソロ演奏を披露することになった。

紅茶を頂きながら次の話題となった。それは毎年お盆に行われる地元の盆踊り大会と高原神社の夏祭りだ。土日は無理だが初日の金曜日は出かけることが出来る。だが車での来場は・・・ご遠慮くださいと記されていたことを思い出した。どうやら街中を山車が練り歩くようで通行止めの区間が多いためのようだ。

「道は混みそうだね。でも行きたいなあ。」里穂が呟く。

「ねえ、ホテルの送迎バスがあるじゃない、ここのお客さんも里穂みたいに行ってみたいって思うよね。」美穂が続ける。「臨時の送迎バスが出るかもよ。明日の朝、支配人さんに聞いてみようよ。」

優太君が続ける。大浴場に行く時にロビーのどこかにポスターがあったよ。」すると里穂が「ポスターと言えば二人の音楽隊のポスターって８月から貼り出されるって話だったよね。気になるなあ。」と思い出したように話し始めた。

「そうか！すっかり忘れていた。少し恥ずかしいけど見てみたいわね。」美穂は優太君にそう話しかけた。「それじゃあ明日、駅前の交番に覗きに行こうよ。」そう言って美穂を見つめる優太君。

「やだあーっ。二人で良い感じになってるうーっ！」里穂にからかわれて思わず下を向く二人だった。

優太君の携帯が鳴った。優太ママからだった。どうやら戻りは明日になるようだ。そうとなると夜なべして起きている必要はない。

あくびをし出した里穂を連れて美穂は２階の寝室へ。それを追うように優太君も自分の部屋へ向かうのだった。

翌朝、何時ものようにりすくんたちに落花生を振舞う美穂と里穂。

それが終わると2人で優太君を起こしに行く。ドアを叩いて「おはよう！」と声を掛けると直ぐに「おはよう。」と眠たそうな返事が返ってきた。

３人で身支度を済ませてカートに乗って本館のレストランへ向かう。

毎朝恒例となった支配人さんたちへのご挨拶を済ませてからの朝食だ。何時もの広いテーブルに３人で座っていると寂しさは否めない。

しかし、慣れた３人はそれを吹き飛ばす勢いで朝食を取りに行く。

美穂の“富士山盛り”に負けない位の里穂の鉄火丼だ。どんぶりの底に浅くご飯をよそい赤身を敷き、再びその上にご飯を乗せる。さらに赤身を乗せご飯を盛る。最後の仕上げとばかりに赤身を乗せれば里穂の“スペシャル鉄火丼”の完成だ。唖然として眺める優太君をよそに席へ戻って行く姉妹。一方優太君はハンバーガーを作っていた。バンズの上にハンバーグを乗せて辛子を少し塗りバンズを被せるだけのシンプルさ。

これにフライドポテトとサラダをチョイスする。３人3様の朝ごはんを頂く。「美味しいね。」そう言いながら黙々と食べ進める。

周りの皆さんに声を掛けられながらしっかりとお腹を満たす3人。

食事が終わるとデザートとドリンクだ。2人は思い思いのショートケーキと高原のミルクを選び、優太君は目ざとく見つけたチョコレートフォンデュでチョコバナナとチョコりんごを持ってきた。

「ああーっ！いいことしてるーっ！」うらやむ２人だが今日はもう食べきれない。「明日のお楽しみにしようね、お姉ちゃん。」「そうだね。」

３人でのお喋りをしながらの賑やかな朝食が終わった。その足でロビー辺りで見たというお祭りのポスターを探しに行く。3人で手分けして探す。「あった！」優太君が手を揚げて2人を呼ぶ。それに気付き速足で集まる2人。3人でポスターに見入る。「あっ！バスの時刻がこっちにあるよ！」里穂が気付いたようだ。早速メモ魔の美穂が時刻表を写していく。「結構大規模なんだね。」「お盆休みで帰ってくる人も多いんじゃあないかなあ。」内容を把握したところでホテルのバス乗り場へ。丁度チェックアウトの時間と言うこともあり小型バスは込み合っていた。さすがに乗り合いバスと違い立っては乗車させてもらえないようだ。席が埋まると直ぐに発車した。林の中の道を駅に向かって走る。途中に大きな牧場を発見する3人。どんどん車が入って行く。有名な観光地なのだろうか。またしばらく走ると別荘地が現れる。道沿いにはおしゃれなお店が立ち並んでいた。いつも車で通る道とは異なる賑やかさだ。そんな別荘地を抜けると何時もの県道に出た。あとは何度も通った駅までの道だ。バスはバスロータリーの外れに停まった。運転手さんにお礼を言ってバスを降り、駅前広場へ向かう。交番は駅前広場の一角にあった。交番脇の掲示板には二人のポスターは無かった。それではと、交番の前を通り過ぎながら仲の様子をうかがう。「あった！」」お目当ての二人のポスターだ。しかしもっと見たい。3人でUターンして再び交番の前を通り過ぎる。間違いない。しかも交番は巡回中で留守のようだった。

そっと近づき3人で中を覗き込む。大きなポスターだ。二人が制服姿でにっこりと敬礼をしている姿が凛々しい。「さすがプロだわあ！」里穂が思わず声を上げた。

「何がプロですかな？」どこかで声がした。驚く3人。机の後ろにしゃがみ込んで作業をして居たおまわりさんがそう言って立ち上がった。「何かご用ですか？」入口から顔だけ出している3人を見て声を掛けてくれたのだ。

「い、いえ。ポスターを見ていただけです。」優太君がそう説明した。

「何だ、そうですか。どうぞ、どうぞ中に入ってじっくりご覧なさい。」そう言って手招きをしてくださった。

「ありがとうございます。失礼します。」美穂はそう言って先陣を切って中へ入った。それに優太君と里穂も続く。近くで見るとかなり立派なポスターだ。

「一昨日に届いたポスターです。モデルの二人が凛々しいこと。」そう言ってポスターの二人を指差すおまわりさん。

「やだ！照れちゃう！」美穂がそう言ってはにかむ。

「えっ？ああーっ！ポスターと同んなじだ！」ポスターの美穂と目の前の美穂を見比べるおまわりさん。そして優太君にも気づく。

「あーっ！この子も同んなじだあーっ！」慌てふためくおまわりさんに3人も驚いた。

「ごめんなさい！失礼します！」そう言って足早に交番を後にして商店街へ。「ああーっ！びっくりしたあっ」3人で息を切らしながらお店の一角で立ち止まっていた。その内、美穂が「くくくっ。」と笑い出した。優太君と里穂も何故だかおかしくなり3人で笑ってしまった。

「そうだ、“高原神社”に行ってみよう。」優太君の提案に美穂も里穂も賛成だった。だが、道が分からない。誰かに尋ねようかと思ったが歩いているのは観光客ばかりだ。

しばらく商店街を進んでいると目ざとい里穂が標識を発見。矢印の先に“高原神社”と書いてある。大喜びの3人。標識に従って進むと商店街から外れた場所に大きな鳥居が現れた。かなり立派な神社だ。鳥居の前で一礼する。「真ん中は神様が通られる道だから脇を通るんだよ。」妙に詳しい里穂のうんちくを聞きながら進んでいく。

次に手水舎でお清めをする。「先ずは右手、持ち替えて左手を清めるの。最後に左手に水を溜めて口を清め、その左手を清めるのよ。」

里穂のうんちくに二人で感心しながらお清めを済ませる。

本殿まで進み、お賽銭を収める。鈴を鳴らし、二礼二拍してお願い事をする。最後に一礼をして参拝の終了だ。「なぜ里穂はこんなに詳しいのだろうか？」美穂と優太君の共通の疑問となった。

参拝を終えるとお神籤を引く。大吉を弾いたのは里穂だった。

大喜びの里穂。続いて美穂が引く。何とこちらも大吉だ。姉妹2人で喜び合う中、緊張気味の優太君。お神籤を弾く手にも力が入る。

「さあ！どうだ！」と言わんばかりに2人が見守る中、心なしか震える手でお神籤を開く良太君。「わあー！」歓声を上げる優太君。思わずそのお神籤を覗き込む美穂と里穂。「わあーっ！すごい！大吉だあ！」なんと！3人揃って大吉を弾いたのだった。辺りを気にもせずに小躍りして喜ぶ3人を周りの参拝者たちが怪訝そうに見つめていた。「そうだ、お守りを頂こうよ。」里穂の提案で社務所へ向かう。

色々なお守りやお札などが置かれている。3人で考え込む。

「やはり“学業”だろう。」優太君の説得力のある言葉に2人も同意した。「そうだ、遥香お姉ちゃんのも頂こうよ。」里穂が提案する。

「そうだね。それが良いね。」美穂も賛成する。「それなら4人お揃いが良いんじゃないかなあ。」優太君の提案に大賛成の２人だった。

さて色はどうしたものか・・・。3人で悩む。「やはり白が良いんじゃないかなあ。」そう言う美穂の意見で色が決まった。

お参りを済ませた3人は再び商店街へ戻る。

もうお昼を過ぎていた。何か食べようかとお店を探していると甘味処を発見。「そう言えばケーキばかりで和菓子はパパのお土産しか食べていないよね。」大福を懐かしむように美穂が言った。「うん、私クリームあんみつが食べたい！」里穂が右手を挙げて賛成する。

３人で暖簾をくぐって店内へ。小学生の3人連れに驚くお客さんたち。

そんなことは気にも留めない3人を店員さんが一番奥の席に案内してくれた。「お茶にしますか？それともお冷？」年配のお姉さんに聞かれると3人揃って「お茶でお願いします。」と答えた。

おもむろにメニューを見ているとお茶が運ばれてきた。

そのタイミングでオーダーをする。“クリームあんみつ”を３つと僕は“磯辺焼き”をお願いします。2人はどうする？何か食べる？」優太君に聞かれて2人で顔を見合わせてクスっと笑う。

「“磯辺焼き”を３つお願いします。」里穂が言うと店員さんがにこにこ顔で伝票を置いて行った。

「久しぶりにのんびりできたね。」美穂の言葉に頷く2人。

「演奏会もそうだけど高原高校の練習にも参加させて頂いたじゃない。それだけ充実していたってことだと思うよ。だから今、のんびりと感じられるんじゃあないかな。」優太君も久しぶりの緩―い、この時間を楽しんでいるようだ。

最初に出てきたのは磯辺焼きだ。ノリが巻かれた大きな四角いお餅が3つ並んでいる。焦げたお醤油の匂いが堪らない。「いただきまーす。」3人で声を揃えて熱々を頂く。久しぶりに食べる和の味がすごく懐かしかった。

「おいしいね。」「うん。おいしい。」口々にそう言いながら次々とお餅を平らげていく3人。“磯辺焼き”を食べ終えるタイミングでクリームあんみつがやって来た。「うふふ。来た来た！」手を叩いて喜ぶ里穂。そんな里穂に美穂が言う。「やだもう。小学生みたいなんだから。」そんな美穂に優太君がつっこむ。「美穂ちゃんだって小学生じゃないか。」「いやいや君もだよ。」美穂のその言葉に3人は大笑い。それを聞いていた他のお客さんたちもつられて大笑いとなった。店員さんたちも肩を震わせて笑っていた。

「あらまあ！賑やかなお店ねえ！」聞き慣れた声！そうだ！優太ママだ！一斉に入り口を見る3人。入り口に立っていたのは地方公演から戻って来た2人のママだった。「ママーっ！」そう言って手を振る美穂と里穂。驚いたのは2人のママだった。「やだ！あなたたち！何してるの？」そう言いながらもにこにこ顔の2人のママだった。

隣の席に座った2人のママ。昨夜は反省会をしている間に高速バスの最終便が出てしまったとのことだ。そこで駅まで行って尋ねたところこちら方面には普通列車しかなく、この時間では乗り継ぎが出来ないと言われたそうだ。それで仕方なくホテルへ戻ったとのこと。

高速バスの長旅で疲れたから甘いものでもとこのお店に入ったのだった。「あら3人とも良いもの食べてるわね。同じもので良いよね、信ちゃん。」優太ママに言われて頷く信子。

「あのね、さっき交番でポスター見せて貰ったんだよ。」早速里穂が報告する。「お兄ちゃんとお姉ちゃん、すごく格好良かったよ。」嬉しそうに話す里穂。それをうん、うんと聞く2人のママだった。

「そう言えば、千夏さんから電話があってポスターを送ってくださったみたいだけど誰も居ないから戻って来たって言っていたの。だから事情を話して高原ホテル宛に送り直してもらっているのよ。」信子の報告はもう一つあった。「8月に入ってピアノのCMが関東ローカルだけど流れているの。優香さんが言うには、それが評判で会社宛てに問い合わせが結構来ているそうよ。嬉しいけど新学期が心配だわ。」

「優太もしばらくは帰れないかもね。」優太ママも信子同様、新学期の心配をしていた。

「遥香さんも音大の推薦試験を控えているし、こちらも心配だわね。」2人のママはそう言ってため息をついた。その時、“クリームあんみつ”が運ばれてきた。「悩むのは後にしていただきましょう！」そう言ってお互いに顔を見つめて笑った。

「あのね、さっき“高原神社”にお参りしてお御籤引いたら3人とも大吉だったんだよ。すごいでしょ！」里穂に合わせて3人でそれぞれのお神籤を2人のママに見せた。「すごーい！何か良いことありそうだね。」そう言って２人のママは喜んでくれた。

５人でお店を出て駅方向へ歩く。「楽器店に寄っても良いかなあ。弦を買いたいんだ。」そう言う優太君。「そう言えば駅ビルの中にあるみたいだよ。」優太ママが案内板で見かけたという。駅ビルは中規模と言えるくらいの複合商業ビルだ。地方の駅ビルとしてはかなり立派だ。駅のコンコースからエスカレーターで２階へ。途中で駅の列車案内が見える。この駅が終点の臨時特急列車の案内が表示されていた。「パパが土日に往復しているのって大変だよね。帰りに時刻表を買ってね。調べるから。」美穂が信子にお願いした。「そうだね、時間が合えば始発みたいだし座って行けるかもね。パパも大分楽になると思うわ。」信子も賛成だった。２階に上がって先ずは楽器店を探す。案内図を見るとどうやら一番奥にあるようだ。いろんなお店が入っていて見ているだけでも結構楽しい。ビルの奥に楽器店はあった。結構な規模のお店で様々な楽器が展示されている。ピアノも数台置いてあった。優太君と優太ママが弦を選んでいる間、美穂と里穂はそっとピアノに触れてみた。里穂がドレミドレミ♪と弾いてみると優しい音色を奏でてくれる。「優しい人に買って貰えると良いね。」ピアノに話しかけるように呟く美穂。「うん、きっと買って貰えるよ、お姉ちゃん。」里穂がそう答えた。

「可愛いお嬢さんたちねえ。」そう声を掛けてきたのはお店の老婦人だった。どうやら楽器店の経営者らしい。「ごめんなさい。勝手に弾いちゃって。」そう謝る美穂と里穂に老婦人は続けた。「良いの！良いのよ！綺麗な音を鳴らす子だと思ってつい声を掛けてしまったの。こちらこそごめんなさいね。」そう言ってピアノの前に座り演奏を始めた。「エリーゼのために」を綺麗な姿勢で演奏していく老婦人。

「美穂！里穂！勝手に弾いてはダメだよ！」そう言って信子が駆け寄ってぃた。そして弾いているのが老婦人と分かり驚いていた。

「ママ！どうして私たちだと思ったの？」美穂が信子に聞いた。

「そ、それはね。曲のタッチが似ているからよ。」そう答える信子。

そして気付いた。「おかあさま、この曲ご存じですか？」信子は右手だけである曲を弾き始めた。みるみるうちに老婦人の目から涙が零れ落ちた。「あなた！何でピアノ科の寮歌を知っているの！」後は言葉にならなかった。「やはり先輩、音大の卒業生でいらしたんですね。」そう言ってハンカチを老婦人にそっと渡した。

「ママ！どうして分かったの？」里穂が信子に尋ねた。

「それはね、音大の流派なの。代々引き継がれる演奏方法なのよ。２人ともママが教えているから知らず知らずのうちにその流れが身に付いているのね。」信子は優しく２人の娘に説明した。

「まあ！それで私の演奏と娘さんたちの演奏と聞き間違えたのね。でも嬉しいわ。こんな可愛い子たちが音大の伝統を引き継いでいってくれているなんて。」そう言って喜ぶ老婦人。

「失礼ですが、前理事長の“歌子先生”の近い代のOGでいらっしゃいますか？」信子の問いに驚く老婦人。

「どうして“歌ちゃん”を知っているの？」声を震わせて逆に信子に問いかけた。

「はい。私は“歌子先生”の最後の愛弟子です！」信子も涙ぐみながらそう説明した。

「そうか！そうか！“歌ちゃん”の愛弟子さんだったのですね。私と“歌ちゃん”はピアノ科の同期でね。懐かしいわ。もう何十年と会っていないの。」そう話す老婦人。

「おかあさま、実は娘たちが“歌子先生”がいらっしゃる老人ホームで演奏会を催しているんです。今度の土曜日なのですが私たちとご一緒されませんか？車でお迎えに上がりますよ。」信子の言葉に笑顔になる老婦人だった。

「おばあちゃん！どうかしたの？」若い店員さんが駆け寄ってきた。

「ああーっ！副部長さん！」美穂が大きな声を上げた。

「わあっ！皆さんお揃いで！」若い店員さんは高原高校音楽部の副部長さんだった。

「おやおや、あなたの知り合いだったのかい？」

また音楽の輪が広がった瞬間だった。

お互いに連絡先を交換し楽器店を後にした。

また何時もの朝がやって来た。りすくんたちと至極の時を過ごした美穂と里穂は今日の朝ごはんの作戦を立てていた。何としてもあのチョコバナナを食べたい！という思いが強かったからだ。しかも知ってしまった以上毎日食べられるという幸せが続くのだ。

思わずニヤニヤしてしまう2人だった。

やがて優太君が起きてきた。夕べは夜更かししたようだ。

今日は５人で朝食バイキングに向かう。何時もの様に先陣を切って美穂と里穂の２人が料理の元へ向かう。何と！今日はエビチリと酢豚を取りカニチャーハン、中華スープで中華定食を作り上げていた。

それを見た優太君。何時もより少食だと気付き、何か企んでいると見抜いていた。優太君は何時もながらの海鮮丼、２人のママも同様だ。またまた賑やかな食卓が戻って来た。長期滞在の方々とも顔見知りとなり、お話をする機会もうーんと増えた。軽めの中華定食を食べ終えた２人が向かったのはチョコレートフォンデュだ。二人ではしゃぎながらチョコバナナを作っている。りんごやみかん、パイナップルとフルーツのオンパレードだ。余りの量に驚く３人。

「チョコが固まると皆１つになってしまうわよ。」優太ママが笑いながら警告する。そしてそれはすぐに現実となった。

「わあーっ！どうしよう！」一つの塊と化した２人のチョコレートフォンデュ。優太君が立ち上がり何かを取りに行った。そして２人のために持ってきたものはナイフとフォークだった。「これで切りながら食べると良いよ。」そう言って二人に渡した。

「ありがとう優太君。」「優太お兄ちゃん、ありがとう。」嬉しそうにチョコフォンデュを切り剥がしながら美味しく頂く２人だった。

今日は水曜日、午後から高原高校に出向く日だ。それまで各自練習をする。電子ピアノを使用する３人はヘッドホンを使うため音は出ない。従って音が出るのは優太君と優太ママのヴァイオリンだけだ。

そして11時を過ぎると一旦休憩を取る。大人は紅茶を、子供はオレンジジュースを飲みながらおやつを頂く。今日のおやつは“笹団子”、2人のママのお土産だ。笹の香りが堪らない。甘いお団子に花を添えるようだ。部屋中が笹の匂いに包まれる。「パンダさんって何時もこんな感じでご飯食べているんだろうね。」ぽつりと里穂が言った一言が皆の笑いを誘った。

お昼はこれまたお土産のお蕎麦だ。備え付けの大鍋で一気に茹で上げる。そばつゆ付きなので気軽に頂くことが出来る。おそばが茹であがる間に小葱を刻む美穂。料理の方も、小5ながら主婦並みの腕前だ。家から持ってきたザルの器が役に立つ。

おそばが茹で上がると優太ママが手伝ってくれる。流しに用意した大きなザルに向かって大鍋を倒すようにしておそばを移す。高原の冷たい水道水で一気に締める。良い硬さに茹で上がったようだ。

各自の分に盛り付けていく。そして「いただきます。」

「ううーん！美味しい！」皆おそばを上手くすすりながらのど越しを楽しむ。「もっと買ってくれば良かったわね。」優太ママが残念そう言う。「でも、キャリーバッグに入らなくなるわよ。」信子が笑う。

「ママ、少し足りない位がまた食べたくなるから良いんだよ。食べたくなったら製造元に電話して送って貰えば良いんじゃないかなあ。」優太君のもっともな意見だった。皆思わず頷いていた。

お昼の後片付けが終わると高原高校へ向けて出発だ。

何時もの様に電子ピアノなどを抱えて2階の音楽室へ向かう。

挨拶して中に入る。何時もの音楽部のメンバーの皆さんが迎えてくれる。それが当たり前のようになっていることが何だか嬉しい美穂だった。副部長さんから昨日の話しへの返事をいただいた。「2人でお言葉に甘えます。よろしくお願いします。」とのことだった。

練習を始める。何時も通り各楽器ごとの練習だ。今日は信子がピアノの担当に入る。賑やかに練習が始まる。しばらくして里穂が窓から外を眺めて居て何かを発見した。ニワトリさんが1羽脱走しているのだ。「捕まえに行ってくる。」美穂にそう言い残して里穂は音楽室を出てニワトリ小屋へ向かった。その様子を音楽室の窓から見守る美穂。里穂は素早い動きでニワトリさんを捕まえ小屋へ戻した。どうやらエサやり当番の人が鍵を掛け忘れたらしい。きちんと鍵をかけて体育館の傍を歩いていると声が聞こえる。それは剣道部の皆さんが練習をしている掛け声だった。出入り口の扉をそっと開け中を覗う。10人位の防具を着た剣道部の人たちが練習をしている。その動きをじっと見つめる里穂。それに主将らしき人が気付き里穂に声を掛けてくれた。「興味あるなら見学していきなよ。」そう言われて正座して見学する。一人一人の動きに目を遣る里穂。動きを見切っているようだ。ただならぬ様子に気付いたのは主将だった。

「君何年生？剣道に興味があるの？」主将に尋ねられた里穂が答える。「小学3年生です。剣道は2年生までやっていました。」

「えっ！惜しいなあ。何で辞めちゃったんだい？」「今の家の近くに道場が無いから、あと、ピアノを始めたからです。」そう答える里穂に「久しぶりに打ち込みをやってみないかい？あ、でも君に合う防具が無いなあ。」そう言いながら副将を呼んだ。「この子のお相手を頼む。防具が無いから攻撃は無しだぞ。」そう言って練習に戻って行った。副将は竹刀を持ってきて里穂に渡した。「さあ！打って来てごらん。」そう言って上段に構えた。「めーん！」美穂の声がした時には見事に面が決まっていた。

「う、嘘だろ！俺は上段に構えていたんだぞ！何で面が入るんだ？」

再度気を取り直した副将が上段に構える。里穂が風のように動く！

「めーん！」鮮やか過ぎる1本だ。それを見ていた部員たちから手を抜き過ぎだと笑われる副将。「じゃあお前やってみろ！」そう言って先鋒を指名した。「上段で構えているのに面を取られるなんてどうかしてるぜ。」そう言いながら「よし！来い！お嬢ちゃん！」と声をあげる。再び里穂が動く。「めーん！」一本が決まった。

「えっ？何がどうなった？」先鋒も何故面を取られるのかが分からなかった。

部員たちに衝撃が走る。余りの速さに目が付いて行かないと口々に話していた。

「お嬢さん、すごいね。かなりやるじゃあないか。今度は私がお相手しよう。」そういって上段に構える主将。里穂も構えるがなかなか打って出られない。先ほどの2人とは明らかに実力が違う。里穂は作戦を変える。そして再び風のように動く。面が打てなければ小手を打つ。そして抜き胴を狙う。「こてえーっ！どうーっ！」小手を奪いそのまま胴を打つ。本当に一瞬だった。主将は動くことすらできなかった。

剣道部に更なる衝撃が走る。強い！強すぎる！

たちまち大騒ぎになった。「このままでは剣道部のメンツは丸つぶれだ。」他の部員たちが声を上げた。「止めておけ！お前らがかなう相手じゃあない。」そう言って制する主将を無視して一人ずつ名乗りを上げて里穂と対峙する部員たち。「やあーっ！」突進してくる相手を抜き胴で仕留める里穂。「な、何のこれしき！」そう言いながら真っすぐ突いてくる相手には竹刀を払ってからの面打ちだ。

「まだまだ！さあ来い！」里穂の声が体育館に響く。

その頃美穂は里穂の帰りが遅いのに気をもんでいた。

「ちょっと！皆ストップ！」優太ママが大声で全員の演奏を止めた。

「里穂ちゃんの声が聞こえないかしら？」そう言って聞き耳を立てる優太ママ。

「あ！聞こえる！体育館だ！」優太君が大声で叫び走り出す。皆慌ててそれに続く。「里穂ったら、何やってるのよ！」美穂も全力で階段を駆け下り体育館へ向かう。2人のママも向かう。

最初に体育館に着いたのは美穂だった。

「里穂！どうしたの？なにこれ？」美穂は体育館の入り口付近で立ち尽くしていた。美穂が見たものは、竹刀を持って仁王立ちの里穂とバテバテの剣道部員たちだった。直ぐに優太君を始め音楽部の皆さんも駆けつけてきた。そして美穂同様に唖然としてその光景を見つめていた。

「ま、参りました。」主将が里穂に頭を下げた。

「いいえ、皆さんが防具なしの私を気遣ってくださったからだと思います。でも次は遠慮は無用ですよ。お疲れさまでした。」そう言って竹刀を元の場所に置いた。

「里穂駄目だよ。防具も付けないで！」信子はそう言って里穂を抱きしめた。「ママ、ごめんなさい。」謝る里穂。「懐かしくって、つい・・・。」

「皆さんごめんなさいね。練習のお邪魔をしちゃって。」信子は主将の手を取ってそう詫びた。「何でそんなに強いんですか？」そう尋ねる主将に信子は答えた。「この子は剣道3段なんです。」

久しぶりに竹刀を握った里穂の手は少し腫れていた。そこで冷たい水で冷やすことになった。このままではピアノを弾くことが出来ない。週末の演奏会も参加が出来るかどうか不安だった。

そんな時騒ぎを聞きつけた野球部の皆さんが駆けつけて来た。事情を聞いて皆驚愕する。洗面器で両手を冷やしている里穂を見てマネージャーが部室へ走る。そして“アイシング”の用品を持って来てくれた。野球部ではボールを打ち損じた際に手が痺れて里穂と同じような症状になると言う。手厚い治療のおかげで里穂の不安も和らいでいった。マネージャーさんは今日一日里穂により沿ってくださると言う。

「あらあら、小さいのに立派な剣士さんね。私は志保、野球部でマネージャーをしているの。よろしくね。」そう言って陽に焼けた顔でにっこり笑う。白い歯が光りとても眩しかった。

「私は里穂と言います。今日はご迷惑をおかけして申し訳ありません。」とか細い声で答えた。

「それにしても強いわね。うちの剣道部も県予選では結構いい所まで行くの。その剣道部を打ち負かすなんて映画の“道場破り”みたい。カッコいいわめ。」志保さんはそう言って笑った。

「志保！後は頼んだぞ！」キャプテンに声をかけられにっこりと頷く志保さん。「お転婆さん！早く良くなれよ。」爽やかな笑顔を振りまいてキャプテンは練習に戻って行った。

それから志保さんはこの町のことを色々話してくれた。そして夏祭りのことも。お盆の間、帰省してくる人たちで町の人口が３倍近くに膨れ上がるそうだ。その分お祭りは盛大なものになる。盆踊りを始め数々の出し物が演じられてそれはもう賑やかだと言う。話を聞いているうちに里穂のわくわく感は高まって行く。

会場は３か所、高原神社とお祭り広場、そして町民ホールだ。特に町民ホールでは各種演芸やのど自慢が行われるという。

「のど自慢、里穂ちゃんたちも参加してみたら？」志保さんはそう勧めてくれた。

「音楽室のドアをノックする音が。「失礼します。」そう言って少し厳つい男性が入ってきた。傍には剣道部の主将が立っていた。

「私は剣道部の顧問をしております森田と申します。この度はうちの部員たちがお嬢さんに大変失礼をいたし誠に申し訳ございませんでした。」そう言って主将と共に頭を下げられた。

「いえいえ、こちらこそ監督不行届きで皆さんの練習の邪魔をしてしまい申し訳ありませんでした。」信子もお詫びを伝えた。

「お強いお嬢様はこちらの？」そう言って美穂を見る顧問。

「先生、違います。あちらの・・・。」主将に言われて驚く顧問の先生。「えっ？あの子？あ、あの子に負けたのか？」動揺を隠せない顧問の先生に里穂が歩み寄る。

「皆さんの練習の邪魔をしてしまい本当にごめんなさい。」そう言って謝る小３の里穂の姿に信じられないという表情だ。

「お嬢さんは強いんだねえ。うちのお兄さんたちはそんなに弱くはないけど10人で迷惑をかけてしまって本当にごめんね。許してね。」そう言って里穂に謝ってくれた。里穂は少し恥ずかしそうにしていた。「なぜそんなに強いの？」顧問の先生が単刀直入に里穂に尋ねる。

「小さい時からおじいちゃんに習っていました。そのせいだと思います。」そう言う里穂の目は少し寂しそうだ。美穂には里穂が剣道をやめた理由が分かるような気がした。

顧問の先生と主将が帰られると練習再開となった。

様々な音が流れる中、志保さんと里穂との話しも続く。学校の話。好きな男の子の話。「さっきキャプテンが志保さんのことを呼び捨てにしていましたよね。」里穂の鋭い質問に苦笑いする志保さん。

「里穂ちゃんの観察力にはまいっちゃったなあ。実は、キャプテンとはお付き合いしているの。内緒にしておいてね。」志保さんはそう言って目配せをした。

「大丈夫です。実は私も好きな人がいるんです。でもお互い忙しくて、彼とは放課後の音楽室でデートしているの。」小3の里穂の告白に志保さんは目を丸くした。今の小学生ってそうなんだ！

土曜日がやって来た。早朝5時に起き6時に楽器店の経営者春子おばあさんと孫の小春さんを迎えにご自宅へ。お2人をお迎えして一路老人ホームへ向かう。8人でワイワイと騒ぎながら、途中休憩を挟みながら快適にドライブを楽しむ春子おばあさんと小春さん。初めてのサービスエリアにおっかなびっくりだ。2人にとって初めての世界だった。大勢の人たちが思い思いに過ごしている光景はまるで夏祭りのようだと言って驚いていた。そんなサービスエリアでお茶を買ってドライブに備える。美穂たちは小春さんを誘って売店へ繰り出す。4人でお菓子の試食を頂いたり車内で食べるお菓子を見繕ったりした後立ち寄ったのはソフトクリーム屋さんだ。思い思いのソフトクリームを注文し木陰のベンチでいただく。小春さんにとっては通常では考えられない1日の過ごし方だ。

優太君の携帯電話が鳴る。出発の時間だ。

最後のサービスエリアを出ると一直線に老人ホームへ向かう。

校外の街中を抜けると目的の老人ホームだ。車中からホームへ連絡を入れる。お母さまへの面接の依頼だ。今日は学校長さんもいらしているとのことだ。そしてワゴン車はホームの職員専用駐車場へ。

春子おばあさんの手を取り車から降りる手助けをする小春さん。

事務室の窓口でホーム長さんと事務のお姉さんにご挨拶する。

皆でお母さまのお部屋へ歩いていく。緊張するという春子おばあさんを気遣う小春さん。

信子がノックをする。中から「はーい！」と言う元気な返事が。

「信子です。失礼します。」そう言って部屋に入る信子。

「今日はお母さまにお客様をお連れしました。」

「あら！誰かしら？」お母さまは扉の方を見る。そして入って来たのは春子おばあさんだった。

「こんにちは。ご無沙汰しておりました。」そう言われて一気に泣き出したお母さま。「春ちゃん！」「歌ちゃん！」そう言って抱き合った。「お互い元気で良かった！」と久しぶりの再会に大喜びだ。

付き添いの小春さんを残して私たちは控室へ。3人は何時もの掲示板に向かう。恒例となったお便りやリクエストへのお礼を書き込む。遥香さんの書き込みにはそれぞれが代筆する。掲示板は皆さん方のメッセージのメモで花が咲いたようになっていた。今回は里穂へのメッセージも多く皆さん、演歌がお好きなことも垣間見えた。

何時もトイレで着替える優太君のために円筒形の着替えスペースを作っておいた。テレビで見る早着替え用の円筒形のカーテンだ。

女子2人にウケながらの着替えに照れまくる優太君だった。

今日は春子おばあさんのためにクラッシクを最初に持ってくることにした。そしてその後から歌謡ショーだ。

開演の時間が近づいてきた。3人で円陣を作り気合を入れる。

ステージ裏へ移動する。今日は里穂の演奏は無いため電子ピアノの設置は無く、少し寂しい気がした。

「皆さん、こんにちは。」そう言いながら出ていく美穂。それに続く優太君と里穂。「今日は最初にクラッシックをお届けします。」そう言ってピアノの前に座る美穂。そしてヴァイオリンを構える優太君。

美穂の力強い演奏が始まる。「『チゴイネルワイゼン』ね。」春子おばあさんがお母さまに囁く。頷くお母さま。「この二人、ただの小学生ではないんです。」そう春子おばあさんに説明する学校長さん。

優太君のヴァイオリンが鳴る！とても小学生レベルの音の出し方ではない。二人の演奏が会場を包み込んでいく。そしてその演奏は高速演奏の曲後半の第３部へ突入していく。皆固唾を飲んで優太君の指使いに見惚れている。そして圧巻の内に演奏は終わった。大きな拍手が起こる。「素晴らしい！いつ聴いてもこの二人の演奏は素晴らしい！」べた褒めの学校長さんだった。春子おばあさんもドレミだけで美穂の才能を見破ったが、まさかこれ程までとは思ってはいなかったようだ。しかもあの時何気なくヴァイオリンの弦を買いに来た少年がこれほどの演奏をするとは想像もしていなかった。

「それでは、ここからは何時ものお歌へまいりますね。」そう案内する美穂の目に会場の隅で見学する優香さんと早紀さんの姿を見つけた。「わざわざ忙しい中を駆けつけてくださったのか。」と感激した。

美穂のピアノで最初の曲が演奏される。恒例の曲となった「リンゴの唄」だ。軽快なメロディーが流れる。そして最初の歌唱のイントロに移る。流れる様な演奏、見事なつながりと春子おばあさんは驚くばかりだ。とても車の中で無邪気にはしゃいでいた娘とは思えなかった。

美穂と里穂のコ―ラスが流れる。「雨の中の二人」だ。こちらもお馴染みになった優太君の最もリクエストの多い曲だ。お母さま方の声出し応援も最近始まった。好評のうちに2曲目へ移る。今度は間奏の合間に優太君のヴァイオリンの演奏が入る「逢いたくて逢いたくて」を美穂がしっとりと歌う。今度はお父さんたちが声を出して声援を送る。ピアノを弾きながら歌う美穂に小春さんもびっくりだ。

3曲目はいよいよ里穂の登場だ。里穂がステージ中央へ進んでいくと大きな拍手が起こる。そして掛け声まで飛ぶ！それに驚く優香さんと早紀さん。イントロで直ぐに分かる「三百六十五歩のマーチ」だ。里穂の民謡で鍛えたパンチのある歌声が良く響く。今日も来てくれた健君にウインクを飛ばしながら歌う里穂にやんやの喝采が巻き起こる。

続く4曲目は「高校三年生」だ。優太君の歌声と歌詞が小春さんを揺り動かす。小春さんも遥香さんも同じ高校3年生だ。

５曲目は美穂の「みずいろの手紙」。何故美穂はこんなに色っぽい歌が歌えるのだろうかと皆が思っているはずだ。

６曲目は里穂の「帰って来いよ」だ。小3ながらこぶしを存分に回して歌う様はもう演歌の女王だ。会場の大人はあきれるばかりだ。

７曲目は美穂の「終着駅」だ。これまた最高に色っぽい曲だ。途中の息継ぎも色っぽさ抜群だ。会場から指笛まで飛び出す。

８曲目は続いて美穂の「学生時代」だ。先ほどまでの色っぽさは影を潜めしっとりと歌い上げる。思わず会場内の全員が聴き惚れてしまうほどだ。

９曲目は里穂の十八番「あなたにあげる」だ。前回鮮烈なデビューを果たしたあの名曲だ。皆が里穂の歌声に聴き惚れていく。

ついに10曲目、ラストの曲だ。優太君の「誰か故郷を想わざる」でトリの歌唱となる。優太君のファンからの黄色い声援が飛ぶ。今日は学園高校の音楽部の皆さんが合宿で不在なのだがファンクラブの有志の皆さんが応援に詰め掛けていた。

最後のシメの演奏「東京ラブソディー」を以って今日の公演はお開きとなった。

控室へ戻ると優香さんと早紀さんが拍手で迎えてくれた。撮影の時の歌唱は遥香さんがメインだったので美穂と里穂の歌が聴けて良かったと満足気だった。そして初めて会う優太君に強く惹かれたようだ。小学5年生ながらのヴァイオリンの弓捌きには特に感心されていた。

その時、春子おばあさんとお母さまそして学校長さんと小春さんの４人が入って来られた。優香さんはお母さまと学校長さんにご挨拶し、続いて大先輩の春子おばあさんとお孫さんの小春さんに初めましてのご挨拶をした。併せて４人に自分の会社の同期である早紀さんを紹介した。しばらくの雑談が続く。お母さまが春子さんに近況を尋ねられた。春子さんが高原駅の駅ビル内にて楽器店を営んでいること、人手不足で小春さんのお友達数人にバイトに入って貰っていることを話した。ゆくゆくは小春さんに店を譲りたいとも打ち明けられた。「立ち入った質問で申し訳ありませんがお店の経営状況は如何ですか？」優香さんの質問には小春さんが答えてくれた。どうやらお店の帳簿付けなどは小春さんが担当しているようだ。

それを聞いた優香さんが提案をした。それは優香さんと早紀さんの勤める楽器メーカーとパートナー契約を結び店舗の改装、音楽教室の運営を行うといったものだった。当然、人材の派遣も視野に入れてのことだそうだ。「一度いらしてください。」小春さんの返事に即行動の優香さんだ。「早紀ちゃんは今日明日空いてる？」

それぞれの上司に電話をして了解を貰い私たちと一緒に高原まで行くという。

「それならお二人ともうちのロッジに泊まってください。広いのでまだまだ余裕がありますから。」そう言う私の提案を素直に受け入れてくれた。夕方から公演があると２人に話すと驚いていた。春子おばあさんも是非聴きたいとのことで早速高原ホテルへ戻ることとなった。優香さんと早紀さんは会社の車で来ていたので２台で連なって走ることにした。出発前にルートの確認とお互いの車のガソリン残量をチェックする。高速に乗る前にガソリンを満タンにすることにした。こうして高原ホテルへ向かうことになった。春子おばあさんはワゴン車のソフトな乗り心地が気に入ったようで車酔いもなく途中で睡眠を取ったりと快適に乗っていただいた。

最初のサービスエリアで食事をと思ったのだが少しでも早く着きたいのでお弁当を買い車内でいただくことにした。皆の注文を信子と優太ママが聞いて集計。買いに走る。お茶が重いので優太君が狩り出された。そして全員にお弁当とお茶が行き渡ったところで出発する。次のサービスエリアで小休止してドライバーを交代する。ワゴン車は信子に、社有車は早紀さんにそれぞれ交代する。途中、若干渋滞したものの夕方５時には高原ホテルへ到着できた。フロントで２名の宿泊追加と２名の入浴券を購入する。公演前に温泉でゆっくりと疲れを癒していただこうという信子の計らいだ。遠慮する春子おばあさんを皆で説得し大浴場へ向かう。一気に４人増えた女性たちは８人の大所帯となり賑やかな声が温泉内に響いていた。春子おばあさんは美穂と里穂に背中を流してもらい嬉しそうだったという。

お風呂の後は手荷物を車に置いて、レストランで早めに夕食を済ませる。今宵は夕食バイキングだ。朝食とは異なり重めのメニューも多い。大人はお刺身を盛り合わせてご飯とお味噌汁のパターンだ。春子おばあさんは生まれて初めてのバイキングに驚いてばかりだった。なかなかメニューが選べないでいると美穂と里穂が助けてくれた。優香さんと早紀さんも好きなものを選んで楽しんでくれていた。

何時もの様に料理長さんがご挨拶に来てくださった。初めての春子おばあさんに話しかける。すると流暢な英語で会話を始めたのだ。

これに一番驚いたのは小春さんだった。今まで一度も祖母の英語を聞いたことが無かったからだ。料理長さんはすごく嬉しそうに英語での会話を楽しまれていた。

「すごーい！おばあちゃん！」小春さんが言うと恥ずかしそうに話してくれた。音大時代にピアノを専攻されていた時の指導教授が外国の方だったそうだ。それで自然と覚えたとのことだ。夕食を早めに済ませた私と信子はロッジに戻りヴァイオリンと電子ピアノを積んで再度ホテルへ戻る。高原高校の皆さんにより会場の設営は終わり既にお客様たちが着席されていた。小春さんも設営の仲間に加わっていた。設営が終わると皆さんと別れて春子おばあさんの隣に腰かけた。一緒にバイト仲間の数人が春子おばあさんにご挨拶に来てくれた。嬉しそうにそれに答える春子おばあさん。その反対隣りに優香さんと早紀さんが座る。本来は３人での演奏になるところだったのだが２人のママの出張公演先が台風による影響で中止となったため５人での演奏となったのだ。そして急遽演奏することとなったのが「ハンガリー舞曲集第７番」だ。こちらに来て練習していた曲の一つだ。

ピアノは信子が担当する。ヴァイオリン以外のパートは美穂と里穂が電子ピアノで演奏する。そして今回から演目の紹介をすることとなった。

美穂がマイクを持ってステージ中央へ進む。拍手が起きなかなか鳴り止まない。鳴り止むのを待ってから美穂の曲紹介だ。

「皆様、こんばんは。今宵はようこそお集まりいただきました。厚く御礼申し上げます。それでは演奏会を始めさせていただきます。最初の曲は「ハンガリー舞曲集第７番」です。それではお聴きください。」そう言って自分の電子ピアノの前に戻る。

信子のピアノで演奏がスタートする。調和の取れた演奏に皆さんが身を委ねる。春子おばあさんは震えていた。たった５人でオーケストラの曲を見事に演奏しているからだ。「何て人たちなの！」

優香さんと早紀さんも同様だった。「これも美穂ちゃんの編曲？」

「プロが２人いるからって残りの３人は小学生じゃないの。何でこんな演奏が出来るの！」早紀さんも小学生３人の実力に脱帽だった。

「続きまして、ヴァイオリンとピアノの曲となります。『カルメン幻想曲』です。」美穂は曲紹介が終わると急いでピアノの元へ。そして直ぐにひき始める。それに追随する優太君のヴァイオリン。もう二人の定番曲となりつつある。春子おばあさんも大満足のようだ。

しばらく会えないでいた優香さんは二人の成長に驚いていた。もう小学生、いやアマの域を超えている。そうプロと言っても過言ではないと思った。

こうして演奏会は無事にお開きとなった。

後片付けが行われている中、春子おばあさんは里穂を呼び止めた。

「里穂ちゃん、手を見せてくださいな。」そう言って美穂の両手を握り、優しく摩り始めた。里穂はじっと春子おばあさんを見つめていた。「手を痛めているのね。演奏で分かりましたよ。あまりお転婆はしないようにね。」そう言って笑った。「はい。」里穂は下を向いて頷いた。里穂の目から涙が一滴こぼれた。

春子おばあさんと小春さんを自宅まで送り届けた私に2人からお礼の言葉をいただいた。私は逆に１日中連れまわしてしまったことを詫びた。明日はピアノメーカーの２人が伺いますのでよろしくお願しますと言ってロッジへ戻った。

優香さんと早紀さんを迎えてお喋り会が始まっていた。そんな中、優太君が時刻表とにらめっこしている。そんな優太君に時刻表の見方をレクチャーする。うん、うんと頷きながら私の説明を聞いてくれる優太君。「明日、美穂ちゃんと２人で結婚式場まで行くんですよね。車の運転は疲れるから電車はどうかなあと思って。」と嬉しいことを言ってくれる。一緒に見てみると高原駅から普通電車に乗って途中で特急に乗り替えるルートと、待てよ、お盆期間中は高原駅始発の臨時特急があるじゃあないか。運転期間を確認すると明日は運転される。それじゃあ帰りはどうだ？下りはさすがに夕方の便は無かった。「特急で途中駅まで来て乗り換えるとどうだい？」そう言って二人で探す。接続もばっちりだ。よし！このプランで行こう！

美穂に明日は電車で行こうと話すと早紀さんから意外な答えが返ってきた。既に美穂たち３姉妹は人気が出ていて公共の交通機関の利用は避けたほうが良いとのことだ。その話を聞き美穂の身の安全を考えるとやはり車となる。残念だが仕方ない。

優香さんと早紀さんを迎えて今宵は賑やかな夜となった。

美穂と私は早朝にロッジを出発した。お盆期間の混雑を考えてのことだった。

一方、優香さんと早紀さんは朝食のバイキングを楽しんでいた。

名物となった里穂の“極楽鉄火丼”に驚かされながら思い思いのものをチョイスしていた。締めのデザートは里穂に連れられてチョコレートフォンデュに夢中になっていた。そして子供の様にはしゃいでいた。

少しでもお客さんが少ないうちにと楽器店を訪れる時間を気にしていた２人。春子おばあさんに電話を入れて時間を打ち合わせる。お昼前に伺うことになった。「優太君、里穂ちゃん、2人も一緒に来てくれるかなあ。協力して欲しいことがあるんだけど。あと、優太君ヴァイオリンを忘れないでね。」そう言われて不思議に思いながらも出かける用意をする2人。

２人のママに見送られて楽器店へ向かう。駅ビルの駐車場に車を停め駅構内のエスカレーターで２階へ上がる。2人の道案内で奥へ進む。楽器店が見えてきた。と同時に外観をカメラに収める優香さん。

そして店内に入ると直ぐにレジカウンターがあり春子おばあさんと小春さんが出迎えてくれた。お互い挨拶を済ませると一通り店内を見て回る２人。要所、要所で写真を撮る優香さん。それについて回る小学生の2人。

いよいよ打ち合わせに入る。最初に子供の目線でのお店の感想を聞かれる2人。入り口は入り易いか、商品は見易いかとかを聞かれ率直な意見を述べる。それをパソコンに打ち込んでいく早紀さん。初めて見るパソコンに興味津々の春子おばあさんと小春さんだ。しかもタイピングが早い。まるでピアノを弾いているかのようだ。「ピアノを弾かれるのですか？」小春さんの問いに「いえ。私は楽器が苦手で。でも音楽を聴くのは大好きなんです。」そう言って笑った。「入り口に近いピアノを弾かせていただいてよろしいですか？」と言う早紀さんのお願いに二つ返事のお２人。里穂

ちゃんクラッシクで「トルコ行進曲」と親しみやすい「エリーゼのために」と「乙女の祈り」を、優太君は優雅な曲「メヌエット」をそれぞれお願いね。お客さんの反応を見たいの。」そう言って2人をピアノの傍へ連れて行く優香さん。「建物の一番奥なのでこちらまで来る間に客足が次第に途切れがちになります。それで楽器を鳴らしてみたいのですが他の店舗さんは大丈夫でしょうか？」早紀さんがお２人に確認した。「組合長さんに聞いてみます！」そう言って電話を掛ける小春さん。事情を説明すると「少し待ってください。」とのことだ。その内、商店街を走る複数の足音が。

商店街の組合理事さんたちが手分けして各店舗を回ってくれているのだった。そして最後に楽器店にいらしてくださった。

「春子さん。皆さんの確認が取れました。演奏していただいても大丈夫です。」そう言って笑う組合長さんたち。「商店街の活性化が出来るのならという皆さんのご意見でした。」

組合理事さんたち立会いの下でピアノ演奏が始まる。確かにお客さんはこの場所までは滅多にやって来ない。力強い里穂の「トルコ行進曲」の演奏に驚く組合理事さんたち。口々に「これならお客さんが奥まで来てくれるかも。」と期待して試みを見守ることに。

先ずやって来たのは里穂たちと同じ小学生の女の子たちだ。２人、３人連れで集まってくる。どうやらピアノを習っている子供たちのようだ。最初は子供たちだけであったが、その内、子供を呼びに来た父母が立ち止まって聴き入ってくれるようになった。音楽が聞こえ、人が集まっているのを見た人も次第に集まってくる。そう、里穂の演奏がお客の流れを変えたのだ。組合理事さんたちも驚きの表情だ。

続けて里穂が誰もが耳にしたことのある「エリーゼのために」を弾き始めるとピアノを習っている子たちの表情は緩む。自分も弾ける馴染みの曲だからだろうか。

店内では４人がその様子をじっと見守っていた。特に、今まで見たことのないお客の集まり具合に驚いていたのが春子おばあさんだ。今までピアノは売り物のためあまり弾いて貰うことは無かった。

「売り物としては弾いていただくことで価値は下がります。でもサンプルとして割り切れば、価値が下がった分は他のピアノが数台売れれば採算は合ってきます。」そう説明する優香さんに頷く春子おばあさんと小春さん。

次は優太君のヴァイオリンのソロ演奏だ。今度は大人が弾き込まれ帰ろうとしない。興味のない人はすぐに立ち去るのだが、一度立ち止まってくださるお客さんはじっと演奏に聴き入ってくださる。

「おはようございます！ねえ！ちょっと！なにごと？」アルバイトの２人の音楽部の生徒がやって来た。いつも見ることのない人だかりに驚いている。「弾いているのって優太君じゃない？」「あっ！里穂ちゃんもいるわ！」そう言って大はしゃぎだ。

「それじゃあ、後は店内のレイアウトだわね。」そう言って再びパソコンを操作する早紀さん。表計算ソフトを使って店内の見取り図を作成していく。その手順を見ていた２人はあっけにとられる。パソコンをこの世の物でないと言わんばかりだ。

「ねえ、早紀ちゃん。お教室のスペースが十分に取れないんだけど。」何やら作業をしながら少し困った表情の優香さん。「優香ちゃん、大丈夫。物品庫はもう必要ないから。」そう答える早紀さんに小春さんから質問が出る。

「在庫は持たないと困ります。」それに頷く春子おばあさん、

「在庫は弦やピックなどの消耗品だけにしましょう。後はカタログでの受注とします。良く売れるものだけを在庫として置けば大丈夫ですよ。最近は部品も共通化されていますので古い部品を何時までも持つ必要はないんです。それを可能にしているのがこのパソコンなどのOA機器と呼ばれる物たちなんです。」早紀さんに代わっての優香さんの説明に頷く小春さん。「小春さん、美穂ちゃんたちが使っている電子ピアノもその物たちの仲間なんです。本物のピアノの音を真似た電子音を出しているんです。」何気なく見ていた電子ピアノについて新たな認識を持った小春さんだった。演奏の最後の方では商店街の店主さんたちも詰めかけてきた。

「そして、これが今日の最終兵器です。」そう言って大きなカバンから大量の新製品のピアノのパンフレットを取り出した。それは“天使の３姉妹”が載ったちらしだった。手にとって驚くお２人。そこには愛らしい天使姿の遥香さんと美穂、そして里穂が映っているからだ。「まあ可愛らしいわ！」そう言ってちらしの３姉妹を見つめるお２人。「今からお店のゴム印を押したこのチラシを入り口に置きますね。」そう言って優香さんはまだ演奏中の優太君の傍の台の上にちらしを置いた。直ぐに気づいた小学生の女の子たちが次々に貰っていく。それにつられるように大人の皆さんもちらしに手を伸ばす。

商店街の皆さんもちらしを手に取ってくださった。

「あれ！この天使の子、さっきピアノを弾いていた子じゃないのか？」口々にそういう会話が交わされる。

この地方ではテレビCMは流れていないものの最初の感触としては上々だと思う２人だった。「組合の皆さん、改装工事となった場合は店の前の片隅に大きなテレビを置きたいのですが。共有スペースをお借り出来ないでしょうか？」そう言う２人のお願いに快く了承してくださる商店主の皆さんたち。「非常口さえ塞がなければ大丈夫ですよ。」口々にそう言ってくださった。「テレビではこちらでは流れていない“天使の３姉妹”のCMを流します。」

主だった打ち合わせが終わると４人はロッジに戻って来た。

「お疲れさま。優香さん、早紀さん。会社に戻る前にお昼を食べて行って。」２人のママの勧めで美味しいラーメンを頂く。それに４人が加わりラーメン談義となった。

「ごちそうさまでした。美味しかったです。」２人は口を合わせた様にそうお礼を言った。「あのう、私たちの宿代は？」早紀さんが尋ねた。「一棟借りだし、私たちも分からないのよ。最終的に割引もあるから。親戚の家に泊まったことにしておけば？宿泊日当は会社の旅費規定に載っているんじゃあないかしら。」そう言いながら２人を送り出す４人だった。

「また近々店舗に顔を出しますから寄らせてください。お世話になりました。」そう言って社有車に乗り込みロッジを後にした。

「さあ、今日の演奏会に備えて練習しましょう！」優太ママの掛け声に合わせて「おおーっ！」と返事をする優太君と里穂。特に里穂は先ほど何の違和感もなく「トルコ行進曲」が弾けたことを信子に報告した。「まあ！良かった！里穂、ママは心配していたんだよ。」そう言って里穂を抱きしめた。「ごめんね、ママ。」そう言って里穂も信子に抱きついた。

今宵の公演は4人で行なうことなった。曲紹介は里穂が担当する。

最初は里穂のピアノソロで「エーゲ海の真珠」からスタートする。

指の不安が無くなった里穂の滑らかな演奏が光る。

「あら、里穂ちゃんったら少しおマセさんになったみたい。」優太ママがそう思って微笑む。

２曲目は優太君のヴァイオリンソロで「シバの女王」だ。

この曲は美穂とのコンビで演奏しているのだが今宵はヴァイオリンの独奏で披露する。今日も優太君のファンクラブと化した高原高校の音楽部の女子部員の皆さんが応援に駆けつけてくれている。

３曲目は「くるみ割り人形」だ。里穂が特訓を重ねた曲だ。ピアノソロに対してヴァイオリン３挺を従えるという美穂編曲のものだ。ヴァイオリンの音色に負けない里穂の演奏はとても自信に満ちて力強かった。会場から驚嘆の声が漏れる。もう小３の演奏ではなかったからだ。ヴァイオリンを弾く３人に優しく見つめられながら堂々と演奏を終えた里穂。会場の片隅で大きく頷く人達がいた。明らかに宿泊客とは違う背広姿だ。里穂の演奏に笑顔で拍手を送ってくれている。

閉演後、この方々が４人の元を訪れた。挨拶によると高原町の町役場の観光課の３名だった。夏祭りで最終日のトリとして町民ホールで演奏して欲しいとのリクエストだ。今宵は遥香さんと美穂が抜けている状況だと信子が説明する。すると意外な答えが返ってきた。

お一人は昨年夏から毎回足しげく通ってきてくださっているとのことだ。それに驚き感謝する４人。「今まで里穂ちゃん中心の演奏が聴けなかったので今日は大満足です。」その言葉に感激して身を震わせる里穂。そんな里穂を傍に居た優太ママがしっかりと抱きしめてくれた。

「明日は全員が揃うので改めてご連絡します。幸い平日でもありますので良いご返事が出来るかと思います。」そう言う信子に「急な話で申し訳ありませんがよろしくお願いいたします。」と３人で頭を下げられた。そして支配人さんと少し言葉を交わして引き揚げていかれた。

美穂と私がロッジに戻ったのと４人が演奏を終えて戻って来たのはほぼ同時刻だった。里穂は私たちに今日の演奏会で練習していた「くるみ割り人形」を弾いたと報告した。美穂に喜ばれハグされて照れまくる里穂に皆が拍手してくれた。このことは里穂が交響曲を演奏できるというステップアップを意味していた。

６人でレストランへ向かう。その車中で夏祭りのイベント参加の話題が出た。当然美穂は乗り気だ。レストランでは食事をしながら春子おばあさんの楽器店の話になった。様々な新しい試みに興味を持つ美穂。店舗の改装後が楽しみだ。

今日は月曜日、遥香さんが合宿から戻ってくる日だ。

高原駅に正午ごろに到着するバスに合わせて皆で迎えに行くことにした。そしてその足で町役場へ夏祭りへの参加の申し込みと打ち合わせを行なう予定でいた。

朝食後、午前中に何時もの様に練習を行う。里穂は交響曲の練習とピアノコンクールでの課題曲「カノン」の練習に励む。一方、美穂は里穂の歌唱曲のカラオケ用の編曲を譜面に書き下ろしていた。各自でそれぞれ練習を行う中、私は２階でうたた寝をしていた。

お昼前に全員揃って遥香さんを迎えに行く。

ほぼ定刻にバスが到着した。元気な姿を見せた遥香さんに皆で「お帰りなさい！」と出迎える。「ただいま！」と遥香さんの弾む声が返ってくる。大勢の乗客で満席だったそうで荷物の受け取りにも時間がかかった。荷物を受け取ると交番へ寄りたいと言う遥香さん。てっきりポスターを見に行くものと思っていたが何やらにこにことおまわりさんと話をしている。戻ってきた遥香さんに事情を聞くとあの事件の顛末を話してくれた。「いいなあ！覆面パトカー！乗ってみたかったなあーっ！」という里穂に車内は大笑いだった。

思った以上に早く町役場へ着いた。どうやら信子が時間に余裕を持たせ過ぎたようだ。だが、おかげでお昼ご飯を食べる時間が持てる。

しかし、町役場は街外れにあるため周りに食堂が無い。「職員さんたちはどうしているのかしら？」美穂の疑問にそうだ！と思った。地下などに食堂があるはずだと取り敢えず７人で行ってみる。

階段を下りると直ぐに喫茶店がありさらに奥には食堂があった。

既にお昼のピークは過ぎているようで空席が目立った。念のため職員さん以外でも利用できるかと食堂のお姉さんに尋ねたところ「大丈夫ですよ。」とにっこりと笑って答えてくれた。

自販機で食券を購入する。食品サンプルが無いのが多少不安だが仕方がない。さすがに皆和食に飢えているようで“サバの味噌煮込み定食”“焼き魚定食”“豚汁定食”が人気メニューだった。小学生３人が“豚汁定食”とは渋すぎる。遥香さんは信子と同じ“サバの味噌煮込み定食”をチョイス、優太君と優太ママと私は“焼き魚定食”を食べることにした。

小学生３人はどんぶり飯が初めての様で妙に期待を膨らませていた。そんな３人に遥香さんが衝撃の一言。「ただのご飯だよ。」

久しぶりの遥香節に大人全員が吹き出してしまった。

さすがにこの地方のお味噌は美味しい。それとお醤油が地元のメーカーの物で味わい深くこちらも美味しく頂いた。

食事が終わると丁度約束の時間だ。地下からエレベーターに乗り観光課へ向かう。

観光課の受付で待っていると担当の女性職員さんが会議室へ案内してくださった。「間もなく課長と主任が参りますので少々お待ちください。」そう言ってお茶を出してくださった。

直ぐにお２人が入って来られた。全員で起立してお互いに改めてご挨拶を交わす。さっそく夏祭りの概要と最終日の町民ホールでの演奏会についての説明を受けた。予定していたバンドが出られなくなったため私たちに白羽の矢が立ったのだそうだ。持ち時間は30分だ。

演目はどうしようか？７人で話し合う。ピアノ３台とヴァイオリン３挺での演奏だ。「演奏時間を考慮するとなるとしたら「ホ短調」だね。」美穂の意見で纏まった。

演奏曲が決まったところで今度は中日の“カラオケのど自慢”への参加をお願いされた。予定時間に５曲足りなくて困っているとのことだった。それであればということで再び協議に入る。「７人いらっしゃるのでお２人がお出になれないですね。」残念そうに担当女性職員さんがおっしゃった。

「いや、２曲をデュエットにすれば良いじゃない？」美穂がそう言った。「それじゃあ私と美穂ちゃんで１曲歌おうよ。」遥香さんが提案する。美穂もその提案に賛成だ。「私、パパとママの「銀座の恋の物語」を聴いてみたいな。」里穂がぽつりと呟くように言った。

「そう言えば私たちも聴いたことが無いわ。」優太ママのダメ押しにも近い発言で皆に賛同された。「うふっ。何年ぶりかしら。」信子も歌う気満々だ。こうして５曲が出揃った。

トップは優太君の「雨の中の二人」、２番手は遥香さんと美穂の「恋のバカンス」、３番手は優太ママの「学生時代」、４番手は信子と私の「銀座の恋の物語」、そして最後５曲目は里穂の「帰ってこいよ」と申し込みをした。また夏の楽しみが増えてしまった。

町役場の皆さんにお礼を言って高原駅まで戻って来た。それは春子おばあさんの楽器店を訪れるためだ。遥香さんと美穂は初めて訪れる。駅ビルの２階奥にある楽器店は平日ということもあり昨日のような人出は見受けられなかった。店の入り口付近には天使の３姉妹が載ったパンフレットがあったのだがケースしか残っていなかった。

春子おばあさんと小春さんは在庫品の整理で大忙しだった。

改装に合わせてメーカーに戻すものと廃棄するものを分別しているという。

「えっ！これ捨てちゃうんですか？」山積みされた廃棄品の中から汚れたかなり古いヴァイオリンケースを美穂が見つけたのだ。中を開けるとヴァイオリンが出てきた。「かわいそう！」美穂の目が涙で潤む。

「気に入ってくれたのなら持って行ってくださいな。その方がこの子も喜ぶだろうから。」春子おばあさんはハンカチで美穂の涙を拭いながら優しく話してくれた。「あなたは優しい子だねえ。」そう言って美穂をハグしてくれた。

ヴァイオリンと聞いて優太君と優太ママが現物を見に来た。「古いけど保管状態は良さそうだわ。でも弦は総取り換えだわね。」優太ママはそう言いながらヴァイオリンを手に取った。「わあっ！こ、これって！さすが名器だわ！綺麗に筐体を保っているわ！」その声に誘われるように優太君も手に取る。「うわあ！しっとりとフィットするよ。」そう言って筐体をじっくりと調べ始めた。それに加わる優太ママ。２人ともこのヴァイオリンの正体が気になるようだ。

「春子先輩、何だか良さそうなヴァイオリンですよ。」そう言う信子に促されるように春子おばあさんは昔のことを思い出そうとしていた。「そう言えば、亡くなった夫が別荘に来ていた外国人から買い取ったヴァイオリンだわ。夫はヴァイオリン科だったから気に入って譲ってもらったと言って自慢していたわね。」それを聞いた信子は直ぐに優香さんに電話を入れる。年代物のヴァイオリンが見つかったと伝えると「明日ヴァイオリンに詳しい者も一緒に連れて行きます。」と言ってくれた。

「取り敢えず楽器ケースの中をもう一度調べましょう！」そう言って全員で大量の楽器ケースを再点検していく。

何やら優太親子が大騒ぎしている。皆が集まって来た。どうやらヴァイオリンの筐体の中に何やら文字が書いてあるとのことだ。かなり年代物のようだ。

「亡くなられたご主人はいくらで買われたんでしょうか？」

優太ママの問いかけに、「それが絶対に話してくれなかったんです。」残念そうに答える春子おばあさん。「ということは、春子先輩には絶対に言えない位の金額ってことですよね。」優太ママの言葉に、これはとんでもないものかもしれない！と皆は思った。

最終的に楽器ケースに収まっていた楽器は他にはなかった。このヴァイオリンだけは奥の奥にしまわれていたという。明日の鑑定が楽しみだ。

久しぶりに合流した遥香さんと温泉に入りたいという２人の娘を連れて２人のママも同行することになった。私は優太君に留守番をお願いして家へ戻った。まあ13日から18日はお盆休みを頂いており、直ぐにまたこちらへ戻ってくるつもりだが。

練習熱心な優太君は一人でヴァイオリンを弾いていた。新しい独奏曲の練習はコンテストの自由曲の練習でもあった。

一方、女性たちは誰も入っていない大浴場で大はしゃぎだった。

１週間会えなかっただけで積もる話が沢山あった。わいわいと話す声と笑い声が絶えず女湯から聞こえてきた。まだこの夕方前の時間は他のお客さんはおらず家族風呂の状態だった。泡風呂、電気風呂、打たせ湯、寝湯、樽風呂などにそれぞれが自由に入り疲れを癒していた。

話題の中心は夏祭りだ。皆でワイワイ繰り出すのも良いが、出来れば優太君とデートをしたいと美穂は思っていた。しかし、皆の手前言い出すことは出来なかった。

５人で温泉上がりに冷たいフルーツ牛乳を頂く。この味わいと冷たさが火照った身体を冷ましてくれる。そんな中でも５人のお喋りは続いていた。

翌火曜日、今日は優香さんと早紀さん、そして楽器メーカーの施工責任者さん、そして楽器の鑑定士さんの４人と内装工事を受け持つ建設会社の皆さんが春子おばあさんの楽器店を訪れる日だ。

午後１時の約束で、それに合わせて昼食を済ませロッジを出発する。

信子たちが着くと既に楽器メーカーの皆さんは到着していた。

春子おばあさんと小春さんは打ち合わせに入っているので信子たちはヴァイオリンの鑑定を見守っている。白手袋を填めた鑑定士さんがケースを開ける。その途端「あっ！」と声を上げた。そっとヴァイオリンを持ち上げ外観をチェックする。「保存状態が良かったようですね。特に問題はありません。」そう言いながらペンライトで内部を照らして書かれている文字を確認する。「おおーっ！こ、これは！」そう言って言葉に詰まった。

「それはドイツ語ですよね？」優太ママが鑑定士さんに尋ねる。

「奥まで光が届かないのでファイバーで見てみましょう。」そう言ってファイバースコープを取り出した。小さなモニターに皆の目が釘付けとなる。多少ぶれながらヴァイオリンの内部を映し出していく。

「これだ！」鑑定士さんが思わず声を上げた。「うわあ！」皆も声を上げた。製造年月日が映し出されたからだ。その表記は“1890”とはっきりと記されていた。ファイバースコープを収納しながら鑑定士さんから説明があった。美穂が直ぐに春子おばあさんと小春さん、優香さんと早紀さんを呼びに行った。全員が集まったところで鑑定士さんからの説明が始まった。

「ファイバースコープで内部を拝見しました。このヴァイオリンを製造したのはベルギーの会社で、今の会社の前身となる会社です。

卓越した職人さんの手で造られたようでその方の名前も書かれています。そして造られた年は1890年、場所はベルギーです。かなり貴重ともいえるヴァイオリンです。保存状態も良く、弦を指定の物に貼り替えれば直ぐにでも演奏が可能です。そして、評価額ですが、ずばりとはいきませんが１億円を下回ることは無いでしょう。」少し興奮気味にまくしたてる鑑定士さんの説明に驚く一同。特に小春おばあさんは腰を抜かしそうな勢いだった。

「一度お預かりしてメーカーに送ってチェックしてもらいましょう。」そう言う優香さんに一同頷いた。そう、扱いは信子のグランドピアノと同様だった。早速、優香さんがヴァイオリン専門店の香織さんに電話を入れる。電話口から香織さんの驚く声が聞こえてくる。

そしてメーカーさんに連絡を入れるとのことだった。

優太君が使っているヴァイオリンのメーカーの前身であるメーカーのものだそうだ。

直ぐに折り返しの電話が入った。今からメーカーの方が４人、と貴重品運搬車がこちらへ向かうとのことだった。

夕方の到着まで店舗の改装についての打ち合わせが続けられた。

遠巻きながら信子たちも真剣に聞き入っていた。大きな図面を基に説明が行われる。入り口にはストリートピアノが置かれるとのことだ。ピアノ教室は習熟度に分けてクラスが設定され、完全防音のガラス張りとなるそうだ。

あっという間に夕刻になっていた。大勢の足音が聞こえてきた。

組合長さんの案内でヴァイオリンメーカーの皆さんと貴重品運搬の業者の方が到着された。余りの物々しさに近所の商店主さんたちも詰めかけてきた。

「お疲れ様です。」そう言って挨拶を交わす。優香さんと早紀さんは既に顔なじみの様で早速現物を見ていただくことになった。店の入り口には運搬会社の方がガードマンとして立たれている。

早速、鑑定が始まった。４人で白手袋をはめて鑑定にあたる。

「間違いありません。一目見て分かりました。細かい髷の加工、これは今の職人さんには出来ない技法です。素晴らしい！の一言です。

世界に数台しか残っていないことを考えると２億円の値が付くものと思われます。」何と先ほどの評価額の２倍となった。「しかも程度が非常に良いです。今すぐにでも弾いて音が聴きたいくらいです。」

そう言われて差し出された預かり証にサインをする春子おばあさん。さすがに手が震えている。それを気遣う里穂。ペンを持つ春子おばあさんの右手をそっと自分の両手で包み込む。「里穂ちゃん、ありがとうね。もう大丈夫。」そう言って無事にサインを終えた。

ヴァイオリンは厳重に梱包され、同様に梱包されたケースとは別に運ばれていった。春子おばあさんには預かり証の控えと貨物保険の控えが渡された。「金額は２億円、契約者は私共、お受け取りは楽器店代表の春子様のご契約です。」そう言いながらメーカーの担当者さんたちは重々しい空気の中を引き上げて行った。

私たちは信子のピアノの鑑定の経験があるが春子おばあさんと小春さんは初めてのうえ高額な鑑定にまだ興奮が収まっていなかった。

「今晩は４人で会社へ戻ります。」そう言って優香さんと早紀さんと工事責任者さん、鑑定士さんたちは車で帰って行った。

信子たちもロッジへ戻り温泉に浸かることになった。優太君は男性一人で寂しそうだ。でも明後日には戻って来るからね。

今日から夏祭りが始まる。お盆期間中ということもあり町中人で賑わっている。遥香さん、美穂、里穂の３人は楽器店のピアノ演奏で大忙しだ。いつも以上の駅ビルの賑わいに組合長さんもほくほく顔だ。演奏の合間に交代で大量のチラシに店のゴム印を押す３人。今日はバイトの音楽部の２人も加わり楽器店は大盛況だ。ピアノ教室の予約受付も始まり集客効果は満足のいくものとなった。

お昼には交代要員の信子にバトンタッチ。突然のプロピアニストの登場に盛り上がる商店街。そんな商店街に信子の演奏が響き渡る。

お昼は商店街のバックオフィスで済ませる。夏祭りということもあり仕出し弁当が配られる。遥香さんを始め全員は初めての仕出し弁当だ。わくわくしながら仕出し弁当を受け取る。大人の皆さんに交じって４人で食べる。味付けが濃い目で冷めても美味しく味わえるように工夫がされていることに驚く４人。そんなバックヤードにも信子の演奏が聞こえてくる。他の皆さんも演奏を楽しみながらの仕出し弁当に舌鼓を打っているように思えた。近くのテーブルのお姉さんたちに話かけられ雑談に花を咲かせる。どのお店も忙しいのだろうか、次々に人が入れ替わる。普段閑散としているこの駅ビル商店街もこの夏祭りの間だけは特別のようだ。４人も食事を終えると交代のために楽器店へ戻る。今度は小春さんとバイトの音楽部部員の２人が入れ替わりでお昼休憩となる。

拍手の中、信子は２曲目の演奏に入る。思わず聴き惚れる遥香さん。

手が止まりがちな遥香さんを横から美穂が肘でつつく。「あっ！ごめん！」そう言って２人で笑い合う。優太君と里穂はピアノ教室の予約受付のお手伝いをしている。時折ピアノの説明のために席を外す小春さんの代わりを務めるしっかり者の小学生たち。ちらしの人気が凄まじくゴム印押しが間に合わない位だ。しかし、意外なことにちらしのピアノ天使３姉妹が店内にいることに気付く人はほとんどいなかった。普段はお化粧などせず普通の高校生、小学生だからだろうか。

そして意外な才能を見せたのは美穂だった。ピアノの案内ではそのピアノの特徴をしっかりと説明し売り上げに貢献していた。購入が決まると春子おばあさんにバトンタッチする。後を引き継ぐ春子おばあさんも嬉しそうだ。家族連れのお客様に「小学生なのにしっかりと分かり易くうちの娘に説明してくださいました。助かりました。ところで、お孫さんですか？」と褒めていただいた。

「うちの姉は楽器の流通倉庫でたくさんのピアノを弾いて自分のピアノを見つけるんです。それがお力添えになっていると思います。」小学３年生らしからぬ里穂の言葉使いに驚くお客様と春子おばあさんだった。

再び美穂が他の家族連れのお客様にピアノの説明を始めた。ピアノ教室の受付を終えたお客様だ。しばらくお客様との談笑が続く。

「店長！購入ご希望のお客様です！」そう言ってお客様を案内してきた。立て続けの購入に嬉しい悲鳴を上げる春子おばあさん。

それを見ていた遥香さんが呟く。「さすが商社マンの娘だわあ。」

お昼休みに向かう春子おばあさんが美穂に尋ねた。「どうしてあんな見事な接客が出来るの？」それに笑顔で答える美穂。

「カタログに載っているうたい文句や特徴を話しているだけですよ。」どうやら美穂はカタログ帳を一読してそれぞれのピアノの特徴などを頭に入れたらしい。さすがの春子おばあさんも驚くばかりだった。

一方、楽器メーカーの販売部には楽器店から売買契約書のファックスが度々入ってくることで騒ぎになっていた。午後3時の時点でピアノの売買契約書が５件も送られてきたからだ。早速、優香さんと早紀さんのそれぞれの部署へ報告された。２人は驚いてそれぞれが信子と春子おばあさんに確認の電話を入れる。「ピアノ教室を申し込まれたお客様がピアノも買ってくださったのよ。」嬉しそうな春子おばあさんの声に改めて驚く２人だった。

その日のピアノの売り上げは７台となり協力店の売り上げの伝説となった。

翌日、開店前の楽器店には遥香さん、美穂、里穂の３人が駆けつけた。バイトの音楽部の２人も加わってミーティングが始まる。最初に春子おばあさんから昨日のピアノの売り上げが７台であったこと、そしてそれが代理店の売り上げ記録第１位であることが報告された。「皆さん、本当にありがとう！」そう言ってお礼を述べる春子おばあさんに皆が拍手を送った。

今日は午後から町民ホールへ出向かなければならない３人。併せて夏休みが終わると美穂たちは帰ってしまう。そんな危機感を小春さんは抱いていた。それで、今後の対策を皆で考えて欲しいとのことだった。

「改装後は楽器メーカーの援助もあるので大丈夫ですよ。」そう楽観する春子おばあさん。それに対して美穂が発言する。

「ピアノの販売の仕方を今日来てくださる優香さんに教わりましょうよ。売り方が分かれば誰だってお店に立てるわ。」実際にピアノを売りまくった美穂の発言に頷く参加者たち。取り敢えず、今日の午前中は美穂の販売方法を一例として参考にすることになった。

演奏会と同様に全員で円陣を組み気合を入れる。

午前10時と同時に店のシャッターが上がる。他のお店も同様にオープンしていく。開店の放送が商店街に流れると同時に里穂が「渚のアデリーヌ」を演奏する。この曲はピアノを始めたばかりの自分が早く弾けるようになりたいと憧れた曲だ。「今の子たちにも分かってもらえるかも。」そう思ってチョイスした曲だ。里穂の演奏に惹かれるように最初の親子連れのお客様が。早速、音楽教室の申し込みをされた。帰り際に並んでいるピアノの方へ歩み寄り、立ち止まるお客様。そこで美穂が声を掛ける。

「音楽教室のお申し込みありがとうございます。ピアノもお考えですか？」そう問いかける美穂にご主人が答える。

「ピアノを買ってあげたいのだけど置く場所が無くって。それに音も気になって。最初から上手く弾けるわけでもないからねえ。」

「それでしたらあちらの“電子ピアノ”は如何でしょうか。」そう言って電子ピアノへとご案内する。「こちらですと机の上、スタンドも付いておりますのでどこででも演奏が出来ます。私も使っておりますがヘッドホンを使えば夜中でも気兼ねなく演奏が出来ます。鍵盤のタッチ感、音もピアノと全く同じです。」そう言ってメヌエットの1小節を弾いて見せる。

美穂のこの一言と演奏で購入を決める親子連れ。早速、レジカウンターの小春さんに引継ぐ。一部始終を見学していた3人から小さな拍手が起こる。電子ピアノはカタログの最後のページにしか載っていない。それを見逃さない美穂に3人は感心した。

「そうか！ピアノが買えないお客様には電子ピアノをお勧めするのか！」遥香さんは復唱するように呟いた。こうして開店から20分も経たないうちに電子ピアノが１台売れた。

それから次々とお客様が訪れる。この調子だと午後は4人では心もとない。小春さんと2人の音楽部の3人で手の空いている人を探す。

ポケベルを駆使しての応援要請だ。直ぐに5人からOKのメッセージが届く。美穂たちも15時ギリギリまでお店にとどまることとした。

店頭の演奏を遥香さんにバトンタッチした里穂に小休憩をしてもらうために従業員控室へ向かう美穂と里穂。誰も居ない休憩室は少し不気味だったが慣れてしまうと2人だけの世界だ。

「里穂、ピアノ上手くなったわね。演奏も遥香さんに似てきたし。」そう言って里穂に缶ジュースを渡す美穂。

「そうかあ、昨夜ママにも言われたの。」そう言って喜ぶ里穂。

いきなりドアが開いた。驚く2人。

「あっ！いた！いた！」優香さんと早紀さんだった。

「あっ！おはようございます！」挨拶する2人。

「うん、おはようございます！って、ところで昨日の売上って何？」矢継ぎ早の優香さんの質問が飛ぶ。

「えっ！お客様がいらしたからお売りしただけです。」平然と答える美穂。協力店売り上げ台数の新記録を達成したと聞かされ改めて驚く2人。

「これは大規模協力店でも難しい販売台数なのよ。」早紀さんもそう言って目を輝かせる。

「あのう、話は変わるんですけど、お２人で販売の研修をやっていただけないでしょうか？」

朝から来てくれているバイトの２人から順番に休憩室で販売の仕方を教えてくれる優香さん。その間、お店の方は早紀さんも加わり７人でフル稼働だ。そんな中、早紀さんは美穂の接客に注力していた。なぜ、ピアノを一人で5台も売ることが出来たのかを確かめたいと思ったからだ。しかも美穂はお客様について回るわけでもない。音楽教室への入会を済ませたお客様をピアノが陳列されている方を経由させて出口へ案内しているのだ。「なるほど！理にかなった方法だわ！」改めて感心する早紀さん。そしてピアノの前に立ち止まったお客様に声を掛けている。興味を持ったお客様に声を掛けることでピアノ談義をする。ピアノ教室でのレッスンなどの話をするだけでまだピアノの説明はしない。お客様がピアノについて聞かれてきた時点でピアノの説明をしている。そして説明も要点をしっかりとお客様にお伝えしている。これらは販売のセオリーに基づくものだ。「小学５年生にしてこれを理解しているなんて！」ピアノ以外の美穂の能力に驚くばかりの早紀さんだった。そうしている間にまたピアノが売れた。

「いや！売れるはずだわ！」早紀さんはこの店が売り上げ新記録を達成できた訳を知り大満足だった。一方、遥香さんもコツを掴んだのか電子ピアノを売り上げていた。「この子たち、テクニックもそうだけど本当にピアノが大好きなんだわ！」そう思うしかない早紀さんだった。

「美穂ちゃん！11時からピアノ弾いてくれるうーっ？」小春さんの呼びかけに「はーい！」と明るく返事をする美穂。赤いエプロン姿のままピアノの前に座る。ピアノの周りには大勢のお客さんが集まっていた。一斉に拍手が起こる。

美穂の演奏が始まる。1曲目は「ケンタッキーの我が家」だ。皆どこかで聴いた曲を演奏することでピアノに親近感を持ってもらいたいという美穂の気持ちがこもった選曲だ。そんな美穂の演奏を聴きながら商店街の片隅で会社に電話を入れる早紀さん。メーカーさんのお盆休みは長いのだが動くべき部署は交代で活動を続けているのだ。

早紀さん：「在庫はどう？」

販売部担当さん：「あと10台ってところかな。代理店の殆どが休暇中で店舗間の融通が出来ないんだ。在庫表を送るからそちらでも消し込んでくれ。在庫が無くなったものから後は受注扱いで受けてくれ。」

美穂は2曲目の「トルコ行進曲」を弾いていた。早い指先の動きに見惚れてしまう女の子たち。大人の皆さんも口々に「上手いなあ！」と感心する。美穂は連続演奏でそのまま「ノクターン」へ演奏を移行していく。その技法に驚くお客さんたち。「この子、ただ者ではない！」皆さんそう思われたようだ。

早紀さんはファックスで送られてきた在庫表に未送信分の売り上げに該当する商品を突き合わせて在庫の管理を始めた。売り上げの報告書をファックスする前にチェックし在庫表に記入するのだ。そして在庫が無くなった商品に予約販売と記入する。展示品の場合はピアノ本体の価格表示にもその旨を記載した用紙を貼り付ける。

「販売する人はそれを見て受注にするか他の機種にするかを決めていただこうというものだ。

美穂の演奏が終わるころにはもうお昼休みだ。応援で駆けつけてくれる5人は午後１時にやってくる。それから３人が引き上げる午後３時までに販売研修を行ってもらう予定だ。３人は先にお昼を頂くことになった。休憩室は他のお店の方々でごった返していた。

仕出し弁当を頂き空いている席に座る。「いただきます！」３人で声を出して仕出し弁当を食べる姿に自ずと視線が集まる。お揃いの赤いエプロン姿がお店のお手伝いをしている証のようなものだった。

「ねえ、聞いても良いかしら？」美穂の隣に座った年配のお姉さんが話しかけてきた。「どうして急に繁盛しだしたの？」

すると他の年配の店員さんが笑いながら言った。「子供に聞いたって仕方ないわよ。ねえ。」

美穂がはっきりと答えた。「はい。経営戦略です！」

それに驚く休憩室の皆さん。「あ、あ、そうですか・・・。」

更に里穂も続く。「待っていてはダメなんです。勝負は打って出て勝ちに行かないと。」

これには皆さんも分かったような、分からないような面持ちだった。

食事を済ませると残った４人と交代する。早紀さんと３人の計４人で店を回していく。「ゆっくりお昼休みも取れなくてごめんなさいね。」春子おばあさんはそう言いながらお昼を頂きに休憩室へ向かった。今日も組合長さんが仕出し弁当を渡してくれた。

「春子さん、あの子たちしっかりしているねえ。さっきね・・・。」と一部始終を教えてくれた。それを聞いていた小春さんが組合長さんに言った。「それは商社マンのお嬢さんたちですから。」

「なるほど。其れで歳に長けているんだね。感心。うん、感心。」そう言って笑った。

お昼休みとは全く関係なく店は込み合っていた。美穂は一人で同時に３組のお客様に、遥香さんは２組のお客様にそれぞれ接客をしていた。里穂は小３ながら音楽教室の受付をしていた。可愛い店員さんにお客様たちはにこにこ顔で接してくださる。里穂も美穂同様にきちんと内容を説明して申込書をチェックしていた。控えを渡し、ピアノ側を通る通路を勧める。店内を一方通行にしているのだ。

また１台、また１台とピアノや電子ピアノが売れていく。

「新商品です。まだ生産が始まったばかりで受注生産となりますがよろしいですか？」遥香さんの愛らしい声が響く。それを聞きながらにっこり笑う早紀さんだった。お昼休憩から戻って来た４人を加え店内はパワーアップだ。里穂がピアノ演奏へ向かう。その時に早紀さんに声を掛けた。「早紀お姉さんもお昼に行ってください。」

「ありがとう里穂ちゃん。応援の皆さんが来たら優香さんと一緒に７人で頂くわね。」そう言って微笑んでくれた。

里穂がピアノの前に座る。拍手が起こる。にっこりと会釈して演奏を始める里穂。

「えっ？」遥香さんと美穂が驚く。「里穂ちゃんったらいつの間に？」

遥香さんが動きを止めて里穂の方を見遣る。

「里穂ったら。」嬉しそうに初めて里穂が弾く「ハンガリー舞曲」に耳を傾ける美穂だった。

１時丁度に５人の音楽部の助っ人の皆さんがやって来た。３人とも顔なじみで直ぐに挨拶を交わす。それを見ていた優香さんと早紀さんが驚く。「皆、顔なじみなの？」