「悪人」

 彼がどうして悪人あくにんと呼ばれているのか私は知らない。去年綽名あだなちゃんと同じクラスだったからそこで付けられたのだろうと勝手に想像している。でも基本ネガティブめいた意味のあだ名はただの普通名詞になるまで連想ゲームで変えられているから、どうして彼だけがこうなのかはやっぱり分からない。単に生活している中では触れることすらないような究極の悪口。それを特に気にした様子もなく使用する私たち。それを悪口とも取らないような顔で普通に返事する本人。何だかもう全てが怖くなってしまいそうだ。


 どうしてまた一人自席に座ってそんなことを考えているのかと言うと、先日の善人ぜんにんちゃんに続き彼が私のところにやって来たからだ。



羽田はた、こないだ善人ぜんにんと何話してたの?」


 机の上にブレザーの影が落ちる。顔を上げるとほとんど話したことのないクラスメイトが立っていた。


「あー、悪人あくにん。どうしたの急に?」


 いつも以上に平坦な声が出た。今まで、彼は私のことなんて認識していないんじゃないかとすら思っていたんだけど。


「だから善人ぜんにんと何話してたのって」


 どうしてそんなことが知りたいんだろう。何だっていいじゃないか、私の行動なんて。知りたかったら善人ぜんにんちゃんに聞きに行けばいいのに。そう思いつつも一応返事はしておく。


「いや特に大したことは話してないよ? 今日はいい天気だねとか、明日もいい天気だねとか」


 これはもちろん嘘だ。私はいつも気が回らないという自覚があるけれど、善人ぜんにんちゃんに嫌だって感覚がわからないことはそう簡単に言いふらしてはいけないことくらい分かる。


「それだけ話すような関係性とは思えないんだけど」


 悪人あくにんは半ば確信したような顔でそう言う。まあ人間関係の経験値は私の比じゃないだろうから当然か。


「んー、こんなもんだよ。善人ぜんにんちゃんがこっち気遣ってたまに話に来てくれるだけだから。まあ昨日はいい天気だったねとかは話したかもしれないけど」


 あくまではぐらかし続ける。嘘なんてつけなくてもいい。本当のことを言ってしまわなければ。


「ふーんそっか。天気好きだなー」


 聞いたくせにさして興味がなさそうなリアクションだ。表情もずっとなんとなくぼんやりした真顔だし、悪人あくにんらしくない。ここで言う悪人は普通の名詞としてではなく、彼らしくないということだ。普段の彼はあだ名に反して、もっと明るくていつも楽しそうにしているはずなのに。まあ人はいつでも一貫していられるわけじゃないし、別にそれを守らなきゃいけないわけでもない。普段から破綻しきっている私が言えたことじゃないけど。


羽田はた、俺のあだ名がなんでこうなったか知ってるんだっけ?」


 悪人あくにんが私の目を見ながらそう聞いた。


「急にどうしたの? 知らないよ。知るわけがない。私はみんなを見ているだけで誰のことも知っているわけじゃないから」


 本当のことだ。人間関係による情報量とストレスを極力減らすために、私はこんな曖昧で有耶無耶でなんなら無いに等しいような立ち位置を確保しているのだから。


「そりゃそうだよな。人のことを知りたいやつの行動じゃないもんな羽田はたがやってるのは。むしろ積極的に突き放してる気がする」


 こういうことさらっと言っちゃうから悪人って呼ばれるんじゃないかなーとはちょっと思ってるんだけどね。しかも普段友達にこういう態度とってるのはほとんど見ないから、私に当たりが強いのか、陰キャに厳しいのか。まあ何だっていい。こんな感じで来る以上、私の方も取り繕わなくて済むのだから。ラッキーくらいに思っておこう。


「突き放してなんてないよ。全然ない。でもそう思うなら放っておいてくれればいいのに。そうしたら私は沈黙を貫くし、誰の邪魔もしない」


 本音からそう言った。私は何をするにも無能だから、なるべく人と関わらないことを自分に強いている。普通の――普通でいられる人の邪魔をしないように全力で身を引いているだけだ。そんな素晴らしい人たちを突き放すだなんてするわけがないし、できるわけもなかった。


「でも結果的にはそうなってるだろ? だから羽田はた友達いないわけだろうし」


 ――あーあ。そこには触れないでほしかった。私だって本当なら友達を作るための行動を取りたいのに。


「しれっと人の心をえぐるようなことを言うね」


 ちゃんと軽い顔ができているだろうか。感情のこもらない笑い顔。


「しれっと傷付いたみたいなことを言うね」


「あーすいませんでした無感情な人間で」


 よかった、誤魔化せたみたいで。……会話がこれ以上都合の悪い方に行かないように一旦軌道修正する。


「それで何でなの? 何で悪人あくにん悪人あくにんって呼ばれるようになったの?」

「逆に何でだと思う?」


 うわーだるいタイプだ。


「人の心をえぐるから」

「引きずんなよ、どうせ何も感じてないくせに」


 あれー? ここまで言われる言われあったかな? 確かに基本的にはそうだから否定しづらいところではあるけど、ついさっき平然と感情をぐちゃぐちゃにしてきた相手には言われたくない。まあまあ、それに対しては特に何も感じていないから気にしないことにする。


「で、何でなの?」


 彼は少しだけもったいぶるように間を空けると口を開いた。


「俺が綽名あだなに嫌われてたから」


 は?


「何がきっかけだったかも忘れたけど、去年の綽名あだなはマジで俺のこと嫌ってたと思う。目は合わせないし、声かけても無視するし、すぐ悪口言ってくるし。軽くいじめだったよ」


「あーあの子ってそんなことするんだ」

 新しい学びを得たように呟く。ぼんやりして輪郭のないその声に、悪人あくにんは不服そうな顔をする。


羽田はたは嫌じゃないの? 傍観者なんてあだ名付けられて」

「別に嫌じゃないよ。私のことまでよく見てるなって思っただけで。それに傍観者は悪口じゃないし」

「そうか? まあギリギリそうとも言えるか」


 そう。だから私は自分のあだ名に関して特に何とも思っていない。ただ、よくクラスで私しか当てはまらない名詞を見つけてきて、あまつさえそれを名字みたいに仕立て上げられたよな、とは思う。だから無意味な工程を積み重ねられる彼女に、わりと尊敬の念を抱いている。


「俺はさー、正直結構嫌だった。単語が単語だってのもあるけど、そもそも誰にも嫌われたくないからさ。善人ぜんにんと逆で全ての人に好かれたい、みたいな。だから綽名あだなに突然お前今日から悪人あくにんねって言われた日は夜寝れなかった」

「想像つくなあ。はたから見てても分かるぐらいだもん悪人あくにんの嫌われたくないって気持ちは」

「――それが分かってるのにどうして羽田はたはずっとそんな感じなの?」


 少しだけ声が真剣味をおびた。これか、悪人が本当に言いたかったことは。私のところに来た理由は。つまるところ、私が彼を嫌っていると思われているんだろう。そんなことはあり得ないというのに。人間信仰とでも言うべき感情に囚われた私は人を嫌うことなど出来ないというのに。



「私は、誰に対してもこんな感じだよ」


 ただそれだけ伝えることにする。


「別に悪人あくにんにだけこう接してるわけじゃない」

「……何で?」


 声を絞り出すように彼はそんなことを言う。


「ん?」

「何で人と無感情に接して平気なの?」


 平気、だって? これのどこが平気に見えるんだろう? そうは思ったけれどまあ人にそう感じられているのならそれが世界にとっての真実だ。


「そういう人間なんだよ元から」


 そう。ことあるごとに自分の感情を叩き潰してまともの最低ラインを通過しようとするような人間なんだ。でもこの部分は省略。私のことなんてどうだっていい。


「それ……辛くないの?」


 なのに彼はその話を続けようとする。全くいい人過ぎるんだよこの子は。いつも遠くから眺めていて思う。あそこまで他人に気を遣ってそれでも気楽そうに笑っているっていうことは、きっと私には想像することすらできないほど大変なことなんだと思う。私なんかにまで気を遣う必要はないのに。


「別に。そういう人間なんだってば。だから悪人あくにんが気にすることじゃない。前から思ってるんだけどさ、悪人《あくにん》は人に優しすぎるよ。みんなのこと、いつも気にかけてるでしょ? 空気みたいにしてる私のことまで気遣う。それこそ辛くないの?」


 悪人あくにんは何の迷いもない表情で答えた。


「辛くなんてない。俺は人に好かれたいっていう利己的な考えだけで動いてるから、それで苦しくなることなんかないよ。善人ぜんにんの逆みたいなもんだろ、だから。あいつも人に優しくして辛そうなことないだろ? そういうこと」


 そういうこと、ではないと思う。以前の私ならともかく、この前善人ぜんにんちゃんの本心の一端を垣間見た私としてはその言葉を全肯定することはできない。それにそもそも彼女は自然に自分を壊さない線引きができているから安定感があるのであって、悪人あくにんはただがむしゃらに行動しているみたいに見えるから正直心配で仕方ない。でも彼がそう言っている以上それを無責任に否定するようなことはするべきではないだろう。もしかしたら彼は自分の行動の意義をそこに見出すことで精神のバランスを保っているのかもしれないのだから。


「そっか。じゃあこれからもいい感じにみんなに好かれて生きててね」


 他人事のようにそう言って話を終えようとしたとき、突然思い出した。


「そういえば。綽名あだなちゃんはいつ悪人あくにんを嫌わなくなったの?」


「このクラスになった途端。――去年はあいつよりカースト上みたいな女子がいたんだけどさ、いないじゃんこのクラス。だから満足したんじゃねえの? 多分。別に他人を貶めなくても自分が上にいるって優越感に浸ってられるんだろ。あいつってそういうとこあるよな」


 そこまで聞いてようやく、いままでずっと悪人あくにんに間違った認識を持っていたことに気が付いた。彼はみんなのことが好きなわけではない。いい人というわけでもない。そもそも善人ぜんにんちゃんと比べるようなスタンスではないのだ。自分を好んでいない人のことも好いている善人ぜんにんちゃんに対して、自分が例え嫌っている人にも彼は好かれていたいのだ。自分の方から一方的に嫌っているというそれこそ一種の優越感を得られる状況すら求めているのかもしれない。


 ――なるほど。これなら善人ぜんにんちゃんと対比して悪人でも仕方ないのかもしれない。まあ人間なんて所詮みんなそんなものだろうし、綽名あだなちゃんがそんな意図を持っていたとも思えない。


 なんにせよ、まともな人間関係の中に自分をさらしているというのはそれだけで私からしたら手の届かない化け物のような天才たちの所業だ。善人でも悪人でも凡人でも、みんな綺麗に生きている。


 その中に入りたいなんて身の程知らずなことは、もう考えないことにしている。

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