「自由人」

 彼が自由人と呼ばれていることに対して疑問を持ったことがある人はこのクラスにはいないだろう。彼は本当に何にも縛られていないように見える。他人にも校則にも、常識にも固定観念にも。なんなら法律や物理法則から自由を勝ち取っているように思えることすらある。


 まあ実際問題彼がこの学校、このクラスという社会集団の中で普通に生きて行けているということは、これらが勝手なイメージと憶測の賜物だということの紛れもない証明なのだけれど。


 そうは言っても彼が自由な人間であることに変わりはない。普通の人がはみ出さないように気を使って踏み越えられないラインを、彼はいとも容易たやすく飛び越してしまうのだ。と言うかまるで地続きの場所にあるように意にも介さず踏み越えていってしまうと言ったほうが正確かもしれない。


 それも、無意識にそうなってしまうのではなく計算してやっているようなところがあるから恐ろしい。普通の人には分からないそのラインが彼にははっきりと見えていて、どの部分からどれだけ出て行っても許されるのか、逆にどこは最低限守らないと生きていけないのかといったことを誰よりも理解しているように見える。


 そんなわけで、綽名あだなちゃんが自由すなわちフリーダムからの連想で降田ふりたと命名した彼を、私は脳内で窮屈くんということできゅうくんと呼んでいる。


 因みにこれは、何も私が綽名あだなちゃんに反抗しているわけではない。私は、無能はどうしようもないにしてもなるべく賢明な無能であろうと思っているから、脳内でだってそんなことはしない。そうではなくて、彼がその規律から自由であるというだけのことなのだ。


 通常、綽名あだなちゃんがつけたあだ名が使われないことはない。全員が半ば面白がるようにそのあだ名を使っている。この件に関しては寄って集って彼女を絶対的な存在に仕立て上げているのだ。ただ、彼だけが例外だ。


 彼には、綽名あだなちゃんが考えるよりも先にあだ名がついてしまったのだ。それも一つではなく。彼の自由奔放な行動はクラス替え初日からもうクラスメイトの目に留まり、各々が思ったあだ名で呼び始めてしまったのだ。私は取り敢えず綽名あだなちゃんが付けるまでステイという非常に従順なような自主性に欠けたような立場を取っていたけれど、その間観察していて彼の中に窮屈そうな面を見出してしまったから、自由と呼ぶこともできずにきゅうくんと言うことにしたのだ。


 綽名あだなちゃんも別にあだ名の命名権に権力を感じているわけではなかったようで、そこはあっさりと引いていた。


「一人くらい自由な人いても面白くていっか」


 まあこの言葉を真顔で仲間にこぼしていたところを見ると悔しくないでもないようだけれど、直接対決というほどでもないらしい。対決と言っても何を相手取れば良いのか分からないだろうが。降田ふりたくんなのかクラスメイト全員なのか。


 なにはともあれ、クラスが平和であってくれるならそれでいいよな、と一連の流れをクラスの中にいながら遠巻きに眺めていた私はそんな適当なことを思う。


 思う、のだが。


 一つ問題がある。私にとってはかなり重要な問題点だ。と言うのも、彼は自由すぎるあまり私にも普通に話しかけてきてしまうのだ。これまでに述べてきた善人ちゃんや悪人のような例外はともかくとして、他にそんなことをするのはこの自由人とあと一人か二人だけだ。


 そんなわけで彼が普通に話しかけてきた日のこと。当然のような顔で私の前の席に座ってこちらを振り返る彼を私は諭し始めた。

「私は別にきゅうくんが嫌いなわけじゃないから言い方が難しいんだけど、単刀直入に言うとあんまり私に話しかけないでほしい」

 彼は傷付いた顔をすることもなく、ただ首を傾げた。


「なんで? 俺が誰に話しかけようが俺の勝手じゃない?」


 分かってないなあ、と思う。そりゃ話しかけるのは勝手かもしれないけれど、それに対して答える義務が発生していることは考えていないのだろうか? まあ考えていないのだろう。自分だったら答えたり答えなかったりできるのだろうから。でも特別が許されるのはごく一部の特別な人間だけなんだということを、私は彼に理解してほしかった。


「それはきゅうくんだからだよ。きゅうくんは何してもきゅうくんだからって許される立ち位置にいるからそれでもいいよ。でも私は違う。そもそもあんまり男子と話してるのもよく思われないぐらいだから。それに私は人と関わりたくないんだよ。だから放っておいてほしい。きゅうくんと話してると絶対こっちを気にする人が何人かはいるからさ。なにか起こるんじゃないかって」


 するときゅうくんはそっとあたりを見回した。そしてこちらを見ている二人組みを見つけると私に言った。


「一回廊下出よ」

 いやいやいやいや。そういうことじゃない。本当にまったくもって思考回路が私とは違うらしい。目立ちたくないから人目につかないところに移動する。うん。確かにそれだけ聞けば正しいようにも思える。ただし真実は手をつないでいるカップルが誰かに見つかって気まずそうに茂みの裏側に入っていったようなものだ。つまり逆に怪しくて何をしているのか気になってしまう。


「ダメ、絶対」

「そっか。じゃあここで」


 それも嫌だと言ったつもりだったんですけどね。まあいいや、彼の場合そんなに深いことを話そうとしているわけでもないのだろう。その割に話せるように工夫しようとするあたりは彼らしい。


「それで、何話そうとしてたの?」

 彼は軽く頭を振ってから答えた。


羽田はねだ、どれくらい気付いてるの?」

「ん?」


 ああ。大体何を言いたいのかは分かった。悪人の時と同じ感じだ。あの時とは立場が逆だけれど、要するにどうして自分のあだ名がきゅうくんになったのかを聞きたいのだろう。うん、そうに違いない。だってこのクラスでほとんど接点のない人とする会話と言ったらそれくらいのものなのだから。


 でも私は流石に自由人で通っている彼に窮屈さを感じているなんてことを本人に伝えるつもりはない。違った時に自分の感性の大きなずれを晒す羽目になるし、合っていたとしても良いことだとは思えない。警戒されたり嫌われたりする可能性すらある。そしてそれは羽田はた――傍観者である私の所業ではない。だから一旦誤魔化しておくことにする。


「なーんにも。私は何も気付いたりはしないよ」


 きゅうくんはまた頭を振った。ああ違う、これは首を振ったのか。横に。


「そんなことないだろ。観察するみたいに人のこと見といて、何にも気付かないわけがない」


 そんなことは誰にも言われたことが無かった。やっぱりみんなそれは言わない方が良いことだと思っていたり、そもそも私みたいに人を拒絶してるような人とは会話する気にもならなかったんだと思う。


 だからそれはやっぱり彼らしい言葉だった。そしてこの一言で私は彼に対してかなりの警戒心を抱くことになった。


 いつもとは逆に観察されているような感覚。


 彼のそのキャラを維持するのに不可欠なことなのだとしても、そして私の普段の行いと同じことなのだとしても、決して気持ちの良いものではなかった。


「気付けないから観察してるんだよ」


 言い訳する。醜く。みっともなく。人間らしく。実際よりも人間らしく。私は普通の人間です、だから無駄な言い逃れなんかもするんですとアピールするかのように。


「そんなことより、どうして私が何かに気付いたとか、そんな勘違いしたの? 私、何か見つけたっぽかった?」


 白を切り続ける。ここで彼が何を言っても私程度の頭脳で切り抜けられるとは思えないけれど、せめてもの悪あがきと時間稼ぎだ。稼いだ時間を有効活用するわけでもないから嫌なことを先送りしているだけなのだけれど。


「俺別に勘違いしてねえんだけど」


 彼はぼやくようにそう言う。


「じゃあ聞き方を変える。どこでそう思ったの?」


「こないだ」


 それだけ言うと彼は飽きたようにあくびをした。だんだん気まぐれな猫みたいに見えてくる。


きゅうくんは何できゅうくんって呼ばれてるか気になったのかなって思ったんだけど、違った?」


 なんとなくこのまま会話を終えるのも違うような気がしてそんなことを言ってみる。単なるカンに過ぎないから外したらただただ恥ずかしいけれど、恥ずかしさで人は死なない。


「ん」


 彼は目を丸く見開いた。またまた猫みたいに見えてしまう。あだ名変えようかな、まあ良いか、猫は九つの命を持つとかいうし、と横道に逸れたことを考えていると、彼はゆっくり目を元に戻した。


「よく分かったな。そうだよ、そのつもりだった」


 犯行を探偵に詳らかにされた不幸な犯人のような口調に聞こえてしまう。きゅうくんの自由さはもしかしたらむしろ特定の物にこだわらずいろんな物に似ているところから来ているのだろうか。


「まだ気になる?」

「まあな。教えてくれんなら早く教えてほしいんだけど」


 じゃあ、と言って先ほど考えていたことを適度にまとめて言葉にする。彼は打って変わって楽しそうな表情でそれを聞くと、ただ『ビンゴ』とだけ言った。現実でやる人いるんだ、と不覚にもそこに反応してしまったけれど、とにかく当たりではあるらしい。彼が作り上げた自由の住人だという根拠のない仮説は。


「やっぱり気付いてたじゃん」


 まあさっきのは嘘だからね。それより。


「こっちからも聞きたいんだけど、何で私のこと羽田はねだって呼ぶの?」


 字面は同じだけど、呼び方としては全然違う。みんなは羽田はた呼びなのになぜかきゅうくんだけ違うのだ。


「え? だってその方が分かりやすくね?」


 私は分かりにくいんだけどなあと思いながら続きを聞く。


羽田はねだのほうがいいよ。空港っぽくて面白いじゃん。羽田はたはつまらない」


 ……その言い方は良くないな。


「全国の羽田はたさんに謝ろう?」

「ごめんなさい」

「ほんとに謝った!」


 謝ろう? と言った瞬間に私ごときが馴れ馴れしいと後悔していたから、そこを拾ってもらえたのはありがたかった。やっぱりきゅうくんもただ自由気ままに生きている訳ではないと思い知らされる。


 人間関係を維持するためには、それなりの努力は必要なのだ。たとえどんな人間であっても。そこが理解しきれていなから私は人間関係を築けないのだろうけれど、その努力に耐えられる気は微塵もしないから結果としては何もしないのが正解なのだろうと思っておくことにする。


 きゅうくんがまた頭をふるふると振った。

羽田はねだ羽田はたって呼ばれたい?」


「ううん、何でも良い。羽田はねだでも傍観者でも」

「そ。じゃ羽田はねだで」


 なんの脈絡もなくきゅうくんは立ち上がった。

「お疲れ」

 それだけ言って自分の席に帰る。椅子を大きく引いて斜めに寄りかかると、机上に国語辞典を広げて読み始めた。


 なんか楽しい。

 それが理由らしい。彼がこの前他のクラスメイトと話しているのを聞いた。聞こうとしなくてもこういう人の会話は自然と聞こえてくるのだ。


 なんか楽しい。

 これは彼がいつも頭をふるふる振っている理由でもあるらしい。彼の価値基準は大半が楽しいか楽しくないかに置かれているそうだ。気楽でいいな、と思う一方でそれを貫くのに必要な意思の強さを考えると気が遠くなる。


 やっぱりこれは彼みたいな人にしかできないことなのだろうし、例えできたとしても真似はしたくない。私は全力ではなくともそれなりに普通になるために行動したいと思って生きてきているし、これからもそう生きていきたいという思いは常に持っている。


 無能にとって、普通というのは最も尊敬すべき偉業なのだ。だからきゅうくんみたいな自由な人間は安全圏から観察して関わらずに生きていければ一番いいと正直なところ思っている。今日は想像以上に長く会話してしまったけれどこれからはもうこんな失態は犯さないと密かに誓っておく。


 私は傍観者だ。そうありたいし、そうでなくてはいけない。そうでないと生きていけない。そのことを改めて脳に刻み付けておこうと思った。

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