傍観者

西悠歌

「善人」

 私の友達には、誰が何と言おうが絶対確実に善人だと言い切れる子が一人いる。彼女は誰に対しても優しい。いわゆる博愛主義者と言えば伝わりやすいだろうか。彼女はとにかく見ていて不安になるほどに誰に対しても平等で公平で親切だ。そしてその残酷さを感じさせないほどの善人らしさ、言ってみればオーラのようなものがある。


 ある日の昼休み、その善人ちゃんが私の机にやって来た。

「ねえ羽田はたちゃん。また偽善者って言われちゃったよー。何でなのかな?」

 因みに私の苗字は羽田はたではない。もちろん羽田はねだでも。というかこれはただの当て字だ。『はた』というあだ名は傍観者の『傍』から来ている。私がいつもみんなの輪に入っていこうとせずに遠目に見ているばかりだということを揶揄して付けられたあだ名だ。そしてその悪口がかった意図を隠すために別の字があてられた。その字には特に何の意味もない。


 これらの経緯を知っていてなお善人ちゃんは私のことを羽田はたちゃんと呼ぶ。彼女は良い人であっても気遣いの人ではないのだ。私が少しでも嫌がる気配を見せればそれを敏感に感じ取る才能は持っていても、状況から判断してやめておこうとするような労力は払わないのが彼女だ。博愛主義がゆえにそこまで個々のケースに深入りしていられないというのもあるのだろう。自分の能力から払える優しさと愛の総量を考えて、それを対象の人数で割っている感じだ。みんなに無尽蔵の愛を注ぐのではなく、持てる愛を平等に分配している。彼女は多分無意識にその計算ができているから、私は普通の善人を見るよりよっぽど安心して接することができる。


 そしてこんな風にただ全てを『見て』いるだけの私だからこそ彼女は先ほどのような質問をしてくることがある。そこに人を利用しているというような意識は無く、単純にだから知っていそうな私に聞いてくるのだろう。


 自身の主義を徹底しすぎるあまりに彼女はほとんど人に差異を見出すことができない。見た目も能力も性格もすべてが等しく愛すべき人間というカテゴリーで塗りつぶされていて、その認識のまま行動しようものならただの盲目的で迷惑な人間になってしまうレベルだ。そこに彼女の人への興味から来る他者認識を加えてようやく善人として成り立っている。


「認識の違いじゃない? 誰にでも優しいっていうのはイコールで誰にでも好かれるってことじゃないわけだから。むしろ善人ちゃんにとって特別な存在でありたいって人からしたらそれは嫌なことになっちゃうわけで、そしたら善人への全面否定である偽善者って言葉を言ってやりたい気持ちにもなるんじゃない?」


 長ったらしくてとても会話のセリフとは思えない文章を吐く。地頭が悪いから簡潔にまとめられないのだ。ただ短くしようとすれば、『自分だけに優しくしてほしいから悪口言っちゃうんだよ。』なんてニュアンスの欠片もない文章しか組み立てられない。そしてそう言うと余計馬鹿っぽく見えるから嫌だという馬鹿に特有の意地でわざと回りくどく喋る。

 それでも頭のいい善人ちゃんは理解してくれたようだった。


「確かに全員が優しくされたいって訳じゃないもんね。心の奥底ではそう思っていても、自覚してない場合もあるし。それにしても、偽善者ってやっぱり相当な悪口なんだね。私は曲がりなりにも『善者』って入ってるからいいと思うんだけどなあ」


 ああやっぱり違うかもしれない。彼女は何も理解してくれてはいないのかもしれない。


「それに私にとってはみんな特別だよ。かけがえのない大切な存在。わざわざ何かしなくたって、みんな特別な存在なの」


 それが嫌なんだろうけど。


「って言うか常々思ってるんだけど、『嫌』ってどういう感情なの?」


 ちょっと待って。善人ちゃんってそっちタイプだったの?

 いきなり頭を殴りつけられたような気分になる。どこから突っ込んでいいのか分からない。前からなのかそれとも一番衝撃的だった後ろからなのか。というかそもそも突っ込まないでそのまま彼女の信じている歪な世界には何一つとして触れずにそっとしておくべきなのか。そうしようかな? 歪ってことは不安定さを内包していて、不安定ってことは下手に触れたら崩れるってことだ。うん。触らぬ神にたたりなし。傍観者の名にかけてここは撤退するのみ……


「おーい羽田ちゃーん。聞いてるー?」


 撤退失敗。


「疲れてるなら今度にするから言ってね」


 ほんのわずかに顔をしかめたのが見えたのだろう。彼女は私を気遣う言葉を発した。どんな時でも善性を忘れない。一日一善を無に等しく感じさせる圧倒的多量の善。このくらいみんなやっているだろうと思う全ての善を彼女は逃さない。余すことなく一つ残らず実践している。それはもう、怖いくらいに。


「ううん、大丈夫」


 そして一呼吸置く。


「どこから答えたらいいかな?」


 善人ちゃんは一瞬たりとも迷わずに答えた。


「私が聞きたいのは、嫌ってどういうことなのか。それが分かったらもっとみんなに優しくなれるかなーと思って。いいかな?」


「大丈夫、断るわけないよ。私は人の言葉に反対しない主義だから」


 適当なことを言う。本題に入る前に一言二言ふざけないと話し始められないのは病気のようなものかもしれない。


「えっと、嫌ってどういうことかって聞かれちゃうと説明しにくいところではあるんだよね。大体私もあんまり嫌とか感じない方みたいだから。それに感覚なんて無い人には無いものだろうからさ。じゃあ試しに聞くけど、そもそも善人ちゃんは不快感を覚えることがある?」


「ええと、うーん、そうだなー」


 可愛く首を傾げる。頑張って思い出そうとしているようだけど、残念ながらその様子では多分出てこないだろう。


「無いみたいだね。だとすると、善人ちゃんはどうやって人に優しくしているの? 人の嫌がることをしないっていうのが善人であることの最低条件なんじゃないかと勝手に思ってたんだけど」


「私は人が喜ぶことをしてるんだよ。みんなが笑顔になること、みんなが楽しくなること、みんなが幸せになることをやってるんだ。その気持ちなら私にもよく分かるからさ。みんなが喜んでくれた時とか、いつもそうだもん」


 私には無い思考回路だ。察するに、『攻撃は最大の防御』みたいなことなんだろうか。でも、だとしたらその前提から根底から善性の塊みたいな彼女の中に積極的な負の感情なんて生まれようがない。綺麗な世界に完結した彼女の矛盾を、私は崩すことができない。まあそこまで求められていないのは分かる。というかそんな余計なこと、しないに越したことはない。私はただ、嫌だという感情の片鱗をどうにかして彼女に垣間見せることだけを考えればいいのだ。


「人が喜ぶこと、か。それで、楽しい……幸せ…………あ」


 そこで気が付いた。不快感を覚えたことは無く、そしてそうと知っていても悪口に無頓着な彼女はきっと。


「人から何かを言われて、無感情になったことは無いかな? 特にプラスでもマイナスでもなくて、何も感じなかったことは」


「あー、あるよ! 今とか」


 今、か。それなら。


「それならきっとそれが善人ちゃんにとっての不快感だよ。積極的な感情が来るんじゃなくて、ただ幸せが幸せを呼び善意が善意を呼ぶポジティブなサイクルから少し外れるだけ。みんなみたいにマイナスまではいかないんだよきっと」


 そしてそれがまた自然と彼女に善人の道を歩ませる。全くどこまで天に好かれた人間なんだ彼女は、と無神論者のくせに思う。

 分からないだろ? 私の空に神はいなくとも、彼女の世界には存在しているのかもしれない。同じところにいるようで誰一人として同じものを見ているわけではないのだから。信仰も真実も現実も虚構も全て人の数だけある。まあそんなものだ、といい加減まとまらなくなった思考を打ち切る。


「そういうことなのかな。うん、羽田はたちゃんが言うならきっとそうなんだよね! ありがとう、助かったよ。今度お礼させてもらうね」


 ただ分をわきまえずにクラスの真ん中の自席に陣取って話を聞いていただけの私にも彼女はそんな言葉をかける。かけてしまう。クラスメイトなんだから、一応友達なのだから、お礼なんて感謝の言葉だけで十分だという甘えでもなんでもない感情にすら彼女は流されない。あるべき形に収まるかのように、思いつく限り最善の行動を常にとり続ける。

 やっぱりこの子は怖いな。私のように心情も信条もろくに持たず適当に生きているような人間からしたらこの完璧さがどうしても恐ろしい。なにがとかどうしてとかという問題ではなく、多分本来近くにいることすら不自然なのだろうと思う。あーあ、近代化の弊害かなー。ただそのあたりに住んでいるからというだけで様々な人間が同じ環境に詰め込まれる羽目になる。それで多くの価値観を吸収して成長していけるレベルの差異もあれば、どう足掻こうが絶対に埋めることのできない格差も思い知らされることになる。私なんて例外なくクラスの全員に対してそんな感情を抱いている。嫉妬と憧憬と畏敬と。それはもうこっちがいなくなればいいだけのことなんだけど、そこまで人生を捨てているわけでもない。普通に普通でありたいと願ってしまう。その能力もないくせに。その気力もないくせに。まあそんな人間が彼女と知り合う機会が得られるだけでも義務教育は素晴らしいのかもしれないと、結局はそんな現状肯定に落ち着く。


「あ、それ私がやっとこうか? いいよいいよ、気にしないで。大丈夫だから!」

 教卓の前、はるか三メートル先からそんな声が聞こえてくる。善人ちゃんがさっきまで話していた内容なんて誰にも想像させないような普段通りの顔で普段通りに善人している。その姿を眩しく思いながら私は本を開く。どうしようもない絶望感と劣等感でこの教室を汚さないように、みんなとの間に一枚の壁を置いて。


 私は今日も傍観者であり続ける。

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