第3話 童貞しか勝たん
将棋盤を広げている部員の中で、小さな手が仁に向かって振られる。
彼女の名は逸見えみり。将棋部では珍しい女子部員だ。
毛先がぴょこんと跳ねた快活そうなショートヘア。
下の毛がショートか否かは神のみぞ知る。
ネコを思わせるくりくりとした瞳は、美人というよりも可愛い系の顔立ちだ。
えみりの姿を認め、仁は彼女の向かいに腰を下ろす。一般教室で使う机を椅子が挟む形だ。
将棋盤の上に二人で駒を並べ、対局の準備を整えていく。大小三十六枚の駒が、九×九のマス目が描かれた将棋盤に整列した。
「よろしくお願いします」
「よろしくやわ」
えみりの指が将棋盤に並べられた「歩兵」という駒を取り、前に動かした。
将棋は八種類の動きが異なる駒を、順番に動かしていくボードゲームだ。「飛車」「角行」という二種類の強い駒をメインに、多種多様な戦法が長い歴史の中で考案されている。
仁は飛車の位置をはじめの位置から変えない。
えみりは飛車の位置を大きく左に動かした。
将棋は飛車の位置で大まかに戦法が決まる、仁は「居飛車」えみりは「振り飛車」とよばれる戦法を取り、他の駒を動かしていく。
仁とえみりの実力には大差なく、勝ったり負けたりだ。
それからはほぼ互角の戦いが展開していく。えみりが「飛車」を攻め込ませたかと思えば、仁は「角行」で飛車の動きを封じる。どちらの駒も将棋では強い駒であり、使いこなすことで勝敗が決まる。
将棋は相手の「王将」という駒をとれば勝ちだ。
勝負が終盤に差し掛かるに従って、互いの持つ駒が少なくなり徐々に互いの王将を追い詰めていく。
終盤になれば駒を取った取られたよりもいかに早く勝負を決めるかが肝心になる。
「飛車」も「角行」も犠牲にし、ただ相手の王将を追い詰める手だけが展開していく。
お互いの王将が敵の駒に囲まれるギリギリの戦局の中、勝ったのは仁だった。
「負けてしもうたわ~」
駒を片付け、えみりは大きく伸びをする。ショートの髪が伸びに合わせて揺れ動き、中学生に間違われることも珍しくない幼げな顔立ちが疲労に歪む。
体形も顔立ちに恥じることなく幼げである。
百四十をかろうじて超える身長にふさわしい胸しかない。
だが貧乳は恥ではない。希少価値でありステータスである。
「いや、えみりのほうが強いでしょ。たまたまだよ」
仁はさりげなくえみりから視線をそらしながらも、伸びをして強調されたつつましやかな胸を視界の端に留めることは忘れない。
「謙遜が過ぎるで、ジン」
「いや、僕なんてネクラで陰キャで大したとりえもないガリ勉くんだよ……」
「ジン、自己評価低すぎやろ。いうほど悪くないと思うで?」
「たとえばどんなところが?」
「顔は…… まあ、アレやな。運動も…… アレか」
「やっぱりモテるところないじゃん」
指し終わった将棋の駒を片付けながら仁は愚痴る。
「でも成績はええやろ。難関大の理系余裕で射程内や」
「高学歴の未婚男性がどれだけいると思ってるのさ。やっぱり成績と年収だけじゃダメなんだよ」
「ネットで見たからわかる。チー牛顔は不倫托卵で自分の子でもない子を養わされて、男女平等の名の下にフルタイム勤務こなしつつさらに家事もさせられて、挙げ句の果てに離婚と慰謝料と育児費で一生ATMになるしかないんだ……」
その先の暗い自室で首を吊るシーンまでを想像し、仁は机の上に泣き崩れる。
「おー、よしよし。泣かんで泣かんで。ジンは強い子や」
えみりが突っ伏した仁の頭をぽんぽんと撫でてくる。
こんなことを年頃の異性からされたのは生まれて初めての経験だった。女子特有の小さな手と柔らかさが、髪越しとは言え気持ちよい。仁は興奮してきた。
(あかん…… つい勢いでやってもうたけど、考えるとめちゃ恥ずかしゅうない?!)
「いま思いついたで。ジンのモテるところ」
なぜか上ずった声音のえみり。仁は期待せず突っ伏したままで聞き返す。
「せやな…… 童貞ってところか?」
「な、何言ってるのさ」
少し傷つきながらも、猥談が顔なじみの女子とできることが少しだけ嬉しい。
「あはは……いうてるウチのほうが恥ずいけどな。でもな」
「別にウチは、童貞がダサいとは思わへん、逆にウチ的にはポイント高いで」
徐々にえみりの口調が真剣味を帯びていく。
「どういうこと?」
「ヤリチンと違って恋愛弱者な童貞なら一度ヤれれば浮気せえへんやろ。ウチは一生ウチを養ってくれる旦那様ならええわ。顔も中年になればダサくなるやろうし。スポーツも社会に出たらあんま関係ないしな」
その間もえみりの手は止まらなかった。髪の隙間に指を絡めたり、つむじをつんつんと指でつついたり。
「ジンは愛想はあらへんけど義理には篤いしな……」
しみじみとえみりが呟いたとき、仁のスマホが急に振動した。
迷惑メールか何かだろうか、そう思いながらも妙な胸騒ぎがした。
えみりの手を惜しく思いながらもゆっくりと起き上がり、文面を確認する。
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