第5話

 と、ソッスは考え立ち尽くしていると、

「ちょっとすいません、急ぐんで、勝手に触って行きますね」

 と言いながら、どこも悪くなさそうな若い女がソッスの腹にタッチした。それを皮切りに、じゃあ俺も私も僕も、とやはりどこもさほど悪くなさそうな人々が次々とソッスの肩、腹、肘などに勝手に触れ始めた。

「何だ、勝手に触っても効くのか」

とわらわら人並みが押し寄せて、ソッスの手、頬、尻、膝、後頭部、所構わずタッチしては去って行く。

「おい、ちょっと!」

 夥しい数の手に体中タッチされながらソッスは叫んだ。「おかしいぞ! これは何かおかしいぞ!」

 けれども人々は勝手にソッスに触れ続け、たまに混乱の中で誰かの指に目を突き刺されたり、どう考えてもわざと蹴って行く者、殴っていく者、必要以上に力を加えて頭頂部をぐりぐりして行く者などもあり、「痛! おい、今蹴ったの誰だよ! 誰か蹴ってっただろ! 目はやめろ! 痛! ちょっとやめろ! 一回やめろ!」ともみくちゃにされながら叫んでみても誰も聞かない。

 と、もう何が何だか分からない混乱の中で、おっさんと目が合った。目が合った上でおっさんは、ソッスの方に手を伸ばし、人差し指、中指、薬指、小指を揃えたその手をソッスの額に宛い、その時点でソッスに触れるという目的は果たした筈であるにも拘わらず、更にその四本の指に力を加え、ソッスの頭を後方にちょっとはじくようにした。つまりは小突いたのである。しっかりと目を合わせて。半笑いで。

 ソッスの喉からハハ、と無声音が漏れた。しかしそれは笑ったのではなかった。すぐに、彼の目に涙が溢れた。これは悔し涙だ、しかし何がそれほど悔しくて俺は泣くのだろう? そんなことは考えなかった。蹴って行く者もあった、殴って行く者もあった、小突かれた所で今更取り立てて、このおっさんだけに復讐するのは変かも、でも、きっと、目があった状態で、小突かれたというのは大きいのだろうな、目って大事だよね、とも考えなかった。ただ殺意だけがあった。

 貴様! 

 と、叫んだりもしない。

 こいつだけは殺す。

 このおっさんだけは何としても殺す。できれば皆殺しにしたいけれども、できればするけれども、今はとにかくこのおっさんだけを殺す。

 ソッスは蝟集する人々の中、全力で身体をよじり、圧力をかき分け、もはや背中を見せて立ち去ろうとしているおっさんの襟を掴み、そのまま引きずり倒した。そうして仰向けに倒したおっさんの顔面めがけて、「死ね!」思い切り拳を振り下ろした。おっさんはうろたえて何か言ったがソッスには聞こえない。「死ね! 死ね!」三度、鼻を狙って振り下ろした。手応えはあった。肉の潰れる感触、ぶしゅっと血煙も立った、鼻骨の折れる音も聞こえた。けれどもその一瞬後には、例によっておっさんは完全に治ってしまっていて、つまり殺せない。何度殴っても、殺せない。それでも尚彼は、衝動に身を任せ、その不毛過ぎる暴力行為を続けた。膝で顔を踏み潰そうとしても、頭突きをしても、おっさんはすぐに回復した。

 ひるんで、人々がソッスから少し距離を取ったので、ソッスと、仰向けになったおっさんの周りに小さな輪ができていた。

「どうしたっていうの?」

「何をしてるんだ?」

 人々の声は聞こえない。ソッスは無我夢中で、殴り続け、蹴り続け、やがて狸を殺したことを思い出した、石、石、石、石で、殴らなきゃ、しかし石がない、小さい石しかない、ソッスは肉屋の棒に目を付けた、人を掻き分けてあの日子供が突き刺さった棒の所に走り、それを土台ごと持ち上げ、おっさんの所に戻ると、おっさんが逃げるために立ち上がろうとしている、その腰に、L字の棒を突き立てた。

 おっさんの腰から血が溢れ出すのを見て、ソッスは、少しだけ落ち着いて、

「なめ過ぎだ!」

 と言った。

「アハッ……痛い痛い痛い! 頼む! 触ってくれ!」

 おっさんは震えながら首をもたげ、苦しそうに訴えた。「ほんとに悪かった。つい調子に乗った……」血反吐を吐いて、「頼むから触ってくれ……」

「ふざけるな! 小突いた罰だこれは! 苦しんでそのまま死ね! 絶対に触るものか! もう誰にも触るものか! みんな死ね! できる限り苦しんで全員死ね!」

 とソッスは叫んで、しかし思い付いて、「あ、分かった、分かった、触ってやる」

 ソッスはにたにた笑いながらおっさんの頭に触れた。おっさんが言語に絶するうめき声を上げつつ小刻みに悶えたのは、男の子が棒に刺さったままソッスに触れられた時と同じ原理。

「アキレス? 違うだろ! あ〜ひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!」

 ソッスがおっさんの頭に触れたまま、胡座をかき、空を見て笑っていると、さすがに見かねた数人の人々が、ソッスの身体を取り押さえ、おっさんから離した。

 ソッスは人々によって四肢の自由を奪われ、仰向けに地面に這い蹲らされて「勝手に触るな、勝手に回復するな!」と怒り狂って叫んだが、人々は彼を離さない。

「一体、何であんなひどいことをするんです!」

「そんなことをする人だとは思わなかった。いくら素晴らしい力を持っていても、やっていいことと悪いことがある」

「離せ貴様! 勝手に触るな! もう俺は二度と誰にも触れてやるものか! お前らが、もっとありがたそうにしてればこんなことにはならなかった! 簡単に利用しやがって! 軽い病気で俺を使いやがって! 離せよ!」

「だめです。人を殺そうとして、ただで済むと思ってるんですか?」

「何?」

「誰か縄を持って来てくれ! 狂人が暴れてる!」

「何が狂人だ! 俺も狂ってるかも知れないが、お前らも狂ってるだろう!」

「おい、誰か、その男に刺さった棒を抜いてやれ!」

 とソッスを押さえつけている一人の男が言った。「そしてどこでもいい、ソッスの身体に触れさせてやれ!」

 

 五分後。

 ソッスは、回復、しかし棒、回復、だが棒、回復やはり厳然としてそこにある棒、この絶え間ない連鎖の苦しみに耐えていた。いや、耐えてはいない。耐えてはいないけれども。断じて耐えられる苦しみではないけれども。耐えていないのに、復活してしまうのだからしかたない。耐えていないのにソッスの腹部、みぞおちの辺りに棒があってしまうのだから仕方ない。

 あの後、怒り狂ったおっさんが、自分に刺し込まれた同じ棒を、ソッスに刺したのだ。棒は、ソッスの身体を貫通して、地面にまで突き刺さり、ソッスの身体をしっかりと固定した。

 そのソッスの身体に、何喰わぬ顔をして人々は触れ、快活になって去って行く。ソッスは耐えていない痛みと苦しみを耐えて、いや、耐えていないのだがどうしようもなく、バタバタうねうねのたうちつつ、やがて、ああ、自分は大変なことになってしまったと思い、泣いた。涙のために視界が霞んだとか、そういう悠長なことを意識している意識ではないが、やがて青空の中から、神様が姿を現し、

――ううむ。奇跡を起こせるだけでは、救世主にはなれなかったか……

「ウグウグウグウグウグウグウグウグウグ」

――身体の痛み、苦痛を取り除くこと、肉の救済よりも、やはり魂の救済、言葉による心の救いこそ、人間には必要だったようだ。

「ウグウグウグウグウグウグウグウグウグ」

――しかしソッスよ、ひどい苦しみようだな。一体人間というものはどこまで残酷なことをするんだ。かわいそうに。ソッスよ。解放、されたいか? その苦しみから?

「ウグウグウグウグウグウグウグウグウグ」

――いや、待てよ? 案外、これはこれで人々の心の糧になっているのかも知れない。ソッスよ、お前がそうして地面に張り付けになり、絶え間ない苦しみに悶え続けることは、そのこと自体が人々の心の糧になるかも知れない。

「ウグウグウグウグウグウグウグウグウグ」

――人々は例えお前の身体に触れることで身体の痛みからは解放されるとしても、生活の中で、様々な悲しみ、怒り、絶望を味わうことがあるだろう。だがその時に、人々はお前のことを思い出すのだ。『あいつよりは、マシだ』と。

「ウグウグウグウグウグウグウグウグウグ」

――そういう仕方で、お前は人々の心の糧になるか? そこに釘付けになって、永遠に苦しみ続ける事で、……だがそれではあまりにお前がかわいそうだ。

 ごめんよ。これ以上見ていられない。……さあ、おいで……          

 了

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ソッス、逝く 天丘 歩太郎 @amaokasyouin

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