第3話
ソッスは未だにどうでもいい罵り合いを続けている母親には一声もかけず、そっと、棒にぶら下がっている男の子の膝の辺りに触れてみた。
「グア! グア! グア! グア! グア!」
さっきまでぴくぴくと痙攣していただけの男の子が、ソッスに膝を触れられた途端激しく手足をばたつかせ、断続的なうめき声を上げた。
母親も、野次馬達も、驚いた。一番驚いたのはソッスだった。
「ちょっと! あんた何をしたのよ!」
と母親がソッスを突き飛ばした瞬間に、男の子は泣き喚くのをやめ、また先程までの状態に戻った、つまり、静かに痙攣しているだけの瀕死の状態に。
一瞬、元気になったように見えた子供が、またすぐにぐったりして痙攣を始めたのを見て、母親はソッスが何か悪いことを息子にしたものと勘違いし、
「何をしたの! 今、一瞬元気になったのに! ひどい! ただでさえ痛い思いをしてるだろうにその上あなた、何をしたのよ!」
「いや、お母さん、ちょっと待って下さい、聞いて下さい」
とソッスは、掴みかかってくる母親に説明した。「あの、実は、僕はこの手で触れるだけで、どんな病気もどんな怪我もたちどころに治してしまえる力を授かった、らしいのです。確信は、ない。まだ一回、軽い傷でしか試していないから。ですが、今、見たでしょう? もはや瀕死だった筈のこの子が急に元気になってがあがあ声を出したのを。そして僕が手を離した途端、痙攣し始めてしまうのを!」
んな、馬鹿な、と、誰も言わない。何故なら、ついさっきまで小刻みに痙攣しているだけで、既に死んだか、少なくとも意識はない状態であると思われていた子供が、確かにソッスが近付いて来て触れた瞬間、手足を大きくばたつかせ、大声で泣き喚いたのを目の当たりにしたのだから。
「そうなの! なるほどそうかも知れない」
と母親は言った。「確かに一瞬信じられないくらいこの子は活発な動きをしたわ! でも、どうして今はまたぐったりして痙攣しているだけになってしまったの?」
「そうか、もしかしたら」
と大工が言った。「彼がその子に触れた瞬間、本当に男の子の怪我は治ったんじゃないか? でも見ろよほら、棒は突き刺さったままだろう? だから治った瞬間に、やっぱり彼の頭蓋には棒が存在してしまっているわけで、治った瞬間にまた棒が突き刺さって、というそのせめぎ合いの状態になったということではないのだろうか?」
「そうかもしれないわ」
と主婦のような女が言った。「ねえ、もう一度、試してみたら」
ソッスは頷いて立ち上がると、もう一度男の子の膝に触れた。すると男の子の身体が激しく波打って、グア、グア、グア、グア、グア、グア、もの凄い周期で呻く。棒がびよんびよんびよんびよんとしなる。
「ほら、やっぱりそうだ、彼が触ると怪我が治って傷が塞がるんだ。でも塞がっても次の一刹那には棒によって彼の頭蓋は貫かれている。その絶え間ない繰り返しの状態になるわけだ、きっとそうだ。それはとても苦しいことだろう。アキレスと亀みたいなものさ。半分の半分を経続けるのであれば永遠にアキレスは亀を追い越せないっていう矛盾した論理が何となく、似ている感じがする」
「アキレスなんてどうでもいいのよ! 何か違うし! ていうかあんた! 一旦離しなさいよ!」
と母親は再びソッスを突き飛ばした。「よく分からないけど、必要以上に何度も、再生と破壊を繰り返させたら、何度も何度も、痛いってことでしょ! かわいそうでしょ!」
ソッスの手が離れると、男の子はまたおとなしくなった。
「そうですね」
とソッスは言った。これは母親の言っていることが正しいように思った。「じゃあ、早く男の子を抜いて上げましょう、その上で僕が触れば問題ない筈じゃないですか」
「そうね。じゃあ、抜きます」
と言って、母親が男の子の腹に手を回し、引っ張ろうとした時、
「待て! ちょっと待て!」
と農家風の男が母親を制した。
「何よ!」
「いや、大丈夫なのか? 今はまだ痙攣しているから、かろうじて死んでいない状態ではあるのだろう。だが、無理に引っ張って、更に頭を傷付けてしまうようなことになれば、その子供は死んでしまうかも知れない。つまりわしが言いたいのは、ええと、君、名前は?」
「ソッスですが」
「ソッス君の力は、怪我は治せたとしても、死者を生き返らせることはできないのではないかということだ」
「なるほど。死んでしまったら、もう無理かも知れないです」
「だとしたら、万一、引き抜く過程で、完全にその子供が死んでしまうことがないよう、引き抜くのはお母さん、あなたではなく、やはりソッス君にやってもらった方が無難だと思うのだが」
「そうね。いいところに気付くじゃない」
と母親は男の子から少し離れソッスに向かって、「ほら! 聞いてたでしょ! ぼさっとしてないで! 早く抜いて、この子を完全に治して上げてよ!」
何でそんな言い方? と思いながらも、ソッスはそんなことに拘泥しているよりも、こうしている間もずっと男の子は滅多に誰も味わうことのない激痛、苦痛に耐えているのだということを重視すべきであると考え、文句は言わず、男の子の腰回りに両腕を回した。
また男の子が一瞬完治、でも頭蓋に棒があるのですぐ破壊、一瞬完治、でも棒、一瞬完治、やっぱり棒、の絶え間ない激痛にグハグハグハグハグハグハ、人間離れしたのたうち方をした。
できるだけ早く引き抜いてやらなければ、とソッスは考え、懇親の力で男の子の身体を引っ張った。
ずずずず、頭から棒が抜ける時に、もう文字にすることは到底不可能な発音で男の子は苦しがった。
棒から完全に頭が抜けても、ソッスに抱きかかえられながら男の子はしばらく叫び続けた。
後頭部の傷がみゅみゅと塞がり、潰れた左目もちゅるんと元通り。
「すごい!」
「ほんまもんや!」
と野次馬達が歓声を上げ、
「トモユキ!」
と母親が叫んで、男の子をソッスの腕から奪い抱き締めた。「トモユキ! 大丈夫? 傷も治ってるみたいよ! ねえトモユキ! まだ痛いの?」
男の子はしかし母親の声など、全く耳に入らない様子で狂ったように泣き喚き続ける。
「傷は治ったように見えるけど、まだ痛いのかしら?」
と主婦のような女が言った。
「全然泣きやまないな」
と大工も言った。
ソッスは、さっきの女の子のケースを思い出し、
「多分、もう傷も治って、痛みはない筈だと思うんです。でも、あまりに痛かったのでしょうから、今は惰性で泣いている状態だと思うんです。それに、子供が転んだり何かして泣く時というのは、必ずしも痛みのために泣いているのではなく、大変なことになってしまった! という恐怖や不安のために泣いているのです。だから、まだそういう感覚のない生まれ立ての赤ん坊などは、頭を打ったりしても案外泣かなかったりするものなのです。幼児が転んで泣き出す時のことを思い浮かべて下さい。彼は転んですぐには泣かない。転んで、一瞬固まって、それからお父さんかお母さんの顔を見て、そのお父さんかお母さんが心配そうな顔をしているのを見て、ああ、大変なことに自分はなってしまった、と認識して始めて泣くのです。違うかも知れません。よく分かりません。けれども何が言いたいかというと、例え痛みがなくなったからと言って、ぴたっと泣きやむ事の方が返って不自然なわけで、だから今は、きつく彼を抱き締めてあげて下さい、頭を撫でて上げて下さい、もう大丈夫よと優しく彼を包んで上げて下さい」
救世主を気取ってみた。それなりに救世主らしい言葉を言えた、とソッスは感じた。更に、こんなことは何でもない、別に恩に着せるつもりもない、という体で、踵を返し、去ろうとした。
「あ、あの」
と母親がソッスの背中に呼びかけた。ソッスが振り向くと、「ありがとうございました、本当にありがとうございました!」
さすがにこの女にも感謝の気持が湧いて来たらしい。声を涙に震わせて、「あなたのお名前は?」
「別に名乗る程の者でもありませんから」
とソッスはちょっとかっこつけた感じで言ったが、
「さっきソッスって言ってたよな?」
と農家風の男が言った。「君、ソッスなんだろ?」
「ああ、そうか、そう言えばさっき言っちゃってたか。アハハ。まあいいや」
ソッスが去ってから、大工が女に聞いた。
「ところで、何でこんな所に突き刺さるようなことになったの?」
「肩車して、思いっきり走ってただけよ。そしたらこんなふざけた位置に棒が突き出ているから、刺さってしまったのよ」
特にこれと言った落ちもないのだな、と皆思ったが、そんなことよりも、あのソッスという青年が一体何者であるのか、に話題は移って行った。
ソッスはその足で森に向かった。前日に仕掛けた罠のチェックをするために。
いいことをした、という満足感があった。しばらくの間、この満足感を大事に堪能して時を過ごそうと思った。特に何をしたというわけではない。ただ触れただけだ。けれども苦労して成し遂げた善行だけが評価されるというのはおかしい。俺は十分に酔いしれていい筈だ。
罠には狸がかかっていた。
今夜は狸汁か、と思いながら、何とか罠から足を抜こうと暴れ狂っている狸を絞めようとすると、狸がいつまでも暴れ狂って、なかなか死なない。まじかよ……。ソッスは狼狽して手を離した。俺が触れると治り続けるのか。狸も……。
しかしすぐに閃いて、手近の大きめの石を拾うと、狸の顔面に叩き付けた。狸は昏倒した。だがまだ微かに痙攣している。完膚無きまでに殺してしまわねば、また復活してしまう。ソッスは六度石を振り下ろし、狸の頭部をぐちゃぐちゃにした。さすがに死んだだろう。恐る恐る手を触れてみた。
狸は復活しなかった。おお、よかった。やっぱり死んだものは生き返らないようだ。
死んだものでも復活させられるとしたら、困る、と思っていたから、ほっと胸を撫で下ろし、ひどい姿の狸をぶら下げて家に帰った。
狸をさばく際、ソッスは誤って自分の指を切ってしまった。しかし傷はすぐに塞がり、痛みも一瞬だけしか感じなかった。
「うわ……」
どうやらこの力は自分自身に対しても発動するようだ。
翌朝、ソッスが首をゆっくり回して、筋が伸びる感覚を楽しんでいると、戸口を叩く音がした。
「すみません、 ソッス様! どうか戸を開けてもらえないでしょうか!」
ソッス様?
何だろうと思って彼が戸口に出ると、
「ああ、貴方が、ソッス様でしょうか。突然訪ねて来る失礼をどうかお許し下さい」
女がべたりと地面に座っていた。顔色が悪い。震えている。こほ、こほ、と咳をしている。
「何?」
とソッスが困惑して言うと、
「あの、貴方が昨日、棒に刺さった男の子を助けたということを聞きました。どんな病気も、怪我も、一瞬で治してしまえると聞きました。それで、ぶしつけであるとは承知の上で、今日わたくしは参りました、というのはわたくしは長年ひどい病に冒されていて、肺の病気ということなのですが、うまく息も吸えず、咳も止まらず、ずっと苦しくて、苦しくて、こんなに苦しいのならもういっそ死んでしまおうかと思っていたくらいなのですが、今日貴方のことを聞いて、藁にもすがる思いで、いや、すみません、貴方が藁と言うことではなくて、ああ、すみません、これは自分の心境を表したくて言ったことで、決して貴方が藁だという意味で言ったのではないのです、それくらい、もうどうしようもないくらい苦しいのです、という意味で」
女は咳をした。
「つまり、病気を治して欲しいということ?」
「はい、突然やってきてこんなことをお願いするのは――」
「うんうん。分かりました。そんなに色々言わなくていいですよ。やってみます。でも僕自身よくは分からない、本当にどんな病気も治せるのか、どの程度まで治せるのか分からない。だからあなたの病気が治るかどうか保証はできませんが、というか、取り敢えず触りますよ、今もずっと苦しいでしょうから、うまく行くか分かりませんけど、うまく行かなくても憾んだりはしないで下さいよ」
と言ってソッスが可哀想な女の肩に触れた瞬間女の頬に赤みが差して、震えも止まった。女はしばらくきょとんとして、ソッスを見つめていたが、やがて大きく、深く、息を吸うと、吸った空気を吐き出しながら、
「ああ! 息が吸える! 思い切り息が!」
と叫んだ。目から涙がぽろぽろと零れた。
「ありがとうございます、ありがとうございます。ああ、胸が、久しぶりに胸が痛くない、ああ、胸が痛くないということがこんなに幸せだったなんて……ありがとうございます、ありがとうございます」
女は号泣しながらソッスの左足に接吻をした。
「いや、何をするんです!」
とソッスは反射的に飛び退いた。
「ああ、すみません」
女は怯えたように、膝をついたまま身体を後退させ、「どうかお許し下さい! つい感極まって、恐れ多くも、すみません」
「いや、別に怒っているわけじゃないですけど、その、何というか、僕はそんなことをされる人間ではないから……。……そんな大げさにしないで下さいよ……まあ、病気、治ったみたいで僕も嬉しいですよ、じゃあ、そういう事で」
そう言ってソッスは部屋の方に戻ったが、その後もしばらく女が感謝の言葉など言い続けているのが聞こえ続けた。が、やがて、声が聞こえなくなったので、確認のため戸口を伺ってみると、キラキラ光るものが落ちている。金貨が20枚も置かれていた。それは大工のバイトなら二百日分くらいの額だった。
「うわ……、あの、肺病の女が置いて行ったのか……」
ソッスは変な気分がした。
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