第2話

「ひどい! みなさん! 聞きましたか!」  

 ここぞと母親は声を張り上げ、大工を指差し、「この人は! 何の罪もない子供が、棒に刺さってしまったことを喜んでいます! はっきりと、面白いと言いました! こんな人がいてもいいのでしょうか! こんな人間が同じ街にいてもいいのでしょうか! この人は人の不幸を楽しむ類の人間です! 袋だたきにすべきなのではないのでしょうか! !」

 母親はもうせめてこの大工風の男だけでも悪者にしてしまおうというつもりで、今の今まで敵対していた筈の「みなさん」に声高に訴えたが、「みなさん」の気持は、どちらかと言うと、大工の側にあった。何人かの人は、本当に、男の子のことをかわいそうだ、何とかしてやれないものか、と思っていたのだが、あまりにも身勝手な母親の発言を聞いているうちに、すっかり子供の感じているであろう痛みを想像することなど忘れてしまい、母親に対する何とも言い難い不快感に心を満たされてしまっていた。皆、殴りたくて仕方なかった。この母親を思いきり殴りたくてうずうずしていた。それに実は、人事云々の話しは置いておくにしても、事実、皆、面白いと思っていた。棒に刺さって痙攣している男の子なんて滅多に見られるものではない。本音を言えば、もう面白くて仕方なかった。けれどもそれをはっきり口にしてしまうと周囲の人々から非難されるだろうな、という思いがあった。実は面白がっていたのだけれども、ひどい人だと思われるのが嫌で、黙っていた。また、自分自身の心を騙して、本当に男の子に同情し心配していると思い込んでいるふしもあった。だから今、「自分は面白がっている!」とはっきり言った大工の姿は、彼らの目に英雄的に映った。下らない体裁をかなぐり捨てて、本心を曝した大工に人々は共感した。自分も、本当の気持を言ってしまいたい、究極的に利己的である自分を、曝してしまいたい、

「俺も面白いと思ってる。こんな子供は死ねばいいと思ってるよ! 子供が死んで、この馬鹿女が悲しめばいいと思うよ! 面白いと、思っている!」

「そうね。かわいそうだとも思うし同情する気持がみじんもないわけではないけれど、それ以上に面白いと思う気持が圧倒的だわ。しかもこの母親が、私に対し地獄に落ちると言ったこの女が、息子が死んで悲しむのを目的として、私はこの子供が死ぬことを、どちらかと言えば願っているわ」

「同意。死ねばいいと思うよ」

「死ねばいいと、思います」

「死ね」

「死ね!」

「まあああああああああ!」

と母親は絶叫した。


 これはさすがにひどい、とソッスは思った。母親の方はどうでもいい。というかあの母親を思いっきり殴ったら気持いいだろうな、とソッスも思っていた。けれども、子供の方は、どうだろう。子供は今、多分とても痛い思いをしている。頭を損傷してしまい、手足を思うように動かせもしない状態で、宙ぶらりんで、痙攣している。あの子の耳はまだ生きているだろうか。まだ周囲の音が聞こえているだろうか。どうせ助かりはしないだろう。あの母親がもっと殊勝な、人の同情を惹く言動を取ることのできる人間だったら、恐らく今「死ね」「面白い」と言っている大人達も、もっと真剣に男の子を助けようとしただろう。助けようとしたところで既に左の眼窩を金属の棒に貫かれ後頭部から尖った先端が突き出ているし、更に棒の先端には脳みその一部が垂れ下がっているのだから、結局は助かる筈はないのだが、死ぬ間際に聞く声が、自分の死を願う声だったり、面白がる声だったり、人事とはどういうことかの下らない言い合いであったりというのは、あまりに悲し過ぎるのではないか。彼は子供だ。まだ、何も悪いことなどしていないだろう。いや、悪いことをしたかしていないか、今後するかしないかなどはあまり関係がない。何にせよ、せめて、母親だけは野次馬と下らないやり取りをしている場合ではなく、息子のことを心配して、息子に声をかけてやるべきではないのか。あんな母親でも、彼にとっては、たった一人の母親なのだし……かわいそうに。

 視界が霞んだのは初め、涙のためだった。

 しかし、やがて霞んだ視界の中で、何か得体の知れないもやもやしたものが集まりだした。それはだんだん濃密になって行って、人の形になった。不思議だな、と思っている暇もなく、真っ白な光に包まれた人はソッスに向かって、言った。

――君に、力を授けようと思う

「……何ですか?」

――人の心のうち、同情だけが信頼できる感情なのだよ。君なら、信頼できる。

「……誰ですか?」

――私が誰か、それはどうでもいい。とにかく、力を授けるので、有効に使って欲しい

「……」

――分かった?

「……何がですか?」

――だから、君に素晴らしい力を上げるから、有効に使って欲しい、ということ。どんな力かというと、手を触れるだけでどんな怪我も、どんな病気も一瞬で治せてしまう力なのだよ。

「……何故僕に?」

――君が同情することのできる人間だから。純粋な同情、他人の悲しみ、痛みに対する同情というものは、

「え? 誰ですか?」

――だから、私が誰かは今、問題じゃないんだって。それは雰囲気で何となく君の方で判断してくれればいいよ。分かるだろ? こんな風にして突然現われたんだし。ぶっちゃければ神だよ、神。

「神様……一神教の?」

――いや、それを俺に聞くかな普通? それも君の方で判断してくれよ。とにかく、もう力は与えた。しっかりやってくれ。君は今まで相当ぐうたらな暮らしをして来たようだから、これからは一生懸命やりたまえ。

「何をですか?」

――それは自ずと分かるであろう。

「分からないですよ」

――え?

「分からないです」

――違うって、自ずと分かるであろう、これから、ってこと。だから今はまだよく分からないかも知れないけど、この先自然に分かって来るであろう、という意味合いで言ってるの。あんまり説明し過ぎるのもどうかと思うから、含みを持たせて、自ずとわかるであろう、と言ってるの。

「でも、もし分からなかったらどうすればいいのでしょう?」

――もううるさい。気安く質問するな。じゃあ、とにかく頑張ってくれ

「嫌だと言ったら?」

――えぇ?……ちょっとそれは分からない、そんなこと言われたことないから。え、嫌なの? 

「いや、取り敢えずやってみようかなとは思いますけど」

――うん、じゃあまずはやってみればいいんじゃないかなあ。うん。それで色々悩めばいいと思うよ。ケースにもよるけど、手助けすることもあるかも知れない。じゃがんばって。


    ※ 神様は、何故、ソッスを選ばれたのか。同情? だがソッスが男の子に対して抱いた程度の同情なら、誰でもその日の気分でしたりしなかったりするのではないか。……人知の及ぶことではない。


 ソッスの視界から神様が消えた時、右から全く関係のない女の子が走って来て、ソッスの隣で転んだ。そのタイムリーな女の子はしばらく伸びたように倒れ伏して固まっていたが、やがてのそのそと起き上がると、擦り剥けて血が出ている膝を見、子供らしく泣き出した。

 ソッスは、試しに、と思って、その子の肩の辺りに触れてみた。その瞬間、女の子の膝の皮膚がみゅみゅみゅっと再生するのをソッスは見た。傷が治ったのである。

 それでも女の子はまだ泣いている。もう怪我は治っている筈なのに、まだ痛いのだろうか? 

「えーーんえーーん」

「ねえ、お嬢ちゃん」

「えーーんえーーん」

「ねえ、まだ痛いの? 傷は治ったように見えたんだけど?」

「えーーんえーーん」

 ソッスは、少し強く彼女の肩を両手で揺すって、

「落ち着け。落ち着いてよく見て見ろ、傷はもう治ってるぞ? それでもまだ痛いの?」

 女の子は何かされると思ったのか、少し怯えた目をしてソッスを見つめた。

「傷は、治ったように見えるが、そう見えるだけで、痛みはひかないのか?」

 そう言われて女の子は自分の膝を見、あれれ? と言って、両手を左右に開いて、かわいらしい驚き方をした。

「な? 治ってるだろ?」

「すごーい! 何をしたの?」

「いや、何をしたってわけでもないけど」

「ありがとう!」

「で、もう痛みもない?」

 ソッスは、自分が触れることでどうやら傷は治ることが証明されたと思ったが、それが外見上傷が塞がったように見えるだけのものなのか、それとも真に痛みも取れて完璧に治ってしまうものなのかを確かめたかった。

「うん! 痛いと思って泣いてたけど! そういえばもう痛くない!」

「しばらく泣き続けていたのは惰性とかそういう感じだったってこと?」

「そうかも。アハハ! あ! そう言えば!」

 と彼女は着ている洋服をめくり、左脇腹の辺りを不思議そうにさすり、

「すごい! 昨日お父さんに焼かれた火傷の傷も治ってる! アハハ! すごーい!」

「そうか。それは、よかったね」

「わーいわーい! お兄ちゃんありがとう!」

 と言って女の子は左の方へ走り出した。お父さんに脇腹を焼かれた、という部分、もう少し心配・追及すべきである気もしたが、彼女は嬉しそうに飛び跳ねながら左の彼方に去って行った。

「どうやら、本当にすごい力を手に入れてしまったみたいだ……」

 

  

 ソッスは、しかし、と考えた。擦り傷、火傷程度なら治ることが分かった。けれども頭蓋を突き貫かれ、脳みその一部が飛び出してしまっているようないわば致命傷をも、直せるとは限らないぞ。

 だが、どうせこのままでは男の子は死んでしまうし、死につつある男の子に何かしら声をかけて上げたいな、という気持もあって、ソッスは肉屋の軒先に向かって歩き出した。たとえ救ってやれないとしても、死ぬ間際、一人の男が彼を助けようとするだけでも何某か価値はあるように思えた。下らない言い争いをしている母親と野次馬達の声だけを最期に聞いて死んで行く彼に、せめて一人だけでも、彼を真に助けようとして動く人間がいたという風に思わせてやるだけでも……。

 それはもしかしたら自己満足であるかも知れない。しかし自己満足だけでもない筈だ。事実ソッスは、いきなり神様が現われたために気を逸らされはしたが、不幸な男の子のことを思って涙を流していたのだし。

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