ソッス、逝く

天丘 歩太郎

第1話

 昔、少なくとも紀元前より昔ではある筈の昔の話。ある小さな国にソッスという若い男がいた。

 ソッスは根っからの怠け者で一日の大半を寝て過ごした。労働と言うものを心の底から嫌っていたので、あまり身体を動かさずなるべく腹も減らないよう心懸けて生活していた。が、じっとしていても腹は減る。人間何も喰わないわけには行かない。ソッスは、手近の森や、家の前などに罠を仕掛け、動物を捕えてこれを食べた。罠には狐やリスがよくかかったが、たまに犬や猫もかかった。ソッスは選り好みしなかった。味に甲乙はあったが、よりうまいものを喰うために、何かしら努力をしたりするくらいなら、毎日まずいものを喰っている方がマシだと考えていた。一匹も動物が掛からない日には雑草を食べて凌いだ。

 それでも月に一度くらい、無性に米や野菜を食べたくなることがあると、一日だけ大工や鍛冶屋の手伝い、農家の収穫の手伝いなど日雇いの仕事をし、その帰り道、少量の米、小麦、野菜などを買った。久しぶりに食べる米と野菜は非常にうまかった。できれば毎日、あるいは二日に一度くらいはこういうまともな食事をしたいとも思ったが、うまいものを喰いたいという欲望と、労働の苦痛・ストレスとを天秤にかけてみると、「やっぱり毎日うさぎしか喰えなくても、働くよりはいいな」と思うのだった。彼は何よりも自由を大事にする人間だった。あくせく働いて家族を養っている友人知人などと自分を、できる限り冷静に比べてみても、自分の方が幸福だと彼は無理にではなく思った。「大工の日当、銅貨五枚。ゆとり、プライスレス」

 空き巣に入ったり、人を脅して金銭を強要したりということはしなかったので、近隣の人達も、彼を怠け者だと言って馬鹿にはしても、必要以上に軽蔑したり、敵意を抱いたりはしなかった。

 彼は日光の暖かさを存分に楽しみ、川の水のおいしさを存分に楽しみ、風の涼しさを存分に楽しんだ。それで充分幸せだった。

 

 その日もソッスは寝ころんでいた。家の窓を開け放ち風通しをよくして、「ああ、涼しい、俺、働いてないのに、すげー涼しい」と、呟いていた。「身体の、どこもいたくないんですけど? 俺、働いてないのに、どこも痛くない」

 あくびをしながら寝返りを打つと、腰の辺りで滞っていた血液がじわりと流れ出すのを感じ、「うわっは……めっちゃ気持いいわ……幸せなんて、すぐ近くにあるんだってことをみんなどうして気付かないのかな……楽しもうと思えば、身体のどこも痛くないということだって、いくらでも楽しめるのに……。大きな家とか、お洒落な服とか、……それにしても背中気持いいわ……あ、あ、血が巡る」

 と、恍惚として穏やかな午後を楽しんでいると、外から、女の、狂ったような叫び声が聞こえた。

 おや? 何かあったのかな? とソッスは思ったが、無視して床板の堅さを楽しみ風の涼しさに酔いしれ続けた。面倒な事には関わらないに限る。

 しかし女が何度も何度も、きゃああああ、ぎゃあああああと絶叫し続けるものだから、さすがにソッスも不快になって来た。うるさいな、と呟いて両手を耳に宛って、不快なものを無視しようと試みた。が、耳を塞いでも女の叫び声は聞こえ、それでもしばらくは「床、堅いよ。堅くて気持いいよ」と少し大きめに呟くなどして耐えていたが、あまりにも長い間女の悲鳴が終わらないので、さすがに何が起きたのかと気になって、立ち上がった。

 玄関に向かって歩きながら考えた。きっと何かよくないことが起きたのだろう、叫んでいる女にとって。できれば関わりたくなかったが、こうまでいつまでも叫び続けられたのではさすがの俺も気になってしまう。しかし関わるからには楽しもう。きっと女にとって、不幸なことが起きたに違いないが、それを知って、見て、俺が不愉快な気分になってしまうのは、損だ。どうせなら楽しもう。金がないから芝居など見に行くこともできない俺だ、たまに人の不幸を見るのもいいじゃないか。よし、どうせ見に行くからには楽しむよ、俺は。

 果たして玄関を潜り、声のする方を見ると、肉屋の軒先に、背丈が100センチくらいの男の子が地面から浮き上がっており、その周囲に人だかりができている。大変だ、大変だとみんな言っている。

 よく見れば、子供は宙に浮いているのではなくて、杭に突き刺さっているのだった。肉屋の軒先には、羊や豚を吊り下げておくための、金属製の棒が水平に伸びて設置されているのだが、その棒に今、何故か男の子が頭部を突き貫かれて、魚の目刺しの状態で力無くぶら下がっているのだった。ぴくぴくと手足が痙攣している。

「おや、まあ」

 とソッスは言った。これはなかなか面白いことになっているな。俺、働いてないのに、こんな貴重なものを見れるなんて。

「だ、誰か助けて下さい!」

 と叫んだのは母親だろうか? 恐らく長い間叫び続けていた女だ。

「誰か、助けて下さいよ!」

 取り乱して、人にものを頼むときの態度ではなくなっている。だから、というわけでもないのだろうが、周りに集まっている十人くらいの人達も、肉屋の主人も、うわー、とか、どうしてまた、とか言っているだけで、誰も子供を助けようとしない。

 ソッスがもっと近付いて見ると、男の子のちょうど左目を突き通すように、棒は突き刺さっているのだった。そこから夥しい量の血が流れ出していて、頬を、胸を、腹を伝い、足を流れてつま先から、敷石の地面に垂れている。助けて下さい、と女はまた言っているが、いや、これはもう無理だろ、とソッスは思った。これは、無理。楽しむしかない、とソッスは再度決意して、野次馬の輪から少し離れた所に座り込んで、見物することにした。


「誰か早く! 助けて下さい!」

 と女は尚も叫ぶ。

 そもそもこの状況で、具体的にどういう行為を念頭に置いて、女は助けて下さいと言っているのか。という疑問が、集まった人々の中にはあった。普通に考えると「助ける」とは、取り敢えず男の子を棒から抜いてやることを指すように思われたが、とうていそれで助かるとは思えないし、第一、それならば彼女が自分でやればいいではないか。あるいは、棒に刺さった子供を抜くという行為はなかなかに力のいる作業で、女の力では無理なので、誰か力のある人に「抜いてくれ」と頼んでいる、という風に取れなくもない。しかしだとすればまず彼女が自分でその作業をやってみようとして、しかし力がなくてできないということが分かった時点で、「私の力では無理! 誰か力のある人!」と頼むのが自然な流れではないのか。けれども彼女は、初めから一つも自分でやってみようとはしないで、「誰か!」と頼んでいる。それは横着であるように人々には思えた。

 釈然としない気分がギャラリーに生まれ始めていた……、というのは、女は助けて下さい、と言う。けれども誰も助けるために動こうとはしない。この構図はどういうことか? 誰も女の「助けて下さい」という願いに応えられないのは、誰もかわいそうな子供を助けたくないからではなく、具体的に何をすればいいのかが、分からないからだ。いや、考えられるのは先にも書いたように子供を棒から抜くということだがそれでは全然助けることになっていないのではないかという疑問があり、また棒から抜くことを指して「助けて」と言っているならば、母親であろう女が自分でやってみればいいのではないかという思いが皆の中にある。女が非力な腕で息子を抜こうと努力し、しかしその非力故に息子を抜けないという事態が見て取れれば、みんな動くこともできただろう。それは子供を助けるというよりも、単純に、息子を抜きたいのに抜けない母親に力を貸す、という意味合いの行為として。しかし闇雲に助けろ助けろと言われているのだから、困る。誰も薄情で行動しないわけではない。なのに母親が「助けて下さいよ! 早く助けろよ!」と、怒り狂って叫ぶものだから、みんな、なんだか、自分らが非道な、薄情な人間であるという構図を女によって作られてしまっているような錯覚に陥りつつあった。「なんか、むかつくな」と皆が思い始めていた。 

 

 ソッスは、この時点では楽しんでいた。面白い見せ物として、息子が死んでしまいそうになっている母親の狂態を。戸惑うギャラリーの反応を。宙ぶらりんで痙攣している男の子の美しさを。「俺働いてないのにこんなに楽しんでいいのかな」


「いや、お母さん、ちょっと落ち着いて下さいよ」

 と、野次馬の中から鍛冶屋のせがれの青年が半歩前に出て言った。「そんなに叫んでも、どうしようもないでしょう?」

「助けて下さいよ! 早く何とかして下さいよ!」

 と女は聞く耳を持たない。

 すると今度はだいぶ年取った農家風の男が、しわがれ声で、

「分かった分かった。何とかしてやりたいとは思う。しかし、一体、どうしたいというのじゃ? そんなに泣き叫んでも、息子は助からんだろうに」

「ふざけないで!  何が落ち着けよ! もっと必死になって何とかしようとしてよ! 人事みたいに言わないで!」

「ハア?」

 と、農家風の老人は、目を見開き、「人事以外の何ものでもなかろう!」

「ひどい! 人事だなんて! 子供が、何の罪もない子供が死にかけているのに人事だなんて!」

「いや、だから」

と今度は恐らく大工であろう身なりの壮年の男が言った。「人事か人事じゃないかで言うと人事だろ。かわいそうと思っているかどうかとか、同情しているかどうかとかとは全く別の問題で、見ず知らずの子供が棒にぶっ刺さった事は、人事ではあるだろ。ひどいひどくないとは全く関係ない。言ってることがおかしいよあんた。誰も、かわいそうと思ってないとは言ってないだろ。さっきから聞いてりゃ人を人非人みたいに言いやがって。少し落ち着けよ」

「そうそう、その通りだと思うわ」

 と、これは多分、何だろう、主婦のような女が言った。「『人事みたいに言わないで』、は、おかしいと思いますよ、『人事だと思って!』 ならまだ分かる気もするけれど」

「ホラ! この女! 認めたわ! やっぱり人事だと思ってるって認めたわ! 地獄だわ! あなた確実に地獄に堕ちるわ! 絶対にぃ!」

「だから人事か人事じゃないかの問題を、何で良心の問題につなげてしまうかな。人事なのは人事なのだから仕方ないでしょう、人事でありながら、僕らは一生懸命、何かできることはないかと思って、こうして集まってるんでしょう? どうでもいいと思ってたら、みんなそれぞれ用事もあるのに、こんな所で立ち止まってはいない筈でしょう?」

「そうよ! ばか! 何が地獄よ!」と、地獄に堕ちろと言われた女。「地獄なんか堕ちてたまるもんですか! 人事は人事なの! 価値中立的な言葉なの! どれだけ同情してかわいそうだと思ってても、それは関係ないの! ほら! 早く謝りなさいよあんた! 地獄に堕ちるなんて言ってごめんなさいって言いなさいよ! ほら! 言霊というものがあるかも知れない、言霊の力で本当に私が地獄に堕ちてしまったらどうする気よ! 早く取り消して! そして『人事だと思って!』の間違いでしたと認めなさいよ!」

「うるさい! どっちでもいいでしょそんなこと! 何で今そんなどうでもいいことばかりあんたらは言っていられるのよ! やっぱり本当にはこの子のことなんてどうでもいいと思ってるからそんなどうでもいいことばかり言うのでしょ! かわいそうと思ってるの? 切実に助けて上げたいと思ってるの? 思ってないんでしょ! どうなのよ! あんた!」と、母親は大工風の男に向かって言った。「人事かどうかなんてもうどうでもいいわ。でも、そんなどうでもいいことに拘って、今にも私の子供が死にそうになっていることについては、本当はどう思ってるのよ? 同情なんてしてないでしょ? 本当は面白くて仕方ないんでしょ?」

「……正直」少し考えてから大工は小声で言った。「面白いな」

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