第3話

 宏彦は走った。

 全速力で走った。

 この速度で両腕を拡げたら、飛翔してしまうのではないかと思われた。

 道沿いに飼われている犬どものことごとくが、彼のスピードに驚いて吠え立てたがそんなものは無視だ。女子高生の一団を追い抜く時に彼の巻き起こす風圧が全てのスカートを翻えし、辺りに石けんの臭気が広がったがそんなものも無視だ。

 心臓からは確かに致死量の血液が漏れてしまっている筈なのに後から後から新しい血が漲って、どこまででも走れる気がした。

「女子とまた会う約束をした」

 行く時には三十分かけた道のりを、帰りは五分で駆け抜けて、家に着くと、そのままの勢いで二階への階段を駆け上り、腕立て伏せをちょっとして、さすがに疲れてふとんに潜ったのであるがこれを恋と呼ばずして何と呼ぼう。

 それにしても、宏彦が、心臓がおかしくなってしまうくらい激しく彼女に打ちのめされたのは幸いだったと言える。普通ならこういう場合、その場で二十分か三十分も話しをしておしまいになったに違いないが、苦し紛れに宏彦が「急いでいる」と言ったことで、ごく自然に、改めて会う約束ができたのだから。勢い余ってのこととはいえ、宏彦の口が女性に対しまた会いたいなどと言えたのは快挙である。

 彼はその日一日、ただただ華穂の表情、身動き、声などを繰り返し思い起こして過ごしたが、翌日になって、ところで彼女はいつの同級だったのかが気になり始めた。彼女に声をかけられ、振り返ってその顔を見た瞬間には見覚えがあるような気もしたのだったが、はてあんなにかわいい人を忘れてしまうなんてことがあり得るだろうか、いや、忘れる筈がない、でも全く見覚えがないというわけではないんだから全く忘れてしまったわけではないということだが、とあんまり考え続けるうちに、現在の華穂の顔すらよく思い浮かべられなくなって来て途方に暮れた。小学校のものも、一年間しか行かなかった中学校のものも、卒業アルバムを焼き捨ててしまっていることが悔やまれた。が、結局、彼女が誰であったのかということは、あまり問題ではない気もして、それ以上考えるのはやめた。

 

 さて約束の土曜日はよく晴れた。昼という約束だったが宏彦は余裕を見て八時に家を出、つつじの花壇の所には八時半に到着した。当然華穂はまだいなかった。

 十分ほど、鳩のくぐもった声を聞きながら花壇の前に立っていたが、やがてちょっと早過ぎたかな、と呟くと、付近をぶらぶら歩き出した。公園を見付けるとベンチに座って空を眺めた。それから少しブランコに乗って、水道で手を洗い、首を濡らして時間を過ごした。

 十一時になって彼は、そろそろ待っていようかな、と花壇の所へ歩いて行き、突っ立った。つつじの香りを感じながら、「待つのもデートのうち」と、呟いて、更に「いや、別にデートじゃないし」と自分で突っ込んでハッとした。

 デートでは……ない……。だとすれば、何?

生まれて初めて女性と会う約束をしたという事実に舞い上がってしまい考えていなかったが、会って、何をするのだろう? 

 デートをしようということになっているわけではない。では何をしようとしているのだろう?

 構図としては、ただあの時、時間がなかったから、そのまま別れるのも愛想がないということで、また会いましょうということになっただけだ。……ということは、やっぱり、二十分か、三十分、長くて一時間ほど思い出話でもしてさよならすることになるのだろうか? わざわざ日を決めて、会う約束をして会ったというのに? それも変じゃないか? わざわざ日を決めて会うからには、そんな、こんな、道端で二十分話してさよならなんていうのは変じゃないか? でもかといって、それ以上に一体何をすることがあるだろう? デートではないのだ。デートではないのに……と考えてみると、もしかすると彼女は今日、俺と会う約束を成り行きでしてしまったことをめんどくさく思っているのではないか、彼女が学生なのか働いているのか知らないが、きっと土曜日は貴重な休日だったに違いない、それなのに、わざわざ、どうでもいい昔の級友と二十分か三十分話しをするためにまた会う約束などしてしまったことをめんどくさく思っているのではないか? 彼女はきっと、ただ単純に知り合いがいたのでごく軽い気持ちであの時俺に話しかけて来ただけだろう。それなのに何故かまた会う約束をすることになってしまって、きっと今頃は「ああめんどくせーねみー」などと言いながらパジャマから洋服に着替えているのではあるまいか? あるいは、もしかしたら、彼女は、現われないかも知れない……。

 そう思うと宏彦は急な空しさに襲われ、この数日間意味もなく興奮していた自分が惨めに思えて来た。「何をそんなに喜んでいたのだ俺は? ばかだな」と声に出して呟いて、そう言えば俺、ヒキコモリなんだよな、もう二十歳なのになぁ、ずっとこのまま生活して行くのかな、というかそんなのは不可能だろ、親もいつまでも若くないし、財産があるわけでもないし、何とかしなくちゃなあ、とはいえ何ともできそうにない……だって人が恐いんだもの、外が恐いんだもの、何より昔の級友とただ行きがかり上改めて会う約束をしたというだけで数日間も浮かれて過ごしてしまうくらいだからね……何ともしようがない……どうしようもない……死にたい……とひたすら思考が陰に鬱に沈んで行こうとした時、まるで真っ暗な未来を象徴するかのように、彼の視界は完全な闇に閉ざされた。のみならずこめかみから眉間にかけて、鈍く圧迫される感覚にも襲われた。彼はうろたえた。あまりに気持ちが沈み過ぎたためか、あるいは、七年ぶりの外の空気にやられたためか、自分は今失明してしまったのだと思った。……醜い姿に生まれて来、おそらくはそれを主な理由としてひどいいじめを受け続け、七年間も閉じ籠もって生きて来た、その上今俺は両目の光までも失って、一体どれほど苦しみに満ちた人生だというのだ、どれほどの罪を俺が犯したというのだ……と闇の中で完全に絶望し切って立ち尽くす宏彦の耳に、

だから、

「だ〜れだ」

 という、くすくす笑いを含んだ声が、どれほど救いに満ちて聞こえたか、どれほど慈悲深く響いたか。もちろん我々は、宏彦の両目を掌でふさぎだ〜れだ、と言った華穂の、あまりに狙い過ぎていて、あまりに使い古されていて、逆にステレオタイプという言葉を宛うことすらためらわれる程なめ切った行いに対し、苦々しく、痛々しい目を向けることもできる。だがここで重要なのは、我々にとって華穂の行いがどのようであるか、ではなくて、宏彦にとってどのようであるか、だ。

「……す……鈴木さん?……」

 震える宏彦の声に、嗚咽が混じった。

「ピンポーン」

 という華穂の喉から発せられた正解音は、宏彦の耳に、彼の存在そのものをも肯定する音として響いた。彼のこれまでとこれからを力強く肯定し、彼が今ここに存在するということそれ自体に対して「正解!」と告げる神の声として。

 同時に華穂は彼の両目から掌をどけ、彼の視界には光が戻り、つつじは先ほどまでよりも眩しく赤々と満開で、空は誰も見たことがない程研ぎ澄まされて青かった。ぴょん、ぴょん、と二度跳ねるようにして華穂は宏彦の前に立ち、

「早かったんだね」

 と言った。しかし華穂は宏彦の顔を見るとたちまち笑顔を消し、少し驚いたように眉根を寄せた。宏彦の目に涙が滲んでいたためである。

「ごめん、……もしかして指、刺さった?」

「いや、違う」

 と宏彦は声を震わせた。そしてもう今、ここで、自分のことを何もかも正直にこの人に話してしまいたい衝動に駆られていた。この人に自分のことを伝えたいと思っていた。現在自分はいわゆる所のヒキコモリであること、いじめられて人が恐くなって七年間母親以外誰とも接触せず生きてきたこと、それではだめだということは分かっていること、でも勇気がない、自分の顔は醜いと思っているし事実醜いだろう、それもあって人と会うのが恐い、でも立ち直りたいと思っている、唯一誇ることができるかも知れないのは、自分は一度も自分を嫌いにはならなかったことである、もちろん容姿は醜いけれども心は優しいと思える、誰かを強く憎んだことはない、誰かの不幸を願ったこともない、いじめられながらも、確かにいじめっこがいなくなればいいと願いはしたが、彼が同じように苦しむことは絶対に望んだことがない、だから完全に絶望はしていない、自分だけは自分を肯定できているように思う、だが弱い、自分の心は醜悪ではないが弱い、、それが悔しい、……

 彼の頭の中でめまぐるしく言葉が氾濫して、一体どれから言えばいいのか分からず、言葉が発せない。またそうしているうち、今断片的に考えたようなことがどれもこれも自分勝手な妄想に過ぎず、独りよがりの甘えであるような気がして来た。更に冷静になって考えてみると、自分はこんなに興奮し高揚しているが、華穂の方ではそんなことはないのではないかという当たり前のことに思いが及んだ。結局、いきなり懺悔をされてもきっと意味が分からないよな、とこれもまた至極当然の結論に至り、

「大丈夫、ほこりが入っただけだから」

 とごまかした。

「ごめんね、いきなり変なことして」

「いや、君のせいじゃなくて、もともと入ってたほこりだよ?」

「でももともとほこりが入ってた所を上から押し付けたから余計痛かったということではないの?」

「違う違う、そういうことでもないから、ほんとに」

「取れた?」

「うん。それより休みの日に、わざわざ悪かったね。そういえば今、何してるの?」

 華穂は、現在アルバイトをして暮らしている、と答えた。その答えがあんまり簡単過ぎるので、宏彦は、まだ続きがあるものと思って黙っていると、

「とりあえずどうする?」

 と華穂が聞いた。

「ん? どうするって?」

 宏彦は真剣に意味が分からないでいると、

「……。駅の方に行く?」

 駅の方。繁華街。喫茶店とかデパート、映画館などがある場所。

 つまり、華穂は、初めから当然、ここでちょっと話してさよならではなく、ある程度長い時間を宏彦と過ごすつもりで来ていた、ということだ。宏彦はさっきまで、デートでもないのに云々といじいじ考えていたので、華穂があまりにも当然という風に駅に行くことを提案して来たことに感動した。

「ああ、駅に行こうか! この辺にはなんにもないし!」

 二人は並んで歩き始めた。春の春らしい日射しの下で、家々の庭先に植わった木々、花々が風にそよいでいた。

「晴れてよかったね。あったかいし」

「そうだね。あったかいね」

華穂は伸びをして、

「あ〜、ほんと春っていいよね。気持ちいい!」

「うん、気持ちいいね」

 宏彦は必死だった。歩き姿がなよなよ、あるいはひこひこしてしまわぬよう細心の注意を払っていた。また、つまらない奴と思われるのを恐れ、できる限り軽快に会話をしようと努めてもいた。意識して背筋を伸ばし顎を上げ大股を心懸けることで何とか歩き姿に関しては人並程度にはできている感触があったが、会話の方は難しかった。軽快な会話を志し、テンポ良く返事・相槌を打たねばと焦る余り、ほとんどオウム返ししかできていなかった。これではダメだ、確実につまらない奴だ、と宏彦は焦った。恐らくはそのために、周囲は適温である筈なのに、彼だけが夥しい量の汗を額に浮かべていた、というかさっきからたらりたらり頬を伝って顎からぽとぽと落ち始めてさえいる。

 その汗を、袖で拭うべきか、拭わぬべきか、宏彦は悩んだ。……俺は今異様に汗をかいているな。滝のようにかいている。ああ、何故こんなに俺は汗を? 分からないが事実俺は顔中汗だらけだ。この状態は明らかにおかしい。汚い。拭うべきだ。だがハンカチがない。ああハンカチがない。拭うとすれば袖で拭うしか方法はない。だが袖で拭ったら、余計汚いと思われはしまいか? どうせ全身に汗をかいており袖にも汗は既に染みている、どうせ染みてはいるけれども、改めて、額や頬の汗を袖で拭くという行為は、何というか、絵として、いかにも汚らしい上に、自分は汗をかいているということを認めることだ。自分は汗をかいており、それを袖で拭いましたとはっきり彼女に認識させることだ。彼女に汚い奴だと思われてしまう。……だがこのまま顔中汗みずくのまま歩き続けることも、それはそれで異様であるのは間違いない。……けれども今俺と彼女は並んで歩いているから、もし彼女がこちらを見なければ、あるいはばれないかも知れない。だがもし彼女が俺の方を見て、汗みずくの俺の顔を見付けてしまったら何と思うだろう? それこそ気持ち悪がられるに違いない。どうしたものか、拭うか、拭わないか……と懊悩しているうち、

「ていうか結構汗かくねぇ」

 見付かってしまった。

「ああ、うん、……俺は、結構汗かく方だねぇ」

 ばれたのでは仕方ない。宏彦はもう観念して、思い切り袖で汗を拭った。拭いながら、しかもまたオウム返ししてしまったことを激しく悔いた。そしてせめてもの善後策として、汗を拭うという行為だけがそれだけで華穂の目に焼き付くことを防ぐため、何でもいい、自分から言葉を発そうと思い、

「さっきの話しだけど、アルバイトって、どんなことしてるの?」

 先程一度尋ねて曖昧になっていたことを再度尋ねてから、これは詮索として華穂に聞こえてしまったのではないか、しつこい奴と思われたのではないかと思い、宏彦は頬の裏をちぎれる程噛んで後悔したが、華穂の方はさして気分を害した様子もなく、

「ああ、そうそう」

 と言って、現在の自分の状況について話し出した。少し自嘲気味に、しかし明るい口調で、高校を卒業後、美容学校に進んだが、あまり手先が器用ではなく、また、自分の髪をいじるのは好きだが他人の髪をいじるのはあまり好きではないことに気付き二ヶ月で中退した。しばらく携帯電話の販売のアルバイトをしながら多少の金を貯めてアパートを借り念願の一人暮らしを始め、そうして今年の春から調理学校に通おうと思っていた筈だったが、何となくめんどくさくなってやっぱりやめて、とりあえず今は、保険会社の電話での事故受付のアルバイトをしているが、これも楽しくないので今、辞める口実を考えている。と。

「へー。すごいんだな」

 宏彦は心から感心して言った。

「何が?」

「いろんなことに挑戦して」

 華穂はアハハ、と短く笑って、

「中村君は? 何してるの?」

 当然の流れであろう。

 宏彦は一瞬だけためらった。しかしすぐに、付け焼き刃の嘘は付きたくない、本当のことを言いたい、そう思って、

「何もしてない」

 と答えた。人と話すのは本当に久しぶりだ。それなのにつまらない体裁など繕って嘘を言うなんてもったいな過ぎる。「なーんにもしてないよ」と笑って見せた。だがさすがにひきこもりであるとは言い難く、「そろそろ何とかしようとは思うんだけどね」

すると華穂が、

「ニートってこと?」

 と言い、宏彦は、ああ、その手があったか、と救われる思いがした。「ヒキコモリ」というと何やら不潔で、陰鬱で、悲壮感が漂うが、「ニート」と言えば、どことなく楽しげで、不潔ではなく、陰鬱なイメージもない。宏彦は今日華穂と会って以来最も力に満ちて彼女の目を見、

「そう! 俺、ニートなんだよね!」

 と言った。

 華穂はそれに対し、

「そうかぁ、ニートなのかぁ」

 特に何のわだかまりもない様子なので、宏彦は安心した。

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