第2話

 彼が外に出なくなったのは中学一年の時だった。いじめられて不登校になり、更に、級友と出くわすことを恐れて家の外にも出なくなった。いじめの辛さというものは、受けた本人にしか分からないもので、他人がその内容を聞いて辛そうだ、とかあるいは大したことない、などと感想を持っても的はずれであることが多い。

 だからここで、彼がどのようにいじめられたかを述べても、それは何の参考にもならない。にも拘わらず便宜上一つだけ彼の記憶に残っている光景を挙げるなら、炎天下であった。理科で、虫眼鏡を使う実験中、教師の目の届かぬ校庭の片隅で、宏彦は五、六人の級友にうつ伏せに押さえ付けられた。そして土埃を吸って咳き込んでいる宏彦のうなじに、一人がルーペの位置と角度を調節し、太陽光線を照射し、鋭く、深く、焼いた。(その時にできた小さな火傷は今でも宏彦のうなじに茶色い小さなイボのようになって残っている。そのイボがたまに痒くなる度に、彼はこの時のこと、それからこの時に限らずいじめられていた学校生活を思い出す。)現実に身体に変形を来す程のいじめをしてしまったことが発覚することを恐れ、級友達は宏彦にその場で即座に謝った。教師には言わないでくれという意味のことを、「もういじめないから」という何とも屈辱的な条件を添えて申し出た。宏彦はえへらえへら笑っていたが、自分がこんなにも痛いのに、今後長い間跡の残る、場合によっては一生消えないかも知れない火傷を負ったのに、彼らは自分らが怒られることだけを恐れているということに薄寒い思いがした。しかし「もういじめないから」「遠足の班一緒になって上げるから」「昼休みサッカーにも入れて上げるから」宏彦はそれらの条件を飲んで誰にも火傷のことは言わなかった。保健室に行って手当してもらいたかったがみんながよってたかって「大丈夫だよすぐ治ると思うよ」と言い、偶然そばにいた女の生徒の一人が、花紙を水で濡らして宏彦のうなじに宛って、結局それだけしか手当はしなかった。ティッシュを宛ってくれた女子は、一見宏彦に同情的な言葉をかけてくれたし、彼を押さえ付け太陽光線を照射した五、六人に対して憤って見せてもいたが、それでも、この事態を教師達に内緒にすることについては賛成しており、保健室に行くことを強くは薦めなかったのだから、本当には彼のことなど心配しておらず、内心は自分も楽しんでいたのであろう。彼女は片手で宏彦のうなじに濡らした紙を押し当てつつ、彼の体操服に付いた土を払い落とそうとしたのだが、その際はずみで宏彦の下顎に接触した彼女の二の腕が、信じがたい程に柔らかかったので、ますます宏彦はやり切れない思いがした。それでも誰にも告発しなかったのは、一つは体裁のため、もう一つは、微かに、もしかしたらこれを機会にいじめられなくなるかも知れない、という打算があったためである。屈辱的ではあるがここは大人になって彼らを許して上げれば、その慈悲深さに感銘を受け、皆の宏彦を見る目も変わるのではないか、本当に仲間に入れるのではないかという切ない希望。だが実際はそれらの約束は一ヶ月も続かず、また色々とちょっかいを出されたし仲間にも入れてもらえなかったのだが……。とにかく彼は、彼にとって学校に行けなくなる程度の、そうして彼にとって家からも出られなくなる程度の経験があって、ヒキコモリになったのである。が、当時から彼はどうしても自分を特別視する傾向にあって、「不登校児」「登校拒否児」という枠に当てはめられるのを嫌ったし、今も、自分はいわゆるヒキコモリではないと思っている。

では彼は、何を根拠に自分と、その他大勢のヒキコモリとを区別するのかと言えば、「自分はいつか凄いことをするから」、あるいは「天才だから」というのが、彼なりの根拠である。根拠自体の根拠はない。「凄いこと」とは何か、彼自身全く見当も持っていないし、何を以て「天才」と言うのかも分からない。それでも彼は、自分は特別だと信じている。(だが正にこのような思考様式こそが、世間の人の目には、ヒキコモリの典型的特徴として映るのではあるまいか? だが当人は気付かない。)しばしば彼は、己の容姿の醜さを、己の心性の気高さに結び付けて考えるのだが、……いや、今それは置こう。とにかく、ゴミにまみれた部屋で、日がな一日ネットゲームをすることで、十三歳から二十歳までを過ごした彼は、傍から見れば、ヒキコモリ以外の何者でもないのだ……。

 さて彼が華穂と出会ったのは一ヶ月と少し前である。

 彼のことを心配し、何とか立ち直って欲しいと願っている母親が、彼に散歩に行くことを薦めた。少しずつでも家から出られるようにと思ってのことだろう。彼は母親に心配をかけていることについては素直に申し訳ないと思っていたし、また自分でも、いい加減何とかしなければならないと思っていたから、実に七年ぶりである、家を出て、近所を散歩することにした。

 最初は外を歩くことが不安で胃がしゅくしゅくしたが、それでもおどおど歩いているうち、七年ぶりに浴びる昼の光はとてもあたたかかく、空、雲、木、ブロック塀、そのような何でもないものの色合いが彼の目に新鮮に映った。乾いた風は心地よく、久しぶりに踏みしめるアスファルトは頼もしい。雑木林を通る時に、木漏れ日というものを見て、「世界はこんなにも美しかったのか」と呟いたし、道路をちょこちょこしているスズメを発見すると、「うわー、すげーリアルだなーこの動き」などと呟いてみたりもした。独り言はヒキコモリ生活を続けるうちに身に付いた癖である。

 小学校、中学校の時の同級生と出くわすという事態を恐れながらも、うきうきした気分で歩いていると、風向きが変わり、急に甘いような匂いがした。「なんだろう、いい匂いだな」とこれも声に出して呟いて、ちょっと辺りを見回すと、アパートの敷地に花壇があって、つつじの花が満開だ。「おお、おお、……花ですか」(花がつつじであることを彼は知らなかった)とやはり呟き、更にわざとらしく恍惚とした顔つきを作って、花壇に寄って行った。

 花壇の手前に立つと、つつじの上に、おもむろに掌をかざして眉をひそめた。微かに熱を感じたのである。……おや? 植物は熱を放つのだっけ? 花の赤い色から俺は錯覚を起こしているのだろうか? いやあるいは、そうか、これは花の熱ではなく、土の温気なのではなかろうか、この花壇の部分だけ、アスファルトではなくて、土だから、ここだけ土の温気で周りより少し温かいのかもしれない。だとしたら俺の手は繊細に、その微かな温度差を感じ取ったと言うことだ。何と精密な感覚を俺はもっているのだろう! やはり俺は天才なのか?……とほくそ笑んだ時に、

「中村君?」

 と背後から声がかけられた。すぐには振り向かなかった。つつじに手をかざしたままくぐぐくく首が震えた。基本、他人は敵であるという意識が、宏彦の脊髄には根付いている。反射的に逃げそうになった。その声が男性のものだったら実際に彼は逃げただろう。だが声は女性の、しかもまだ若そうな声だった。だから逃げなければという恐怖と同時に、鬱屈し切った官能もまた刺激されたわけで、それで彼の身体は行動を決めかね硬直したのである。二、三秒の逡巡の後結局彼は振り向くことになるのだが、それにしても声をかけられただけで「敵だっ!」と恐怖したり「雌だっ!」と欲情したりというのは何とも動物的で痛ましい。骨が細く筋肉もなく、皮膚も不健康に汚れている、といって病的な魅力というものもない、ただただ醜い彼だというのに。動物としての魅力に欠けるから精神を、魂を、愛してもらうしかないと決意している筈の彼だというのに。

 で、振り向くと、女が笑顔で立っていた。目が合った。心臓から大量の血が染み出て、胸に激痛が走った。七年ぶりに受ける生の、母親以外の人間の視線が自分には耐え難いのだ、と彼自身は考えたが、それだけではなかった筈だ。心臓から血が染みるというのは、そういうことだけではない筈だった。

 宏彦は相手の顔を直視することができないからしかたなく、彼女の靴からすねにかけてを見つめ、彼女が誰であったかと思考を巡らせた。昔見た顔だとは思うのだがはっきり思い出せない。

「ええと……」

 ちら、と彼女の顔を見ながら震える声で、「すいません、誰でしたっけ?」

 と言った。けれども彼女は何かにやついた顔のまま宏彦を見つめて来るだけで、何とも答えない。宏彦は、息苦しく思いながら、彼女の足下に目を落としいるしかなかった。しかしそうしているうちに、彼女の二つの膝頭が、身体のバランスを保つためにごく、ごく微妙にだが蠢いているのを発見すると、そこに彼の全神経は釘付けにされた。薔薇色のキュロットスカートの下で、太股と膝頭とすねが、バランスを保つために時にはぴくりと時にはくぐぐと収縮する。その精密な動きを、目の前の女は微かにも意図せずに行っていると思うと、そのことについて、是非とも問い質したい衝動に駆られた。あ………あなたが誰かは知りませんが…………あなたの脚は………バランスを取るために今とても精密に、よく見なければ見落としてしまうほど小さな動きを蠢いていますよ、ねえ、……あなたはそんなこと全然気にしていないみたいだけどホラ、今、右膝がぐっと窪みましたよ、あっ! 今 左の腿がぐぐぐって!ぐぐぐってっ!あっ!

 ぐぐぐっっ!

 彼の中で、彼女の脚の動きの精巧さについて本人に伝えたいという衝動が、他人に対する基本的な恐怖心を克服し、正に彼の右手が彼女の膝を指差すために動き始めたその刹那、

「ええええ? 忘れちゃったのおおおぉ?」

 と彼女は、わざと眉根を寄せて「ひどーい」頬を膨らませ、しゃがみ込んで宏彦を見上げるようにした。その仕草は幾分芝居がかって白々しくもあったが、宏彦は人慣れしていないから、そんな歪んだ捉え方はしなった。膨らませた頬をかわいいと思った。寄せた眉根もかわいいと思った。更に彼女が屈み込む時、これまで拘って見つめ続けていた膝が、これまでバランスを保つためにごく微細な動きを刻一刻繰り返していた二つの膝が一気に、一時に、折れ曲がる様を、彼の目はあまりにもまともに見せつけられた。そして、太股に圧迫されるすね、すねに圧迫される太股、何よりも、すねと太股に引っ張られて薄く引き伸ばされた二つの膝頭の皮膚が、真昼の太陽をそれぞれ一身に受けて放った絶対的な光、至上の輝き、怒濤の光沢、あまりにも眩し過ぎて宏彦は、「うわっ!」と叫んで、二、三歩後方へよろめいた。

 宏彦のこの反応をどのように解釈したのか彼女は、

「思い出した?」

 嬉々として立ち上がり、わなわなと後じさりを続ける宏彦に近付いて、「久しぶりだね」

 しかし宏彦は彼女が誰なのか思い出せてはいなかった。……中学一年の時以来、新たに他人と出会ったことはないのだから、小学校か中学校の時の同級生であると考えてまず間違いはないだろう。また、小学校の高学年から中一にかけて彼はひどくいじめられていたわけで、ほとんど級友と会話をした記憶もない。ということは恐らく小学校の一年から三年くらいまでに同級だった人だろう。そして彼女の屈託のなさを考慮すると、多分宏彦がひどくいじめられてひきこもってしまったことも知らないのだろう。とりあえず、

「久しぶり」

 と応えた。しかしその声がいかにも自信なさそうだったから、

「ん? ほんとに思い出したの? 華穂だよ、鈴木華穂」

 と、華穂は自ら名乗った。

「ああ、鈴木さんか。……思い出した。……久しぶり」

 実はまだ思い出せてはいなかったのだが、相手の気を悪くさせないために、思い出したふりをした。だが、この時の宏彦にとって、彼女が一体いつの同級生だったか、どの程度仲が良かったかなどどうでもいいのだった。少しでも早くこの女から離れる必要があった。さっきから心臓がおかしいのだ。穴が空いて、血がどんどん漏れている……何だろう? この締め付けるような胸の苦しさ……早く、家に帰って横にならなくちゃ……。

 背、高くな――と何か言おうとする華穂を遮って宏彦は、一見邪険なようにも取れる発音で、

「ごめんちょっと急ぐから」

 と、それに対する華穂の返答も待たずに踵を返して走り去ろうとした。が、踵を返し切る直前、華穂の表情が、何か傷付いたように、打たれた犬のように寂しそうに変化するのを目の端に捉えてしまった。彼はこれまで以上に大量の血が心臓から溢れ返るのを感じながら辛うじて立ち止まり、決して彼女と関わりたくなくて去るのではないと言うことを伝えようと、早口に、

「いや、ほんとはもっと話したいんだけど、久しぶりなのに、色々話したいんだけど、だからつまり、せっかく久しぶりなのに君をないがしろにする気持ちのわけではなくて、ほんとに今は、今は、これ以上ここにいられなくて」

「あ、そうなんだ」

「うん、だからまた、時間ある時に会いたいんだ」

「うん、そうだね、そうしよう。中村君何曜日なら暇なの?」

「何曜日でも暇」

「……。土曜日でもいい?」

「いいよ、土曜日。じゃあごめん」

 と走り去る宏彦の背に、

「中村君! どこで会うの? じゃ、とりあえずまたここでね! 土曜の、お昼にまたここに来てね!」

「分かった!」

「じゃあね! 気を付けてね!」

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