ビー玉に注入してるつもりの存在意義は確固たるエトセトラ
天丘 歩太郎
第1話
会話が途切れた。雲が晴れた。分厚い緑色のカーテンに夕日が直射して室温が一℃上がった。
宏彦は顔の右側にひしひしと熱を感じ、ただでさえいびつに凹凸している自分の頬が、オレンジ色の光によっていっそう際立てられることを恐れてうつむいた。すると正座した膝が見えた。膝に置いた両手が見えた。その両手にカーテンの隙間から射し込んだ夕日が当たって、浮き出た血管と筋とが嫌と言うほど陰影を作っている。咄嗟に右手で左手を覆うようにしたのは、目の前に座っている女に、こんな醜い手を見られるわけには行かぬという意識が働いたからである。だが無論右手も同じように醜いのだから意味がない。それで膝と膝の間に両手をねじ込んでみたが、そうするとそれは更に情けないような、いかにも貧弱な格好で、ただでさえ骨の細い彼の身体を鳥みたいに見せるだけだった。彼もそのことに気付くと、慌てて膝から両手を引き抜いて、引き抜いた手をしかしどう処理するかに迷いながら、
「急に明るくなったね」
華穂の意識を、自分の貧相な姿から逸らすために言った。首を絞められたような、掠れた、落ち着きのない声だった。緊張していたせいもある。けれども彼の喉は元からこんな声しか出せないのでもあった。しかも、口の中にビー玉を入れているため、間の抜けた発音になった。
それで余計、彼の心は滅入りそうになったのだが、もともと彼は、容姿、声、弾力、あるいは匂い、そういった五感で感覚される部分で、彼女の心を惹く気はなかった。そのためには、あまりに自分の身体が魅力に乏しいということを、分かっていた。動物として誰かに愛されることは既に諦めているのだ。
え? と華穂は首を傾げ、紅茶のカップをテーブルに置いた。テーブルと言っても小さなちゃぶ台のような、一人暮らし用のもので、椅子を使う程の高さもないから、宏彦も華穂も床に座布団を敷いて座っている。宏彦は正座で、華穂は横座りで。見たところこの家に――華穂の家に――椅子というものはないらしい。
「急に、明るくなったね」
彼はもう一度同じ事を言った。今度は舌の動きの邪魔にならないようにビー玉を、奥歯と頬の間に挟み込んで。しかし華穂は尚も理解しない様子で、
「何?」
と更に首を傾げた。
「だから、多分その、雲が晴れて、部屋が急に明るくなったな……と……」
彼は、敢えて華穂の目を見て、説明した。
「ああ、そうだった? 気付かなかった」
華穂はちょっと部屋の中を見回して、「そう言えば部屋、暗いよね。もう夕方だし。実は今まで寝てたんだ。電気付けなきゃね」
彼女が身を乗り出して紐に手を伸ばしかけた際、Tシャツの袖口からえぐれ過ぎたような腋がのぞいた。それが夕日を受けて湿っぽく輝くのを宏彦は一秒凝視した。
「いや、いいんじゃない」目眩がする程の息苦しさをかろうじて耐えながら、「まだ電気付ける程暗くないと思うよ」
「……そうかな。でも別に付けてもいいんじゃない?」
「いや、俺、蛍光灯嫌いっていうか……眩し過ぎることになると思うから」
宏彦は自分のことを俺と言った。精一杯、ぞんざいさ、気さくさを心懸けてしゃべった。
「ああ、……そうなんだ。何となく分かるかも、それ」
と口では言いつつ、華穂はやはり不審そうな顔をしている。
「いや、蛍光灯の光浴びたら発狂するとか、そういうことではないよ? もちろん俺も、夜になったら電気つけるし。ただ、今ぐらいの明るさだったら、この方がいいかなと思うだけで……」
「うん。そうだね。まだいいね」
と、華穂が言って、再び会話が途切れた。
が、宏彦は沈黙してはいけない。しゃべり続け、その心性を常に言葉で、示し続けなければならない。宏彦は何か話しをしなければと焦った。焦りつつ、紅茶のカップを手に取り、一すすりした。このカップを華穂も何度か使った筈だ、と思うと何やら言いようのない喜悦を感じたが、まさかここで身を打ち震わせるわけには行かない。……思ったよりも紅茶が熱かったので、急いで飲み込んでしまおうとしたら、ビー玉も一緒に飲みそうになった。
「大丈夫?」
咳き込む彼を見て、華穂が聞き、
「熱かった、アハハ」
と彼は笑って見せた。それからさっきの会話を思い出し、眠っていたところに急に訪ねて来て起こしてしまったことについて謝ると、華穂は、
「ああ、全然。ちょうどよかった。昨日は2時くらいには寝たから、いい加減起きる頃だったし」
「ああ、そうか……」
と言いながら彼は計算し、「14時間くらい寝てたってこと?」
「だから全然気にしなくていいよ」
華穂が14時間眠っていたということに、宏彦は親近感を持った。
「……それよりさ、……」
としかし、華穂は少し首を前へ、つまりは宏彦の方へ付き出した。怪訝そうに彼の口元を見つめ、「さっきから、口の中に何か入れてるの? 飴食べてるの?」
「ああ、うん。……飴、……」
口の中にビー玉を入れているのだから、気付かれて当然だ。宏彦は焦った。飴ならいい加減溶けている筈だ。
これ以上躊躇していることはできない。やるなら、もう、やらなくては……そのためにここへ来たのだ。
やるんだ……
だめで、もともとなんだ。
やるぞ………やるぞ………やるぞ……
「実は――」
「あ、暗くなった。急に暗くなった」
と、屈託のない声で華穂が言って、またしても彼はタイミングを失した。
「え?」
「え? って。日が陰って部屋が暗くなったじゃん」
と華穂は笑った。実際、部屋は暗くなっていた。
「ああ、そういうことか、アハハ……ハ……」
「あ、ごめん。今何か言いかけてた?」
宏彦は再びうつむいた。すると生白く骨張った、まるで生まれ立ての老人のような両手の指が、爪を立てて太股に食い込んでいるのが見えた。たった今極限まで高まった緊張が、行き場を失って彼の腰骨の辺りで帯電しており脇腹を一筋、汗の滴が伝った。額にも汗が点々と浮き出している。その汗の粒が重みに耐え切れなくなって頬を伝うのではないかと彼は恐れた。あるいは、うつむいているので汗が床に落ちる可能性もあった。必死に落ち着こうとして落ち着け落ち着けと念じれば念じるほど心臓は余計な拍を打ち、呼吸は乱れた。腕の力を抜くと、何故か首ががくがくと震えそうになる。深呼吸をしたいのだが、深呼吸というのはあからさまに追い詰められた人間の行為であるから、できない。汗を拭う仕草も、それは汗をかいていることを認めることだから、できない。絶対に緊張を悟られたくないと思えば、せっぱ詰まって余計に焦る……首がもう、機械のように、痙攣の発作を起こした人のように、震える……食い縛った口の中で、ビー玉が歯に当たってかちりと鳴る……
「どうしたの?」
と、肩の辺りに差し伸ばされる華穂の腕から、彼は身をよじって逃れた。その際、膝が机に当たったため、危うく紅茶が零れそうになった。
今もし触れられれば死ぬと思ったのだ。きっとその掌に触れられた瞬間、彼はその柔らかさを思うだろう、その熱を感じるだろう。その掌に微かについている筈の汗の湿り気を感じるだろう……彼を支えようとして彼女が更に近付けば、その身体の匂いを彼は嗅ぐだろう、いや実際は犬でもあるまいしそれ程体臭を持っているとも思われぬ華穂の匂いを彼の嗅覚は感覚できないのに違いない、それでも彼は無理にでも・力づくにも「嗅いだ」と錯覚して、「今俺は華穂さんの肉の匂いを吸い込んだのだ、華穂さんの肉から飛散した微粒子が俺の鼻から肺に届き、肺胞は酸素よりも優先してその粒子を吸収し、全身の血管にその粒子が巡るのだ」という過度の喜悦に心臓は血を逆流して、二秒後には止まるだろう。
「……ごめん」
華穂は何か重大な間違いを犯したとでもいうように素早く手を引っ込め、身体を硬直させた。「ごめん」
二度言った華穂の声は明らかに狼狽しており、しかしそのことは彼を逆に落ち着かせた。下手に平静を装う必要がなくなったからである。
彼は無意識に、額の汗を拭った。しかし汗を拭き取った手の甲を、すぐに華穂から隠すことは忘れなかった。
華穂のことを見ると、突然の拒絶に驚いて、怯えた目をしている。今差し出した左手は胸の高さで、所在なく固まっており……
――もう、やるしかない――
「あの、……」
と彼は華穂の左目を凝視して言った。「あの……手を、……出してもらえますか?」
今彼が華穂に対して行おうとしていることは、傍目に見ればいわゆる「告白」というやつである。
けれども彼は、決してこれは単に「告白」という枠で捉えられるべきものではないと思っている。彼にとって華穂は神なのだ。実際一人ふとんの中で華穂のことを思い、「神だな……華穂さんは……神だな……」と呟いたことも一度や二度ではない。だから彼が華穂に抱いている感情は、世間一般の男が女に惚れて抱く感情とは分けられるべきである、と彼は考えている。もっとも、彼に限らず、このような誇大妄想は、恋愛経験の少ないほとんどの男性が抱くものなのかもしれない。特に初恋だったりすると、どうしても相手の女を世界でたった一人の崇高な人間であると思い込み、彼女に対し自分が抱く感情についても、その他の「恋」と呼ばれるものと分け隔てて考えたくなるものではないだろうか。
とにかく彼にとって華穂は神だった。だから告白というならば信仰告白とでも言う方がよほど彼にはしっくり来た。
だがこれはやはり馬鹿げた誇大妄想だ、と断言せざるを得ない。
華穂という女は、醜くはないまでも他の多くの女性と比べて殊更美しいということはない。ふくらかな頬の下のとがった顎は凛々しいが鼻が低すぎて犬じみても見える。重たげで雛のように厚ぼったく柔らかそうな瞼は愛らしいけれども大き過ぎる瞳のためにやや知性に欠けるように見える。また性格にしても至って普通な、悪いところもあれば良い所もある程度のもので、特別慈悲深いわけではない。確かに、醜い宏彦を邪険には扱わなかったという点で、「やさしい」と言えば言えるのかも知れないが、その程度。一般的な女であって、神や仏と呼ぶにはほど遠い。
もちろん今言及すべきは、一般的に見て華穂がどのようであるのか、ではなくて、宏彦にとって華穂がどのようであるのか、ではあるだろう。
もし宏彦が、彼独自の判断、感性、価値観で、「華穂は自分に取って神である」と言うならば、それについて他人が馬鹿げているだの、ただの思いこみだの言うのは筋ではない。だが、彼の場合断じて、彼独自の判断、感性、価値観によって、華穂を神だと言っているわけではないのだ。独自の判断も糞もない。ただ、思春期以降、初めてまともに言葉を交わした女に発情しているだけなのだ。彼は、華穂としか接したことがない、華穂としかしゃべったことがない。たった一人見付けた女を指して「神だ」と言っているのだから、これが思い込みでなくて何であろう? つまりは女であれば誰でもよかったってことじゃないか。鳥の雛が初めて目に捉えた動くものになつくように、もし彼が華穂よりも先に志穂にほんの少しだけやさしくされれば志穂を神だと言ったのだろうし、千穂にやさしくされれば千穂を神だと言ったに違いない。たまたま華穂だったのだ。
初めて話しをしてくれた女に発情しているだけのくせに、彼女を神だと思い込み、この片思いを、世間一般の恋愛というものよりも数段高等なものであると信じている。
ヒキコモリ。
宏彦は「ヒキコモリ」である。けれども彼は、決して自分は単に「ヒキコモリ」という枠で捉えられるべきものではないと思っている。
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