第8話 新天地

 カールをイギリスに送り出すことになった。

 結局、全てのことをマエストロ側の主導で手配してもらえた。


 カールは私立の寄宿学校に転校する。住まいはイギリス。言葉は英語。言葉に困らないように英語のマンツーマン個人レッスンを、こちらもマエストロの負担で用意してもらえた。

 カールほどの頭角がある演奏家なら当然、語学は当たり前にできないといけない。どこに行っても困らないように。

 現地でもヴァイオリンを学び続けられるように教師を用意してもらえるらしい。

 マエストロから、カールを神童扱いするのはやめるように言われた。ましてやそれをちやほやしてビジネスの当てにしてはいけない。

 カールは本当に、優れた音楽家になれるかもしれない。可能性は潰すべきではない。だからこそ、今を大切に。焦って無理をさせるのは良くない。



 事務所を移籍することにした。マエストロのマネジメントをしているイギリスの音楽会社へ。

 考えた末、ぼくは会社を退職することにした。転職先はカールの移籍先。

 ずっとカールと仕事もプライベートも付きっきりでやってきた。カールがいなくなったらぼくは会社でただの役立たず。

 転職先はぼくの今の会社での経験を、大した経験をしてはいないけれど、買ってくれた…いや、違う。ぼくには経験なんか何もない。実力もない。マエストロの鶴の一声なのだと思う。カールのために。

 ただ、カールはこれからは母国にいた頃のような見せ物的な派手な活動はしなくなるのでぼくの仕事内容はもう、カールのマネージャーではないらしい。

 それでもいい。カールの幸せを願うなら。

 ぼくはいつまでもカールに助けてもらっている。彼を支えているように見せかけて、カールはぼくの人生そのものを支えている。


 イギリスに来て、カールは新しい学校へ、ぼくは新しい職場へ。

 慣れない仕事を英語でしないといけなくなって苦労するたびにカールのことを思った。彼は新しい環境でうまくやっているだろうか。

 こっそりのぞきに行きたくなるくらい心配で、だけど、そんなこともできずただ心の中で心配するだけ。


 寄宿生活から戻って来られる日にはぼくのアパートに連れて行ってひたすら話を聞く。

 聞くと、ぼくが心配したほど彼は悩んでいなくて、言葉の問題もそれほどない、というか、気にしていない様子。

 言葉が違うので勉強に苦労する、と言いながらも楽しそうに友達の話をするその様子に、子どもの適応力はすごいな、と感心。

 環境の良い学校だったようで、良かった。

 それならここに来てよかったのかもしれない。

 母国にいた頃、カールは有名になって同じ年齢の子どもと過ごすことがほとんどなかった。いつも大人を相手に、大人が使うような言葉遣いで話をしていた。

 ここでは彼は、神童ではなくただの人。ヴァイオリンも弾くけれど寄宿生活だから閉じこもってそればかりするわけではなく、他の子と同じようなスケジュールで就寝まで。




 カールはイギリスで充実した学生生活を送りながらヴァイオリンの勉強も続けた。

 そして、作曲に興味を持ったらしく曲も書いている。本を読みスポーツをする。

 マエストロの言いつけ通り、音楽以外のことをたくさん経験してかけがえのない時を重ねている様子。



 こちらでのデビューが決まった。ブルンナーとの共演。

 過去に母国でくだらない記事を書かれた記憶がよみがえる。けれど、結果的にこの国でカールは当時ほど有名ではなく、誰も彼の家族のことなんか興味がない様子。そういったつまらない記事が出ることはなかった。

 向こうの事務所を出て、一度動画チャンネルもその他のSNSもアカウントを削除した。

 ただコンサートプログラムの片隅に「ブルンナーのひ孫である」と小さく書かれただけ。一部の音楽評論家によって、ブルンナーの遺伝子を持った子どもがどの程度なのか、感想を書かれたくらい。

 その書き方も、年齢にしては洗練されている。歌心や情熱がブルンナーの遺伝子を感じる。可能性は未知数。将来に期待、程度のものだった。


 ブルンナーが帰国している時はカールと会って一緒に過ごしてくれる。ぼくも付き添いで一緒にマエストロの自宅へ。

 ぼくには理解できないほどの音楽談義を楽しそうにしている二人の様子は、音楽を差し引けばただひたすら、幼子を愛でる老人、の図でしかない。

 けれど、会うたびにブルンナーはカールを育ててくれている。大切な言葉を伝え、カールの好奇心を満たし、さらなる意欲を育ててくれる。

 ぼくははじめ、ブルンナーのことさえ疑っていた。

 どうせ商業主義の、神童をネタに自分の手柄か何かにしようと企んでいるのでは。カールが有名になったからそれを利用しようとしているのでは。

 なんて、疑心暗鬼もいいところだった。

 ブルンナーはいい意味でカールから音楽を遠ざけ彼に人生そのものを与えてくれた。

 ぼくにはそれをする勇気なんかなかったし、その方法もわからなかった。

 マエストロが現れなかったらぼくはまだあの会社にいて、会社の言いなりで心にしこりを持ったままカールを言われた通りに動かしていたのだろうと思う。

 時が経つほどに、ブルンナーの器の大きさを思い知らされる。ぼくの狭くて小さな懸念が恥ずかしくなる。

 あの神童をヴァイオリンから遠ざけるなんて普通はそんなことをする勇気など出ない。けれど、長い目で見ると、そうなのだ。人生そのものが音楽を作るのだから、そこだけを見ていると大きくなることはできない。



 ぼくらはこの地で何年も過ごすことになる。

 気が付くとあっという間に彼は成長していて、神童、と言うには窮屈なほどの青年になっていた。


 ぼくに甘えてひざに乗ってにっこり笑っていたあの笑顔はもう見られない。

 小さな背中で舞台に歩いていくあの姿。

 出たくない、とくずって泣いていた日。

 おねしょした…と夜中にぼくを起こす申し訳なさそうな声。


 それはもう過去のもの。

 それは全て、ここにはなくて、つかむことができなくなった。

 あの愛らしい小さな天使はいつの間にかぼくの腕をすり抜けて、そこにいるのに姿が見えなくなった。

 もう手に取ることはできないほど遠くにあるむこうの星。いつもずっとそこにあって、それはぼくの手の平にあるものだと思っていた。だけどそれは元々幻だった。

 

 カール。フルサイズのヴァイオリンを抱えて世界を飛び回る。君はどこにいても、ぼくからどんどん遠く離れていく。君の音楽は始まったばかり。

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神童 岸野るか @pflaume1707624

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