第7話 曽祖父と対面

 そこからさらに一年。カールは九歳になった。

 一時の神童ブームは去り、動画や写真の投稿は相変わらず続けているけれど、フォロワーがうなぎ登りだった最初の頃の勢いは収まった様子。

 それでもファンをつなぎとめておかないといけない。将来のことを考えると好きでいてくれる人たちを大切にしておくことは演奏家としてとても重要なこと。

 本人はまだまだ無邪気でそこまで考えてはいないようだけれど。

 コンサートの出演回数もブームピークに比べればかなりこなしやすくはなってきている。

 一つ一つのコンサートに向けてしっかり準備することができるから、演奏家としての素養を高めることができる。

 このくらいがいいかな、とぼくは思っていたけれど、本人にとってはまだ負担なのだろうか。

 最近ますます、ステージの前には不安になってついに「出たくない」と言って泣くようになってしまった。今まであんなに堂々としていたのに、上手くできないのが不安らしい。

 その度に大丈夫、と言って背中を押すのだけれど、これでいいのかな、といつも思う。。

 ぼくから見たら技術的には申し分ない。聴衆もかわいいカールを見たくて来ている人も多いようなので概ね温かい。



 今回もそうだった。もう、何度も弾いている協奏曲。前日家で弾いた時にも完璧だった。その時はいつもの笑顔でご機嫌だったカール。

 リハーサルまでは大丈夫だった。それを終えて後は本番を待つばかり。そんな時、楽屋で不安だと言ってぼくの膝に乗ってくる。

「ドム…」

「うん」

「ぼく、できるかわからない」

「もう、十分できているから、そのまま自然に楽しく弾いたらいいよ」

「こわい…」

「何がこわい?」

「二楽章の歌い方」

「いいよ、カールが思う通りに弾いたらいい。さっきの感じでいいんじゃないかな」

「でも教授はそれじゃあ汚いからだめだって」

「汚くない。音が混ざっちゃう?」

「わからない…」

「そしたら、そこを弾いてみて。聞かせてよ」

「教授は、そんなんじゃお客さんに見せられないって」

「平気だって。もうすぐ本番だよ」

「ドム…」

「うん?」

「全部…。一楽章から三楽章まで…全部…できない気がする…」

「できるよ。いや、できなくてもいい。途中で止まってもいいよ。もしできなくなったら、ぼくが舞台まで迎えに行くから。ぼくがオケを止めてあげるよ」

「ドムにそんなことできるの?」

「できるよ。ぼくに指揮はできないけれど、オケを止めることくらいできる。カール、失敗したっていい。人生はそういうものだから」

「でもぼくは失敗したくない…」

「それはそうだよね」

「あのさ…」

「うん?」

「ぼくが上手くできたら、ドムはうれしい?」

「それはもちろんそうだけど、もし上手くできなくても、カールがぼくの大事な甥っ子であることに変わりはない」

 どうしたら彼の不安を止められるのだろう。きつく抱きしめて「大丈夫」と耳元で囁く。どうしてほしい? 何をしてあげられる?

 今日はもういいよ。出なくていい。少し休もう。キャンセルしようか。

 耳に優しい言葉を考えながら、だけどどれも現実的に叶えてあげることは…。そう考えていると本人がぼくから身を離して言う。

「そしたら…行ってくる」

「ずっと、舞台袖の一番舞台寄りで見てるからね」


 舞台に立つとさっきまでの不安顔は消えて、しっかりオーケストラの音を聞きながら自分の音を作っている。それを見ていると何とも複雑な気分になる。あんなにできるのに。もっと自信を持ってくれたらいいのだけれど。


 楽しく自信を持って。

 それだけで、悩まずに進んでいけたらいいのに。


 カールの将来をどうしたらいいのだろうとずっと思っている。ぼくが考えても仕方がないことなのだけれど。


 会社はいよいよ、ブルンナーのひ孫であることを前面に出して彼を売り出そうかと考えているらしい。まだ若干九歳。会社としてもブルンナーとのパイプができるのはありがたい。何としてでもそれを使わない手はないと思っているのだろう。だけど…。


 会社はブルンナーとの面会を取り付けてきた。

 ブルンナーは高齢とはいえ、いまだに世界中を飛び回っている。向こうが指定した日にちにカナダへ行けるか、と聞かれた。

 どうせいつものように、断る選択肢などないのだろう。会社の言う通りにするしかない。


 指定された日にちに会社の用意した航空券を持ってカールとぼく、そしてぼくの上司も一緒にカナダへ向かう。


 ブルンナーとの面会。世界的大指揮者。上司もぼくもものすごく緊張していた。こんなの、兄がいたら卒倒しているだろう。

 カールはそうでもないようだった。もちろんブルンナーのことは知っている。ただ彼は誰に会っても同じ調子だし、マエストロのことを自分の曽祖父だと思っているから、親戚に会いに来た、程度に考えている。


 呼ばれたホテルの部屋へ行く。ブルンナーの二人の秘書がいて、その一人に上司は連れて行かれた。カールとぼくはブルンナーの前へ。

 緊張の瞬間。ブルンナー本人がぼくの眼の前にいるって?

 これは、現実ではない、よね?


「やあ、君がカールだね?」

「はい。マエストロ。はじめまして」

「ああ、いい子だね。そして君が、ドミニク」

「はい。ドミニク・ヴァインガントです。今日はお会いできて光栄です」

「じゃあ、話をしようか」

「……」

「二人ともそこに座って。カール。我々の関係を聞いたかい?」

「はい。マエストロはぼくのおじいちゃんなんですよね」

「ははは。そうだね。なんてかわいらしいんだろう。カールはいくつなの?」

「九歳です」

「ヴァイオリンはいつから始めた?」

「三歳の時からやってます」

「ちょっと見せてくれる?」

 カールは持ってきたヴァイオリンをケースから出してマエストロの前で構える。

 この人は今まで一体何人のソリストを見てきたのだろう。

 今までのどんな舞台よりもぼくは緊張していた。こんな、大指揮者の前で演奏するなんて。誰よりも音楽のことを知っている人。いくら神童と持て囃されたとしても、その辺の聴衆とは違う。頂点にいる人なのだ。どんなまやかしも見抜くだろう。カールの演奏は…。


 カールはいつも通りの演奏をした。

 マエストロは笑顔。

「いやあ、上手いねえ。毎日どれくらい練習するの?」

「学校が終わってからずっとです」

「そしたら、遊ぶ時間がないね?」

「ないです」

「そりゃ良くないよ。もっと遊ばなきゃ」

「ぼくもそう思います」

 二人の会話を黙って見ていると冷や汗が…。

「ええと、ドミニク君」

「は、はい…」

「カールに遊ぶ時間を与えてやってくれるかな?」

「は、はい…」

「今、この子はどうなってるのかな?」

「どう、とおっしゃいますと?」

「カール。こっちにおいで」

 マエストロはカールを抱き寄せる。

「かわいいなあ。こんなにかわいいのに、遊ぶ時間がないなんてかわいそうだと思わない?」

「はい…」

「子どもはさ、遊ぶべきだよ。ね、カール?」

「はい」

「手を怪我したら良くないから遊んだらだめだと言われたことがある?」

「あります。会社の人にいつも言われているし、ドムも言います。パパも。ママも」

「でもねカール。怪我したっていいよ。ちょっとの怪我なら治るから。たくさん遊んだほうがいいと思うよ」

「はい。ぼくもそう思います。そうですよね、マエストロ。ぼくはずっとそう思っていました」

「カールは素直なんだな。そしたら君は大丈夫。さあ、もう一曲聴かせてもらおうか。君の一番好きな曲は?」

「じゃあ、この曲です」

 自然な感じで演奏するカール。信じられない。ブルンナーの前でヴァイオリンを披露している。ブルンナーがカールの演奏を聴いている。

「上手だったね。ちょっと休憩して。向こうでお菓子をもらっておいで。ちょっとドミニク君と二人で話すからね」

 カールは秘書に連れられ他の部屋へ行った。


 ぼくはマエストロと二人で向かい合って、彼が何を言うのか構えて待っている。

「ドミニク君。君はカールの叔父、ということになっているんだったね?」

「はい…。そういうことになってはいますが、実際はただの他人です。ご依頼された遺伝子検査の結果、ぼくの兄はカールの父ではありませんでした。マエストロのお孫さんこそが、カールの父親でしたので…。ぼくは、ただの…他人なんです…」

「私の孫のせいで苦労をかけて申し訳ないね」

「いえ…」

「それで、君の兄というのは」

「兄は精神を病んで入院しています…」

「演奏家だったね?」

「そう自称するのも憚られるくらいのものです」

「でも、カールがヴァイオリンを弾くきっかけを作ったのは、そのお兄さんなんだね?」

「そうです」

「そうか」

「マエストロ…」

「君は、何か楽器を?」

「すみません…。ぼくは…子どもの頃に教わったヴァイオリンを、続かずに数年で諦めていまして…」

「そうか。それで、今はカールのマネージャー?」

「はい。自分には音楽的な能力は何も…。ですので、今のこの仕事は、私には無理な役回りなのかもしれません。わかってはいるのですが」

「そんなことないのでは。彼が君を見る時の表情。君にしかできない仕事だよ」

「……」

「ひとまずわかったよ」

「ええと…おわかりになったのは、何を…」

「カールは君がいいんだな」

「と、言いますと?」

「あいにく、孫はまだまだ修行中でね。その上、家庭を持っているんだよ」

「ああ…そういうことですか…。いえ、その…こちらも、カールのことを引き取ってほしいとは考えていなくて…」

「君の人生は?」

「はい?」

「君は、その音楽事務所に勤めながらカールの面倒を見ている。そうだね?」

「そうです」

「その生活はどうかね?」

「それはもう…。ぼくの仕事は…彼の全てのことなので…。仕事も収入も…。あの、すみません…。ぼくらは毎日楽しく過ごしています。ぼくは…彼を…許されるのなら…まだ面倒を見させていただけないでしょうか…。ぼくは…彼のことがかわいくて大事で、離れるなんて考えられないんです。たとえもう、親戚ではないとしても」

「彼のいろんなことを見たよ。神童だって。だけど、神童なんか、大人になったら埋もれてしまうよ」

「……」

「さっきの彼の演奏。すごく良かった。それを潰したくはないね。だけど、彼がこのまま育つとどうなると思う?」


 ブルンナーからの提案。

 今の環境で、神童という存在で居続けるのはカールにとって良くないのではないか。そして、カールと同居して面倒を見続けているぼくの負担も相当なもの。だから。

 ブルンナーの住まいがあって拠点にしているイギリスに来ないか。カールをその地の寄宿学校に通わせてはどうか。

 ヴァイオリンはまあ、今よりペースを落としても構わないだろう。

 元々十分な歌心を持っている。それを潰さないことの方が大切で、見たところカールは、音楽を携えつつ、他にも興味があることを見つけるとさらに良くなるように思う。

 大切なのは年齢相応の経験をすること。音楽以外のかけがえのない時間を重ねることのほうがあの年齢の子には大切だ。

 とのこと。

 そしてぼくも。

 カールのそばにいたらいい。イギリスに来てみる気はないか。仕事も用意する。

 マエストロは優しくそう言った。


 即答はできない提案だった。何もかもが変わりすぎる。

 ただ、ブルンナーの提案を考えてみると、それはとても合理的だし良いものに思えた。

 確かにそうなのだ。ここにいると神童だと持て囃されるだけで、有名であることの苦痛がある。外国に行けば環境は変わるしカールのことを知っている人は少ないだろう。それに、寄宿学校ならぼくも自分の人生に余裕ができる気もする。そもそもぼくはカールの何でもない。

 会社はカールを使って稼ぐつもりでいるから、ヴァイオリンはペースを落として、なんて話は断るように、と言うに違いない。

 ぼくは正直にそのことをマエストロに相談した。マエストロは、事務所のことは何とかするから心配するな、と言う。それよりも、カールの大切な人生のことを考えよう。そう言った。

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