第6話 カールの遺伝子
カールの母親が現れた。ある日突然、ぼくらの家の前で待ち伏せしていた。何事かと思ったし、何となく気持ち悪かった。カールを連れ去られると思って怖かった。
でも、彼女にそういうつもりはないみたいだった。カールも母親に会えた喜びを表しつつ困惑してもいる。
カールにまた会えてうれしい。ミアはそう言いつつも、何となくカールを遠ざけながらぼくに言う。
カールはどれくらい稼いでいるのか。自分はそれを管理する権利があるのかどうか。
ものすごく気分が悪かった。子どもの前でそんな話はできない。
それならミアはカールをどうするつもりなのか。
今日は話せない。後日会社で他の者を交えて、とこちらから提案。
後日彼女は会社にやって来てぼくの上司とさらにその上司が事情を確認した。
すると、例の歌手と駆け落ちしたはずだったカールの母親はつい最近、その歌手とは破局して一人になった。カールが神童だと持て囃されていることを目にして戻ってきた。ぼくが電話しても出なかったのに、金銭的な目的でコンタクトを取ろうとしてくる…。
ただ、彼女の生き方を見ていて、カールを彼女に返して良いのだろうか、という気がして、ここでもまた、ぼくの嫌な予感。心の中に冷たいものが重くどろりとかたまって大きくなっていく。
カールの母親と話をした上司とその上司によると、ミアは正式に兄と離婚するように動いているらしい。カールのことを育てたいと言うよりはとにかくお金。
でも。カールとミアは親子で、母と息子を会社やぼくの意思で引き離すわけにもいかない。カールはどうしたいのか。
カール本人に聞くと、まず不安な顔をして、それから答えられずに泣き出した。
それはそうだ。こんなこと、子どもに聞くこと自体があまりにも酷。
カールは言う。ぼくと離れたくはない。けれど、母親とも会いたい。何かを選ばないといけないなんて、そんなの決められない。
カールは言う。モーツァルトとベートーヴェン、どちらかしか選べないのだとしたらどうする? そんなの選べないでしょ? と、そんな例えを出されても…。確かにそれは、選べないだろうけれど…。
だから。会社からミアに少なくはない手切れ金を渡す。彼女がいることによってカールの活動の邪魔になるかもしれない。そうすると金銭的なことはもう期待できない。
だから。とにかくカールは今が大事な時期なので、その辺の事情を理解してほしい。今回、まとめたものを渡すから。受領証と、カールの活動の支障にならないことを約束する書面にサインを。
カールには、母親にはまた会える。ただ、毎日会えるわけではない。向こうにも事情があるから、しばらくしたら。それまでカールは自分の仕事をがんばるように。
会社から本人へはそのように話をしておく。
ミアはどのくらいの頻度でこちらにコンタクトを取ってくるのだろうか。そう思ったけれど、その後彼女から連絡が来ることはなかった。
別の恋人ができたのかもしれない。
何だか世の中のことがものすごく嫌になった。あらゆることが。
そもそも兄。そもそもぼくの親。ミア。会社。難曲を弾くカールを見て何も知らずにただ喜んでいる聴衆。この状況を変えることができない自分自身。
ぼくは生活の自由を奪われ、カールに養ってもらっている。
ぼくに仕事があるのはカールがいるから。
それなのにいつも頭の片隅に、カールはもしかして、ヴァイオリンと出合わないほうが幸せだったのでは、という思い。
考え出すと現実のしがらみに身動きが取れない苦しさを改めて思い知ってつらくなる。
そんな思いを抱えて過ごしている日々にもう一件、悩ましい話が舞い込む。
以前にちらっと噂のあったカールの父親かもしれない人の祖父。ぼくらが名前を聞くとのけぞるような、有名な指揮者がカールの遺伝子検査をさせてくれないか、と言っているらしい。
どうしてこういう家族にまつわる話を会社から聞かされるのだろう。
どちらに転んでも、どうなる?
どうするか、と聞かれた。遺伝子がどうなっているのか調べるか、調べないか。
そんなこと…どうするって…
結局、検査することになる。
その結果、驚くべきことにカールはその指揮者のひ孫だった。だからこそ、天賦の才能を持っていたのだ。そもそもマンフレートの子どもではなかった。
その結果を聞いて、なんとも言えない気持ちになった。ぼくは彼の、何でもないのか。他人。友人?
だけどとにかく、それならば。良かったのかもしれない。カールはそういう運命を持って生まれてきた。大指揮者、ブルンナーのひ孫。全く驚くばかり。
それなら、カールの父親はどこにいるのか。遺伝子検査の結果を聞かされたからそう言うと、今は指揮者になるための修行中だから教えられない、と言われる。どういうことだ。遺伝子検査をしたいと言ってきたのは向こうなのに。
ぼくがそう言うと、遺伝子検査をしたかったのはカールの父親ではない、となだめられる。
その指揮者がカールに対しての責任を取りたいと申し出ているらしい。責任をとるってなんだ。
具体的には、カールを音楽家として育てたい。そういうこと。
結局みんな、カールがこうして有名になって、能力があるから声をかけてきているだけ。
なんだかもう、世の中全てが信じられなくて、嫌になってきていて。
会社は完全にこれを利用しようとしている。ブルンナーのひ孫。早くもそれで売ろうとしている。
ちょっと待てよ、と思う。ブルンナーのひ孫であることが事実なのはわかった。ただ、それを前面に押し出してカールのプロデュースをするのだとすると…またどうしてもカールの親がどういう人間なのかがまた突かれるようになるのでは。それはきっと本人も望まないだろうし、ぼくも望まない。本人によくないことはするべきではない。子どもなんだから。まだ、こんなに小さな子どもなのに。
そして彼はその生い立ちを一生背負って生きていくのだから。
ぼくの心の中にいつも過ぎる冷たくどろりとした塊がまた浮かび上がる。
だけど、事実を本人に話すことにした。
ヴァイオリンを持たなければカールはただの無邪気な子ども。ぼくにべたべた甘えてくる。
いつものようにぼくのひざに乗ってきたカールを抱きしめて言う。
「カール。ブルンナーという指揮者を知っているかな?」
「知ってるよ。ぼくはまだ共演したことないけどね」
「そりゃそうだろ。ブルンナーと共演できたら君は本物だよ」
「ラインフルト管でしょ? そのブルンナーがどうしたの?」
「あのさ。その、ブルンナーは、カールの親戚かもしれない」
「えー!? 本当?」
すごくうれしそう。さすが、この世界を知っている子どもだな。それはそう。それはそうだ。ブルンナーが自分の曽祖父だったら。ぼくだって喜ぶだろう。
「ねえドム。そしたらぼくはブルンナーと共演できるの? ラインフルト管弦楽団と」
「いや、まだそんな話にはなっていないけれど」
「ねえ、そしたら、ブルンナーはドムとも親戚ってことでしょ?」
「いや、それがね…」
困った…。君とぼくは、実は関係がなかった、と…言っていいのだろうか…。
「ねえ、ドム?」
「うん?」
「ブルンナーに会える?」
「ああ…いつか、会えるかな…」
「それで、共演できる?」
「できる、かな…。共演したい?」
「したい! でも、ブルンナーって、優しい?」
「どうかな。ぼくも会ったことないからわからないよ」
とりあえず、ブルンナーが親戚だ、ということは伝えられた。今日のところはそのくらいにしておこう。
君の父親は、実は父親ではなかった、なんて話せない。
君の母親は、手切れ金をもらって去って行った、なんてこんな無垢な笑顔を見せる子には言えない…。
ブルンナーと血縁があることを知ったカールはその時こそ喜んだけれど、成長に伴うものなのか、次第に詰め込まれたスケジュールをこなすことを嫌がるようになってきた。
コンサートの内容によって用意する曲目も変わってくるし、まだ子どもだからベースとなる音楽教育も必要。
そもそも楽器を学ぶ人間は元々一日中部屋にこもって練習するもので、ステージに立つ機会も増えてきて、神童フィーバーもまだ冷めないので取材も多い。
その上会社命令で動画や写真のアップロードも休むことなく続けないといけない。
ぼくも自分が毎日何をしているのかわからなくなっている。
そんな日々を続けながら、気が付くと一年。
カールはよくがんばってきたし、一年前に比べると格段に上達した。技術的なものもそうだし、成長した分、抑えて弾く、そういう一段上の表現ができるようになっていて、まだまだ見た目は幼いけれど、中身はかなり成長したのかな、と。
おそらくそういう、精神的な成長に伴うものだと思う。
今までは不安を口にすることもなく、堂々と舞台の中央に歩いて行ったカールが、本番のことを不安がるようになってきた。今までは気にならなかったことを気にする。
本番がうまくいかなかったらどうしよう。オケとの相性が悪かったら? 指揮者につらく当たられたら?
会社に用意してもらっているカールのヴァイオリン教師もカールの特性を理解し伸ばすように、より精密なレッスンをするようになっている。カールは周りの期待に応えようとがんばっている。
今までは感じていなかった重圧を感じるようになったのはまさに、精神的な成長なのだと思う。
それで彼が緊張したり悩んだりしているところを見ると、ぼくは心が痛んだ。
それさえなければカールは本当に、どこからどう見ても無垢な子どもなのに。
そう…。ただの子どもなのに。何だかいろいろ過酷ではないか。
多分、そんないろんな負担が形になっているのだと思う。時々不意打ちで起こる粗相はなかなか良くならない。
コンサート前、楽屋で練習している時。
楽屋に二人でいて、ぼくはパソコンを広げて明日の仕事の確認をしていた。
カールは譜面台の楽譜を見つめている。
「あっ…」
と彼が言う声が聞こえた。ふと見ると、水音と濡れていく服が目に入って、ぼくも「ああ…」と思う。
これが本番中に起こらなかったのだから、良かったことにしよう。
ぴちゃぴちゃと水音が続いて、服を着たままおしっこをしてしまっている。
「カール…」
「……」
「間に合わなかった?」
「うん…」
「大丈夫?」
「……」
「大丈夫。ええと…もう、衣装に着替える? それとも…」
しくしく泣き出したカールを、どうやって慰めたらいいのかな…。
「一度楽器は置いておこう。衣装を着るのはもう少し後? どうしようか?」
「うん…」
「そしたら、ちょっと待っていて」
体をきれいにできるような道具を準備して、掃除道具をこっそり持ってきて、着替えを出して…。
こういうことが起こらないようにしてあげたいけれど、どうにもできない。
「ここを掃除するから、そっち側で着替えていてくれる?」
「うん…。ごめんなさい…」
「いいよ、大丈夫。緊張してる?」
「うん…」
「大丈夫。心配しなくていいからね。ちゃんとできるから」
「ドム…」
「うん?」
「ぎゅってしてくれる?」
「ああ、こうかな?」
カールを抱きしめる。子どもの頭皮の匂い。大丈夫、何も心配いらないんだから。
「ドム。それで、もう一回大丈夫って言って」
「大丈夫」
本番前にこんなことがあって、ぼくは内心、カールが動揺して本番でとんでもないミスをしてますます落ち込む、みたいな負のループにはまり込まないか心配していた。
けれど、本番は直前でそんなことがあったなんて誰にも思わせないような凛々しい演奏だった。
始まってしまえば、カールは本当に本番に強い。
プログラムを最後までこなして、アンコールまで披露して、神童は聴衆を喜ばせていた。
舞台翌日は失敗しがちで、正装で光の中、拍手を浴びていた姿とは対照的に、パジャマを濡らす。今回も。
「ドム…」
「うん…」
「ドム…。起きてくれる?」
「どうした?」
「あのね…」
「うん?」
「あの、おねしょ…。ごめんなさい…」
「ああ…漏らしちゃった? そっか…」
「ドム…」
「うん?」
「ほんとに…ごめんね…」
「いや、大丈夫。今手伝うから」
カールはぼくに抱きついてくる。不憫だな…。親もいなくて、ぼくも実は他人で。でも頼る人もいなくて。金銭的には、十分自分の分を稼げているのに。
逆にぼくなんか、彼にぶら下がっているだけ…。
「カール。大丈夫だから、着替えよっか」
「うん…」
体を軽く拭いて着替えさせてベッドの応急処置。
舞台ではあんなに凛々しく、気持ち悪いほどの超絶技巧を披露して大人みたいな様子なのに。びしょびしょにしたパジャマやシーツの対処をしながら微妙に感じている言葉にならない違和感に目をつぶる。ぼくしか見ない彼の失敗。
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