第5話 体調不良野コンチェルト
たまにオーケストラとの共演の話が入るようになった。
これは本人の経験にとっても、すごく良いことだし、何よりも本人が楽しんでそれを望んでいるのだからありがたいこと。
気が付けばぼくはカールのマネージャーで、何もかもカールと一緒だった。
毎朝一緒に学校へ行く。彼の学校が終わるころに会社の車で学校まで迎えに行って自分の会社に連れてくる。そこからはまた別行動だけれど、カールは会社内に用意した場所でヴァイオリンの練習をする。または学業に励む。ぼくはその間カールのスケジュールが滞りなく消化されるようあらゆる事務手続きや調整を行う。
そして、一緒に帰って二人の生活をする。
日常も仕事もカールとずっと一緒。
だけど彼は、実は兄の遺伝子を受け継いではいないのかもしれない。だからつまり、ただの他人なのかも。
そんなことを思うとどうしたらいいのかわからなくなるのだけれど、そういうことが思い浮かぶたびに、そんなことは考えないようにしようとして、でもなかなかそれができずに混乱する。
他人だろうが何だろうが、カールには愛嬌があってぼくに懐いている。ぼくに向かってにっこり笑うあの顔を見ると、もう離れられない。
ぼくはカールの将来を、彼の幸せな未来を望んでいる。どうにかして、幸せな大人になってほしいと思っている。言うほど、人のことを考えているほどぼくに余裕があるわけではないけれど。
会社はカールで結構稼げるようになってきたことでさらにその勢いを増していこうとする。カールはますます上達している。さらに有名になって、出かけるたびに声をかけられる。動画も好調。インスタのフォロワー数も増えている。
ファンレターをもらう。プレゼントが会社に届く。自宅が知られているらしく、危なっかしくて一人では外に出せない。
有名なことがいいことなのかどうか、ぼくにはよくわからないのだけど、彼が将来につながる演奏家になるためには必要なことなのかもしれない。
そんな時、会社から話があった。
もしかしたらカールの父親は有名な指揮者の孫かもしれない。
そんなわけないだろう。ぼくは冗談を言われているのだと思ってそう返事をした。
だけど、それは冗談ではなく、可能性がある、程度の話だけれど、事実かもしれない。とのこと。
カールの母親が通っていた音大は実力者が集う優秀な大学で、多くの音楽能力に優れた学生が通っていた。その中に、その指揮者の孫がいたらしい。カールの母親がその孫と関係を持った。
どうしてそんなことがわかるのかはよくわからない。そんなことがあるのだろうか。ただ、カールの才能から考えると、そういう遺伝情報を持った人が親である可能性は十分にある。
例の記事が出てからカールの母親の身辺を探った人物がいる。当時のことを知っていて、それを話した人がいる。ただの憶測かもしれない。でも、完全にないことではない。
でもそうなら? そうだったら、どうなるのだろう。
その父親に彼を引き渡すのか。それよりも母親を探したほうがいいような気がするけれど、ああいう形で男と消えていった母親が出てきたところでカールのあふれる才能を伸ばすことなどできないのだろうし。
また、この疑問が浮かぶのだけれど…天賦の才能を持ったカールは、早くも演奏家への道を着々と進んでいるように見える。
ソリストになる人というのは大抵、こんなふうに子どもの頃からその頭角を現しているもので、徐々に成長しながら音楽を探求し、その道を行くものなのだ。
今まさに、その道を進み始めたカールにとって、どんな環境がいいのだろう。
だけど、そうではなくて。
この道にいて、これしか知らないで、カールはそれで幸せなのだろうか。
有名になって、神童だとちやほやされて一生を音楽に捧げる。
彼はこの世界しか見たことがない。もし、他にもたくさんの世界があって、まったく違う世界に行けるのだとしたら…。
もちろん本人が何を望むのかによる。
だけど、会社の全面サポート、とんとん拍子に進んでいく彼のキャリア。多くのことが順調に進んでいくたびに、ぼくの心は寒くなる。
彼の世界を広げてあげたいと思いながら、ぼくは何もできない。
他の、こちらではなかった場合の道を考えておいても、考えるだけなら、悪くないのではないだろうか。彼は、音楽以外のことも知っておくべきなのではないだろうか。
でも、彼の才能を思うとこの好環境を手放すわけにはいかない。そうすると、結局、音楽漬けの生活をするしかなくて、さらに上達を目指さないといけない。
そのうち、人気はピークを迎えたらしく、毎日何かしらの取材か演奏会の予定が入っている。
テレビ局に行く。ニュースの中継で演奏する。
はじめのうちはテンション高く楽しんでいたカールもここにきて疲れが出始めてきている。
たまには休みたい。よくその台詞を聞くようになってぼくは心配になってきている。けれど、このカールに向けられている神童への注目を止めることができない。
疲れが見えているので、良くないと思いながらも学校を休ませてしまったり。練習がおろそかになったり。
いろんなことの体裁がある。カメラの前では機嫌のいいかわいい子どもでいてもらわないと困る。取材には笑顔で答えてもらわないと先の仕事に影響が出てしまうかもしれない。
何を一番にすればいいのかよくわからなくなってきた。
本業は演奏活動なのだろう。それならば、楽器の修練をしていい演奏を聴衆に届けることに集中的に尽力するべき。
だけど、その仕事をするためにはどうしても神童で話題と知名度を引き付けておかないと集客につながらない。
神童とはいっても所詮は子どもの演奏。本当に音楽がわかる人が、もし同じ日に巨匠と言われるような演奏家とカールの演奏会があるとしたらどちらを選ぶのか。答えは明確。
お客様に来ていただくために、演奏を聴いていただくためにはどうしても、ああいった軽めの仕事で彼の存在を知ってもらう必要があって…。
でも、それも楽しんでいられるうちは良かったけれど、負担になってきているみたいだし…。
翌日にコンサート出演を控えた日、いつものように会社に連れてきて明日のための練習をさせようとすると、やけに機嫌が悪くてめずらしく練習することを拒否している様子。
日々の練習を見ている先生が困ってぼくのところへ相談に来る。
様子を見に行くと機嫌を損ねて部屋の隅でぐずぐず泣いている。
「カール。どうした? 今日は練習したくない?」
「しない…」
「どうした? 疲れちゃった?」
「もうやだ…」
「わかったよ」
カールの頬を触ると、熱い…。
「カール…。風邪ひいた?」
「……」
「熱いよ。熱があるみたい」
彼の心配より、まず明日のコンサートのことを考えてしまった。
神童が目玉のコンサートなのに、カールが出られなくなったら…。代替要員なんかいない…。
急いで上司に報告に行くと、ぼくが怒られた。カールの健康管理もぼくの仕事のうちだろう、と。
そんなこと言われたって…。誰だってたまには熱くらい出すだろう…。
すぐに病院へ連れて行って熱を冷ませ、と言われた。そんなの…。
でも、言われた通りに病院へ連れて行って医師に診せる。
「まあ、風邪でしょうね」
「あの…この子、明日は大切な舞台の本番でして…。どうにか、明日は大丈夫でしょうか?」
「お父さん、本気?」
「ぼくはお父さんではないんですけど…」
「見たところ大したことはないです。熱があるだけ。でも、休ませたほうがいい。これを見たらわかるでしょう」
「そこを何とか」
「舞台って何? この子、子役なの?」
「演奏です。ヴァイオリンを弾くんですけど…。ほんの三十分程度。それだけですから」
「解熱剤は出しておきます」
どうしようか…。薬をもらってカールを抱えて帰宅する。すぐさまベッドに寝かせて、ぼくは悩んでいた。今までしょっちゅう過っていた嫌な予感が一つ、形になってしまったような…。
「カール。何か食べたい?」
「いらない…」
「水分は摂ってくれる?」
「うん」
「カール…。明日…。どうしようか…」
「ドム、困ってる?」
「うん…。正直なところね」
「そしたらぼく、ドムのために出てあげるよ」
「いや…。どうしよう…。ごめん…。本当に…」
「熱出てごめんね」
「いや、ごめん…。なんて言ったら良いのかな…。カール…。ぼくは君に無理なんかさせたくないのだけど…」
「ぼく、弾けるよ」
翌日もまだ調子は悪そうで、とにかく水分を摂らせて温めて眠らせておく。
昨日カールは、ぼくのために今日のコンサートに出てくれる、と言った。その時ぼくは正直なところほっとした。
これはぼくの仕事でもあって…。でも、自分の本当の気持ちではもう、こんなことはやめさせたい…。
子どもなんだから、こういう時くらい休ませたほうがいい。大人だって通常、体調が悪ければ休むのだから。
だけど、代わりのいないこういうことだと…。
仕方なくカールを連れて今日のコンサート会場に向かう。すぐに楽屋に入り、とにかく温めながら休ませる。大丈夫だろうか…。これからリハーサルだってしないといけない。
静かにしてほしいのに次々といろんな人が挨拶や説明にやって来てカールは全然休めない。
今日の指揮者がやって来たので具合が悪いのだ、と説明をすると、それは大変だ、と言う。けれど、今日は休んで、出なくて良い、とは言わなかった。
解熱剤を飲んでいるのでどうにか…。リハーサルをする、と言われて舞台へ。
リハーサルが始まってヴァイオリンを構えた瞬間また、怖い、と思った。カールから病の気配が消えて、子どもらしさも消えて、その音には体調不良なんて一切感じさせないしっかりした芯が感じられたから。
神童…。
この状況であの演奏ができるのは日々の練習の賜物かもしれない。そして本人の持っている集中力。意志の強さもあるのだろうか。
客席から彼のリハーサル風景を見てぼくは罪悪感に苛まれ、彼の健気さに胸を打たれて涙を拭う。
リハーサルを終えてヴァイオリンから離れると、風邪だからなのか、カールはぐずぐず、やたらとぼくに甘えてくる。何年もさかのぼってしまったくらいに幼い振る舞いをして、抱っこして、いい子って言って、とぼくにべたべたしてくる。
でも、具合が良くないのが不憫で、甘えてくるのもかわいくて、それでぼくも、全てを彼の望み通りにする。
カールを抱っこして彼の栗色の髪を撫でていたら、もう、言いようもなくこの子がいとおしくて…。
「カール。リハーサル、がんばったね」
「がんばったよ。明日、アイスクリーム買ってくれる?」
「買う買う。二個でも三個でも」
「そしたら、本番も見てて。がんばるから」
「うん。でもとりあえず、今はちょっと休んだほうがいい」
本番、カールは見事に、いつも以上に立派に力強く弾ききった。できる子なんだな、と思う。ぼくなんかとは人間的な質が違うんだろうな。
舞台に出ていく小さな背中を見て、ぼくは、カール、もうがんばらなくていいよ、と心の中でずっと思っていた。
体調不良の子どもをこんなふうに扱うなんて、ぼくには耐えられない。
舞台袖から見る光の中のカールは凛々しくて、眩しくて子どもだと思えない。演奏に明らかな体調不良は感じられなかった。音が多少ずれているところが無きにしもあらずだったけれど、それは誰にだってあるし、普段だってあること。
演奏を終えて拍手の中にできた帰り道、一直線にぼくのところに戻ってくるカール。
舞台袖で迎えると、ぼくを見た途端に泣き出す。
「どうした? 具合悪い?」
「ぼく、がんばったでしょ?」
「がんばったよ。ありえないくらいがんばったし、ものすごく良く弾けていたよ」
こんなに小さいのに相当気を張ってがんばってくれたのだろう。その健気さに触れてぼくも目頭が熱くなる。
「ドム…」
「うん?」
「ドム、ごめんね…」
「何が? よくがんばったよ」
「違うの…。あのね…」
「うん。どうした?」
「ごめんなさい…。あの…おしっこ…」
「え?」
ぼくは彼を抱きしめていたから気が付かなかった。彼の足元を見ると薄い色の水溜りが…。
そういえば…。風邪にばかり気を取られて演奏前、トイレに連れて行くのを忘れていた。そうだった…。これはぼくのミスだ…。
「あ…そうか…。いや、大丈夫。ここまで我慢してきてえらかったよね。舞台でそうならなかったのだからもう、百点だよ。演奏もちゃんとできていたし。ごめんね、カール…。ぼくがトイレに行って、と言うのを忘れていたからいけなかった。ぼくのせいだよ」
そこへ、聴衆の拍手が鳴り止まないからもう一度挨拶に行くように指示入る。良ければアンコールを弾いて来て、とのこと。
体調が良くないから、今日はそういったリクエストは断りたい、とやんわり伝えてみるけれど、ほんの少しでいいから、と押し切られる。けれど、これ。服が濡れているから…。
もう隠しようもないから、粗相が起こってしまったのだ、と伝えるも、見た目では何もわからないから、いいからとにかく早く行け、と多少は優しめの言葉だったけれど、有無を言わさず押される。
「だから」
ぼくが声に怒りを滲ませるとカールが言う。
「ドム。ぼく、行ってくる」
ぼくの返事を聞かず、彼は濡れた服のままヴァイオリンを手に再び舞台へ早足で出て行った。
その、小さな後ろ姿を見てぼくは泣いた。そして思う。もう、こんなことはやめるべきだ。ヴァイオリンなんかやめさせよう。彼に悪影響だ。
彼はささやかな小作品をアンコールに演奏して聴衆を喜ばせていた。
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