第4話 デビュー

 とんとん拍子にデビューが決まった。オーケストラとの共演。楽器を学ぶ人なら一度は夢見る舞台。

 このチャンスが訪れたのはおそらく有名になったから。会社のサポートがあったから。

 ある子どもが他の同じ年齢の子にはできない難しい曲を演奏するのは確かにめずらしいだろう。

 だけど、ぼくはまたここで少し不安になった。ただの見世物になってしまうのでは…。カールが、次第にぼくの手の届かない人物になっていくのでは。


 ぼくの今の仕事は彼のマネージャー。

 彼を売って上達させて、将来も大物演奏家として…。


 だけど…。


 カールはそれで大丈夫なのだろうか。

 演奏している時の姿はまさに神童。選ばれし者。

 だけど、素顔はただの、ごく普通の子どもで、時にはぐずって、機嫌を損ねて大人を困らせる。

 あんな超絶技巧の難曲を大人みたいな顔をして弾いているのに、弾き終わった瞬間、おもらしをする。

 夜中には不安そうな声でおねしょしちゃった…とぼくのところに来るようなただの子どもなのに。

 野菜は食べないし暗いところが怖い。ぬいぐるみと一緒に寝てる。寂しくなるとぼくの寝床にやって来る。ゲームが思い通りに進められないとそんなことで機嫌を損ねて泣く。ただの子ども。

 それなのに、そんな大舞台を彼は背負えるのだろうか。

 あの歳で、あの小さなヴァイオリンでソリスト? 

 

 だけど本人は余裕綽々。そんな心配をするのはぼくだけのよう。


 そんなぼくの心配をよそに、本人はデビューを喜び心待ちにしてオーケストラとの共演は夢だった、と楽しそうに話す。

 本人がいいのならそれでいいのだけれど。



 レッスンはデビューに向けたものになり、本人も会社も教師も、全員がそちらを向いていた頃、有名になったからだろうか。彼の家庭環境についてのつまらない記事が雑誌に載っている、と会社から聞かされた。

 カールの両親のこと。どこで調べたのか、兄の入院している病院や病気について。カールの母親の恋愛遍歴。数文字でまとめられていたけれど、ぼくのことも書いてある。

 記事のどこまでが事実なのかはわからない。けれど、対象が子どもなのにこんな記事を出すなんて信じられない。

 純粋にいろんなことを楽しみ、目標に向かって進んでいる無垢なカールにはこんな記事は見せられない。

 だけど、この記事が出ればいくら本人が知らないとしても周りの人間の知るところにはなる。こんなことを書いて一体何になるのだろう。悪影響にしかならない。将来有望な演奏家になんてことをしてくれるのか。

 会社側から一応、出版元に話はしてもらった。けれど、あとからいくらそんなことを言ったとしても… 



 カールが有名になってからずっと、ぼくの心の中には冷たいものが渦巻いている。引き返したほうがいいのではないか。今ならまだ、引き返せる?


 そう思いながらも動画投稿を止められず、インスタ用のかわいらしい写真を撮るしかなく、ようやくオーケストラとの共演でステージデビューが決まった。

 それは、有名になってカールの存在を知ってもらうことができたからに他ならない。


 デビュー前日の家での様子を撮影するよう会社命令が出ている。カールにインタビューしながらを明日への期待を聞き、食事風景を撮影し、明日弾く曲の練習風景を動画にする。

 カールは明日のことを楽しみにしていて、スキャンダル記事にされたことなど知らない。どうしたらいいのだろう。


「ドム」

「うん?」

「明日、ちゃんと聴いていてよ」

「もちろん。舞台袖でずっと見ているから」

「ねえ、ドム」

「うん?」

「ママは見に来るかな…」

「どうかな…。来られないかな…」

「ママ、恋人と幸せにしているのかな…」

「うーん…。どうだろうね…」

「ママが幸せなら、ぼくはそれでいいよ」

「なんか、大人みたいな台詞だね…」

「パパは?」

「パパ? 来るかどうか?」

「うん」

「君のパパはまだ、体調が良くなくて…」

「いつ治るの?」

「いつかな…」

「治る?」

「たぶんね…。ぼくも会っていないから何とも…」

「ぼく、ドムがパパでもいいけど」

「いや、それは…無理…」

「……」

「いや、ごめん…。そうだな…。いける、かな…。ぼくがお父さんでもいいの?」

「いいよ。だって、ドムはぼくの嫌なことをしないから。ドムがパパになってよ」

「カールの嫌なことって何?」

「ずーっと練習部屋に閉じ込めて、できないと横から顔を殴る」

「え…」

 それは…ぼくが母からされていたこと…。急にあの頃の記憶が…。



 我が家は本当におかしな家だった。

 音楽を強制されて、決められた時間は練習部屋から出られない。母の要求するレベルに到達するまで何度もやらされる。

 同じところを何度も弾かされる。ここができないと先に進めない、と言われて一生懸命取り組むけれど、できないところだってある。自分でももどかしくて、なかなか頭の中にあるイメージを完璧な形で音にできない。

 何度も繰り返しているうちに母も苛立って、その怒りがあふれると横から顔を殴られる。

 その痛みと悲しみ、できないことの悔しさで涙が浮かぶのだけど、楽器に涙を付着させてはいけない、と言われてひとまず布を渡される。泣いたところで母が容赦してくれるわけでもなく。

 兄も同じような感じだったはず。


 ぼくは兄より先に脱落した。

 ぼくは思春期になると周囲と比べて自分が異様な環境にいることに気が付き、それが嫌になって耐えられなくなった。

 もうやめる、辞めてやるんだ。そもそもヴァイオリンを弾かせてくれと頼んだことはない。こんな糞みたいなこと、もう二度とするものか。

 そう言って親に歯向かった。初めて母の困惑した悲しそうな顔を見た。あの時は胸が痛んだけれど、もう無理なのだから仕方がない。ぼくはこれからは自由になるのだ。

 だから。主張は押し通した。そしてそれっきり、ぼくはもうヴァイオリンを弾かなくなった。


 毎日何時間も閉じ込められて無理やり練習させられていたその習慣から急に解放されて、はじめのうちはどうも安定感がないというか、今までそれに費やしていた時間をどう使えばいいのかわからずふわふわした妙な感覚があった。

 ぼくに使わなくなった時間の矛先は結局兄に向かい、兄は今まで以上に練習させられるようになった。

 才能がある子どもにはそうすればいいのかもしれない。けれど、兄もぼくも、思うに、そこまでではなかったのだと思う。

 兄はそれでも、努力の末に大学でも音楽を学び、名の知れない演奏家として活動するようになった。

 そして、兄は息子のカールに同じようなことをしていた…。



「カール」

「なあに?」

「ヴァイオリンの練習、楽しい?」

「楽しいわけない」

「そうなの?」

「そうだよ。でも、ドムと一緒にした練習は楽しかった」

「ぼくとした練習?」

「一緒にさ、ユーチューブに合わせて弾いたでしょ?」

「ああ、あれね。あれは…練習というか…ただの遊びだよね」

「あとさ、ドムがピアノの伴奏をして、ぼくがヴァイオリン。好きな曲が弾けるから、そういうのは好き」

「わかるな。ぼくもそうだった。親がいない時、好きな曲を好きなように弾くのは、好きだった…」

「だから、練習の時にパパが怒ったり叩いたりするのは嫌だった」

「それはそうだよね…」

「だからさ、ドムがぼくのパパになってよ」

 じゃれついてぼくのひざに乗ってくるカール。かわいいな。ぼくだって、君のパパになれたらいいのに。

 でも、君とぼくは、一ミリのつながりもないかもしれないんだよ。だって君は実は、君が思っているパパの子ではないかもしれないのだから。




 デビュー当日。朝からコンサートホールへ。午前中にオーケストラとリハーサルをして、午後が本番。

 かしこまった衣装を会社が用意してくれて、カールはそれを喜んでいる。

 曲は難易度がそれほど高くはないメンデルスゾーン。まあ、デビューにはこのあたりが無難だろう。難しくはないけれどポピュラーだし華々しさもある。

 本人はもっと難曲だって良かったのに、と不満そうだけれど、デビューというのはそういうものだ、と説得して納得してもらう。

 緊張するのかと思いきや、本人は全然平気そうでこちらが怖くなるほど。

 練習もリハーサルも、危なっかしいほど楽しそうにこなすカール。合間にはちょろちょろ動き回ってオーボエを吹こうとする。ティンパニーを勝手に叩く。指揮台に立って指揮者の真似をする。

 オーケストラのメンバーもその他スタッフも皆、カールの行動に吹き出して、ますますかわいがられるカール。

 この天性の性格。これで随分得をしている。ぼくの兄とは大違いだな。


 なんて、ずっと動き回ってふざけているこの子どもが、曲が始まってヴァイオリンを構えると変わる。

 いつもそれが怖い。子どもらしさが失われる瞬間。

 ぼくはとりあえず、舞台裏を動画にするためカールの様子を動画で記録しておく。



 リハーサルから本番までの空き時間。楽屋に二人きり。軽食を摂りながらまた動画用にカールの様子を撮影。

「カール君。今日はいよいよデビューです。どんな気分ですか?」

「ドム。止めて」

「え、どうした? 嫌だった?」

「ドム、そんなの止めて、こっち来てよ」

「うん。どうした?」

 カメラを止めてカールの隣に座る。リハーサルの時はあんなにはしゃいていたけれど、やっぱり実は緊張しているのかな…。

「カール、大丈夫?」

「大丈夫。でも、抱っこして」

 また、甘えた笑顔でぼくのひざに乗ってくる。甘えられるたびに、母親がいないから寂しいのかな、と思って不憫になる。

 カールを抱きしめながら、君はぼくの甥っ子ではないかもしれない、と思いながら、それでも何でも、ものすごく愛おしいな、と思って彼の耳元に話しかける。

「カール。ここまで来て、がんばったよね」

「がんばったよ」

「本当に、えらいと思ってる。君はぼくの誇りで、大事な甥っ子」

「ドム」

「うん」

「本番うまくできたらほめてくれる?」

「もちろん。でも、ここまで来たら、うまくいってもいかなくても、どっちでもいいよ」

「そうなの?」

「そうだよ。失敗したっていい。初めてなんだから」

「でもぼく、できるよ。だって、何度も弾いてきたし、今日の曲なんか全然難しくないんだから」

「そうかもしれないけど、お客さんも来るんだよ」

「知ってるよ」

「緊張しない?」

「平気だよ」

「本当?」

「うん」

「あのさ…トイレは平気?」

「今は行かない」

「おもらししないか心配だから…本番直前になったらトイレに行ってくれる?」

「うん…」

「こんなこと言ってごめんね…」

「うん…。ぼく、いつもごめんね…」

「いや、全然…。でも、衣装が濡れちゃうと大変だからね」

「気を付ける」




 本番、デビューコンサートは大成功だった。

 小さなカールが舞台に出ていくと、聴衆の多くがまるで自分の孫を見るかのように微笑んだ。そんな様子が舞台袖にいても分かった。着せられた衣装に小さなヴァイオリンを持って指揮者のところまで堂々と一人で歩いていく。大丈夫だろうか。ぼくも緊張。

 でも大丈夫。こういうことは、子どもの方が本番に強いものなのだ。

 舞台に出たら、子どもだろうが何だろうが、それなりの仕事を一人でこなさなくてはいけない。

 指揮者から目で合図をされるカール。にこにこ笑って大丈夫であることを伝えている。ほぼ満席の聴衆にも怯まずあの笑顔。強いな。

 おなじみのイントロが始まる。構えるカール。

 小さなヴァイオリンでも、フルサイズには劣るとしても、カールの弾き方はホールによく響いて、その演奏も技術的には上出来だった。とぼくは思う。

 協奏曲は結構長い。大丈夫かな。

 でも、時は進む。曲も進む。滞りなく曲は美しく変化して、カールは一秒たりとも集中を途切らすこともなく演奏を続けている。

 子どもだからどうしても感情の入れ方が子どもらしくて、そこは伸びしろなのだと思うけれど。

 

 最後の弓捌き。上出来。光の中で浴びる拍手。

 彼のうれしそうな顔を見ると、ぼくも感無量。


 舞台を終えて舞台袖に戻ってくるカール。聴衆から温かい拍手をもらって、指揮者と握手をしてご満悦。

「ドム。見てた?」

「見てたよ。すごいね。よくできたね」

「そうでしょ。がんばったよ」

「ああ、えらい」

 鳴り止まない拍手。

「カール。お客さんが待ってる。もう一度、ご挨拶をしておいで」

 舞台袖から見る小さな背中はまた、一人でヴァイオリンを抱えてステージ中央へ。何だろう。感動…。

 あんな小さな体で、めいっぱいの演奏をして、ずいぶん立派じゃないか。

 先生の言うことをよく聞いて、吸収して、自分なりに努力をして。そしてこのステージ。もし彼が一生を演奏に捧げる演奏家になるのだとしたら、これはまだゴールではないけれど。

 あの年齢でこの舞台。もう、十分。


 大成功の初舞台を終えてから、ぽつぽつと演奏会の仕事や取材の仕事が入るようになり、相変わらず動画投稿やSNSも続けている。

 会社が出版社に話をしたからなのか、そもそもそれほど大きな記事ではなかったけれど、カールの家庭環境についての注目はもう、他の話題に持っていかれていつしかそのことを話す人はいなくなった。

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