第3話 にわか有名人

 カールを紹介してもらえる、ということで、ぼくらはテレビ局のスタジオへ。

 毎日一人ずつ、何かをがんばっている、または、特技があるような子どもを紹介する、ある番組のコーナーに出演させてもらう。

 カールの動画を見た関係者がぜひ、カールのヴァイオリンを番組で披露してほしい、と見出してくれたおかげ。


 テレビ局へはなぜかぼくの上司も同行してきた。三人で控室で待っていると次々いろんな関係者が訪ねてきて挨拶をしてくれたり今日の段取りを説明したりしてくれる。

 カールは得意の愛嬌でみんなにかわいがられる。

 上司とぼくは芸能人とすれ違ったりちょっと挨拶できたりして舞い上がっていたけれど、テレビを見ないカールは誰が誰だかわかっていないので全然喜びもしない。ただ普通に挨拶をするだけ。


 本番前に一度リハーサルとして用意してきた曲を弾くと、やはりカールの演奏は場の雰囲気を変える。

 テレビ用の照明を浴びてその中で演奏するカール。ヴァイオリンを持って構えるその姿からはまた、子どもらしさが失われている。そして弾き終わるとまた子どもの顔に戻る。みんなに褒められるとうれしそう。その表情は年齢通りの無邪気さ。



 本番も難なくこなし、番組ではカールが動画のチャンネルを持っていることも紹介してくれた。

 それがきっかけだった。閲覧数と登録者数が突然伸び始めた。ぼくらはそれに喜び興奮して、さらなる動画更新の励みにした。

 その勢いが止まることなく上昇を続けることに、ぼくはそのうち何となく怖さも感じるようになっていたのだけれど。

 ごくたまにだけれど、街中で動画を見ています、と声を掛けられたりして、愛想良くお礼を言うのだけれど、カールはまだ子どもだしぼくはただ彼を預かっているだけ。

 それなのに、親でもないのに彼をこうして公開して、ぼくらは一体どこへ行こうとしているのだろう。

 こんなことはやめるべき? 瞬間そんな考えが過る。

 だけど、これを止めることはもうできない。カールは単純に喜んで楽しんでいる。動画を公開するというのは会社の方針。ぼくの意思ではない。そしてカール本人はそれに同意している。


 また、他の番組の取材を受けることになった。雑誌の一部に載ることになった。

 そんな話がぱらぱらと日々やってきて、一つずつこなすのがぼくらの日常になった。

 どこまで行って、どうなるのだろう。



 これが契機となって、ぼくの会社はカールのサポートを正式に認めることになった。

 今までは家で自主練習をするだけだった。けれど今後はきちんとした教師をつけてさらに上達を目指す。その費用は会社が持つ。

 その代わり、カールの動画チャンネルは会社の管理。さらにその他のSNSも準備する。今後の活動に向けて彼と会社との契約を正式に結ぶ。

 ぼくにはもう、何も止められない。


 仕事とプライベートの境界線がなくなった。ぼくがカールのマネージャー。彼に合わせて動くことがぼくの仕事。


 何よりもほっとしたのは、ようやくまともなレッスンを受けさせられる状況に持ってこられたこと。

 この才能を放置してはおけない。彼はぼくらとは違う人間で、神から授けられたこの能力をもっと伸ばさないといけない。

 そのためには周りの人間のサポートが必要なのだ。それなのに、ぼくには経済的にも時間的にも余裕がない。半年間、何もできずに申し訳ないことをした。

 だけど、動画の投稿をやってみて良かった。テレビに出て良かった。チャンスが巡ってきたのだから。



 動画とテレビ出演のおかげでカールはにわかに有名人になった。

 話題が話題を呼ぶ形で何度か、いくつかのテレビ番組に呼んでもらい、動画も幼い彼が超絶技巧の演奏をするのが受けて多くの人に見てもらっている様子。

 そのせいで彼は学校でも優遇され、友人に称賛され、満足しているようだった。

 出かければ見知らぬ人に声をかけられたり写真を撮られたり。

 本人はそういった有名人気分が満更でもないようで、いつもうれしそうだった。



 会社が選定してくれたヴァイオリン教師二名。

 そのうちの一人は高名な方で、カールは月に数回その先生がいる大学へ師事しに行く。

 また、普段の練習に付き添う教師も付けてくれて、彼の学校が終わるとマネージャーであるぼくが彼を学校まで迎えに行きそのまま会社まで連れてくる。カールのヴァイオリンの日常練習はぼくの会社で行う。部屋と教師を用意してここで。

 至れり尽くせりで良い環境を与えられてカールはますます上達していく。

 元々兄の熱心で集中的な指導のおかげでカールの技術的なものやレパートリーはすでにかなり充実していて、こうなるためにはかなり虐げられたものがあったのだろうけれど、この年齢にしてそういう強みを持っているのは余裕にもなるし、良かったのかな…。



 一つ、気になることがある。

 カールには失敗してしまう癖があって…失敗と言って、何の失敗かというと、トイレの失敗。

 時々間に合わない。つまり、おもらしをしてしまう。

 ぼくは子育てをしたことがないからわからないけれど、おそらく彼くらいの年齢だったら余程のことがなければそういうことが起こるなんてないのでは?

 もちろん、状況がどうしても、という場合もあるだろう。そんなの、大人にだってある。

 けれど、二人で楽譜を見ながら練習している時に突然ぴちゃぴちゃ水音を立てられると驚いてしまう。

 本人もつらいようで、そういうことが起こると不安そうな顔でうつむいてぼくに謝る。そんなつもりはなかった、と弁解する。

 起こってしまったことは仕方がないので慰めて始末をするのだけど、どうしたらいいのかな、と悩む。

 彼の面倒を見始めてから、何度かおもらしに遭遇している。

 眠っている時に無意識に漏らしてしまうのは仕方がないとして、意識があってトイレに行きたいとわかるはずなのに漏らしてしまうのは一体なぜ…。気にしたら良くない? 体質?

 とにかく、そういう悲しくなってしまう出来事が起こることを防げるのなら、それはなくしてあげたい。



 家でぼくと二人で練習していた時、ヴァイオリンを肩に乗せたまま、変なタイミングで弓を離して「あ…」と彼が言った、その妙な様子で「どうした?」とぼくが声を出したその瞬間に目の前で水があふれ出す。

 かなり我慢していたのかどうか、随分たくさんの水分が床に広がるのをぼくは内心驚きながら見ていた。

「カール…大丈夫?」

「おしっこ…出ちゃった…」

「大変だ…。我慢してた?」

「うん…」

「そしたら…ちょっと、とりあえず練習は一旦中止しよう。お風呂に入っておいで」

「ドム…」

「うん?」

「ごめんなさい…」

「大丈夫だよ。だけど、トイレに行きたかったら途中でも言ってね」

「うん…」

 ぼくは何ともない素振りで彼を浴室へ連れて行って床の掃除をする。

 偶然かな。集中しすぎてトイレに行きたいことに気が付かなかったか…。


 最初はそう思っていた。けれど、その後もそういうことが数回あった。

 曲の場面によるのかも。情熱的な箇所、集中力が特に必要な箇所。山を越えて場面が変わる箇所。

 そういう、旋律がふわっと緩む箇所になると失敗が現れるような…。

 とは言っても、そういう場面でももちろん失敗しないこともある。

 練習前にさり気なくトイレを済ますように言って実際にそうしたとしても、途中であふれてしまうこともある。

 本人に、前からそういうことがあったのかどうか、と聞くと、無い、と言う。

 兄に指導されていた時にはそんな失敗一切したことはなく、ものすごくトイレに行きたいのにずっと弾いていたって我慢できたのに、と本人は言う。

 それなら、親と離れている寂しさなのかな…。それとも、ぼくが原因?


 家の中でならそういうことがあっても秘密にしておけるしぼくが掃除をすれば済む。けれど、ぼくが見ていないところでもそれが起こってしまう。


 会社に用意したカールの楽器の練習部屋。そこで会社が用意した女性講師と彼が二人きりでいつものように練習をしているはずだった。

 ぼくはパソコンを見続けて事務仕事中。そこへカールの先生がやって来て、カールが泣いているから見に来てくれないか、と言う。

 どうして泣いたのか、と聞いても先生ははっきり言わない。

 とりあえず彼の元へ行くと下半身がびしょ濡れで足元に水溜りを作ってしまったカールがヴァイオリンと弓を持ったままべそをかいている。

「カール…」

「ドム…」

 ぼくはカールに近付いて楽器を彼の手から離す。

「大変だね…。おしっこ出ちゃった?」

「ごめんなさい…」

「トイレに行きたいって、言えなかった?」

「うん…」

「カール、練習中でも、トイレに行かないといけなくなったのなら言っていいんだよ。だって、こうなったら大変だから」

「ごめんなさい…」

 我ながら準備がいいとは思うのだけど、自宅で何度かこういうことがあったので万が一に備えて彼の着替えをぼくは持ってきていた。

 先生には申し訳ないけれど、今日の練習は終わりにしてもらえないだろうか、とお願いしてお引き取りいただく。

 まさか、会社でおもらしの後始末をすることになるとはあまり想像していなかったけれど、とにかくこれが起こってしまったら粛々と対処するしかない。


 本当に、このことはどうしたら、いいのかな…。

 そもそもおもらしというのは、しようと思ってするものではないから、しないで、とか、気を付けて、と言ったところで…本人だってそんなことするつもりもないししたくもないのだろうし…。

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