第2話 カールの父からの連絡
兄から電話が来た。明日帰る、という連絡だろうと思ったら様子がおかしい。声の調子も、話している内容も。
「もしもしドミニク?」
「うん。調子はどう? 明日帰って来るんだよね? カールは元気にしているよ。どうだった、演奏活動は」
「それが、してないんだ。キャンセルして」
「キャンセルって何? それなら…今どこにいる? ミアは?」
「だからさ…。もう帰れないんだよ」
「帰れないって何だよ。何を言っているのかわからない。ミアは?」
「だから」
「ミアと何かあった?」
「何かあったも何も…」
「とりあえず帰ってきたらいい」
兄は生まれつき、精神が不安定になりやすい。何かあって今、不安になっているのだろう。彼の声色でそれがわかった。だからぼくは努めて優しい声を出すようにした。
「とにかく…。カールがいるんだから。帰っておいで。待ってるから」
「問題はそれなんだ」
「問題が何だって? カールは寂しいのに一人でがんばっていたんだよ」
「カールはぼくの子じゃない」
「何を言っているのかわからないってば」
「カールはぼくの子じゃない」
「何があった? とにかく、一度帰ってくるんだよ。今どこにいる?」
「もう帰れない」
電話は切られてしまった。すぐにかけ直したけれどつながらない。兄嫁にかけてもつながらない。どういうことだろう。カールには何て言う?
だいたい、そもそも。おかしいと思っていた。カールのことを心配しているだろうと思って、ぼくは毎日カールがヴァイオリンの練習をしている様子や食事、登校風景の写真を送っていたのに、兄もミアもノーリアクションだった。
待っていたら帰ってくるだろうか。どうすれば?
あの夫婦のことだから、夫婦間で何かあったのだろう。カールがマンフレートの子どもではない? やはり、と思ってしまうのは違うかな…。
あの時からおかしいと思っていた。あの、兄が誰かを妊娠させた、と家族が大混乱に陥っている時から。
ぼくはずっと、そんな予感がしていた。証拠なんか何もないけれど、何となく。
もしカールがマンフレートの子どもでないのなら、ぼくは今カールの面倒を見ているけれど、彼は全くの他人ということになる。
それが事実だとして、兄嫁はカールのところに戻ってくるだろうか。
ひとまずカールには何も言わず、そのまま待ってみることにした。ぼくにも詳しい事情は何も分からない。
結局、二人ともいつまでも電話はつながらず、家にも戻ってこない。
今日両親に会えると思っていたカールについに聞かれた。「二人は何時くらいに帰ってくるの?」
さて…。何て答えればいいのだろう。帰ってこないかもしれない。そんなことを彼に言えるわけがない。
だけどそういえば、ぼくがカールと過ごす初日、カールは二人が帰ってこなかったらどうなるのか、とぼくに聞いた。カールは何かを知っているのだろうか。
「カール」
「なあに?」
「二人が帰ってこなかったらどうするって、最初の日にぼくに聞いたよね?」
「うん」
「どうして、そんな質問したのかな?」
「だって、そういう気がしたから」
「どうして、そういう気がしたの?」
「だって、二人は仲が悪いし、ママは他の恋人がいるんだよ」
「え!? どうしてカールがそんなことを知ってるの?」
「だってママはいつもその人と電話してるし、メッセージを送っているし、いつも会いに行ってるよ」
「パパはそのことを知ってる?」
「知ってるんじゃない?」
そういうことか。
何となく、そんな気はしていた。兄は騙されていたのか。カールが生まれる前から兄嫁はそんなことをしていたのだろうか。
元々そういう性質の人間なのかもしれない。
「カール」
「なに?」
「ママの恋人を見たことはある?」
「ない。ぼくは会ったらダメだって」
「どういう人か知ってる?」
「知らない」
「どこに住んでいるか知ってる?」
「知らない」
そうか…。
だけど…そうだとしても、カールは確実に彼女の息子なのだから、引き取りに来るはず。兄が現れないとしても…。
一応、海外に住む両親に兄からそういう連絡があった、という知らせだけは入れておいた。
もしかしたら、兄は両親を頼るかもしれない。
何だかんだ言って、こういう時に兄が頼るのは親だけなのだ。
しかし結局、兄も兄嫁も何日経っても現れない。この子を、どうしたらいいのだろう。
だけど思いのほか、カールは冷静だった。こうなることを予想していたからだったのだろうか。
朝は一緒に学校に行って、午後は学童で過ごしてもらう。ぼくの仕事が終わったらそこへ迎えに行って一緒に帰る。
数日経つとその生活にも慣れてきて、だけどいつまでもこうしているわけにもいかないし…。
どうしようか、と思っていた頃、父親から連絡があった。兄から連絡があったから呼び寄せた、とのこと。
本人は両親のところへ姿を見せたのだけれど、精神的におかしくなっている。だからしばらく両親のもとで保護する、とのこと。
ぼくは、カールをずっとあずかっていることを伝える。だけど両親は、その子はマンフレートの子どもではない、ただの他人なのだから母親に任せるべきだ、と言ってそれ以上関わろうとはしない。
だから。その、母親が現れないから困っているのだ、と強めに言う。
マンフレートにミアを探すように言ってくれ、と言うと、彼は今、そんなことができる状態ではない、と言われる。一体どれだけ憔悴しているのか。
親から聞いた事情によると、仕事と称して出かけた兄夫婦はそこで修羅場となった。いつものように合わない意見で言い合いになり、冷静さを欠いた兄嫁がカールは兄の子どもではない可能性がある、と言い放った。
兄嫁はそもそも子どもが好きではなく、しかし子どものせいで人生が思い通りに運ばなくなったことに不満を持っていた。
何を言っているのだろう。
子を持つつもりがなかった。そうだとしても。
結果として子どもが生まれたわけで、その子どもを兄の子どもではないことを隠して偽って育てさせたのか。
兄嫁はもうカールから離れたい。実はもう今、自分をとても大切にしてくれる恋人がいる。兄よりもずっと優しくて素敵な人なのだ。一刻も早く恋人のところへ行きたい。そう言ったらしい。
何を…言っているのか…。
じゃあ、カールのことはどうするのか。兄が尋ねると、兄嫁は答えずにその場を去っていった。
それっきり。
ここに出てくる登場人物は、全員が勝手過ぎる。
一体どんな話なんだ。
子どもに愛情がどうしても湧かない人間がいるとして、それを責めるつもりはない。全員が美しい母親になれるわけではないのだから。
若くしてそんな状況になった兄嫁の気持ちも、わからないこともない…かもしれない。
けれど、こんな形でカールから離れるなんて無責任すぎるのでは。
それなら、この家でカールと一緒にいるぼくはどうすればいいのか。
兄の子どもではないかもしれない。ただの他人なのかもしれない。だけど、だからといってこのタイミングで彼を放置するわけにもいかない。
彼はぼくを慕っていて、ぼくだってこの小さくて愛らしい子を親友だと思っている。今さら、この状況になってもう関係ないから見捨てる、なんてことはできない。
それに、完全に兄の子ではないと決まったわけではない。これは、遺伝子を調べないと判明しないのだろうけれど。
ただ、言われてカールの顔立ちをじっくり見てみると…兄の子ではないかもしれない…。そんな気はする。
迂闊だったと言うか、もっと早く気が付きそうなものなのに、ぼくはそんなことは全く考えていなかった。
ミアはもう、現れないのでは。
だって、子どもがいるせいで人生が思い通りにならなくて子どもと離れたかった人が、やっと本当に愛する恋人と一緒になれるのだとしたら…。
子どもを取り戻しには、普通に考えて、来ることなんかないだろう。
カールのことを思うと不憫で仕方がなくなる。こんなにかわいいのに。置き去りにできるのか。
だけどどうする? 今、彼は戸籍上は兄の子ども。役所に事情を話して引き取ってもらう?
だって、ぼくが父親になるには、ぼくはまだ若過ぎるし、収入も足りないし、人間的にも、何の準備もできていない。
でもそしたら、この子はどうなるのだろう…。
どうしたらいいのかぼくも全然わからなくて、どうしようもなくて…。それをカールに伝えた。
すると彼はそのまましくしく泣きだして、ぼくの顔も見ずに下を向いて何も言わなくなった。
その様子がかわいそうすぎて、ぼくも何も言えなくて、でも、どうしたってこの状況を慰めることもできない。
兄は精神を病んでしまったし、そもそも自分の子どもではない彼をもう見ようとは思わないかもしれない。だからってぼくに彼を任されても…。
だけど、このままだと彼はどうなるのだろう。どこか施設に入れられて育つのだろうか。もしそうなったら、あんなに弾けていたヴァイオリンはどうなる?
考えた末の決断。いや、問題を先送りしているだけなのかもしれない。
もう少し待とう。
ここで、この家でもう少し過ごしていたら、彼の父か母か、誰が来るかはわからないけれど、誰かしらがこの子を迎えに来るのではないだろうか。
だって、カールはこんなにかわいいし、兄だって尋常でないほど真剣にこの子にヴァイオリンを教えたのだろうから。
それを簡単に捨てたりなんか、できるはずはない。
ぼくは覚悟を決めてこの家を拠点にすることに決めた。
カールを育てるわけではない。ただ、母親が帰ってくるのを待つだけ。
深く考えてはいなかった。ただ、あともう少し。あと何日かはこうしていたっていいだろう。母親というのは子どもが一番なんだから。迎えに来るはず。
冷静になったらミアはきっと、カールに会いにここにやってくるに違いない。
二人の暮らし。カールは思いのほか良い子だった。ぼくらの共同生活にとても協力的だし、わがままを言うこともない。
ただ、昼間はいい子にしていても、夜中になると両親に会いたいと言って泣く。
それを言われると、こちらとしてもどうすればいいのやら、いつもなだめて背中をさすってあともう少し待って、と言うことしかできない。
音楽的家庭には本当によくあることなのだけれど、カールもその例の通り、随分制限の多い生活をしていた様子。
まだ子どもなのに、学校に行く以外の時間は全てヴァイオリンの練習に充てられていたようで、遊んだりする余裕なんかなかったよう。
ぼくも途中までは才能もないのにそういうふうに育てられたからわかる。
友達が見ているテレビや動画の話題についていけない。みんながしているゲームをしてみたくて仕方がない。
ごく普通のボール遊びとか、遊具で遊ぶとか、そういうことは手を怪我する可能性があるから禁止。
今思えば、そんなことを言われた時点で反抗したらよかったのだろうけれど、なぜか素直に親の言うことを聞いていた。
長時間続くつらい練習に耐え、禁止事項を守り、ひたすら音楽を追う。
そんなことをしているから、兄はあんな無気力な大人になってしまった。ぼくはそう思っている。
才能のないぼくは途中で脱落して方向を変えた。それ以来母とは気まずいしほとんど話もしなくなった。けれど、それで良かったと思っている。
やりたくもない練習を強制されて、好きでもないヴァイオリンをいくら弾こうとしたって上達なんかしない。
音楽を拒否してから、ようやく普通の人になれたようで、こちらの世界に来て良かったとよく思う。
才能があって、それが好きな人はその世界でそういう精進を続けたらいい。けれど、そうでない人にそれを強制するのは虐待だと思う。
音楽的な家庭にありがちなこと。これは、音楽に限らないのかもしれない。時にそれは勉学かもしれないし宗教かもしれない。
とにかく何かを強い力で子どもに押し込めようとするとそれは、子どもから思想を奪うことになる。
ただ、音楽、特にヴァイオリンやピアノ等は幼い時からある程度そのようにしないと競争のある演奏家の世界でやっていくことはできないのかもしれない。だから、必要なこと、なのか…。
兄は、自分が経験してきたそんな生活をそのまま、自分の子どもに施していた。
ただ、カールには才能がある。兄より、ぼくよりも。だから…。
だからといって…。本人にとって何が幸せなのか。
まだ子どもだから。時には親がいろんなことをコントロールしないといけないのかもしれない。その瞬間だけではなく、先を見据えて今何をするべきなのか。
瞬間を生きる自分よりも歳下の者の幸せを願っているからこそ。
だけど、兄はそういう客観的な視点に立っていたのだろうか。
逆に兄は、先のことばかりを考え過ぎて、今を、この年齢を生きるカールの心を考えたことはあったのだろうか。
けれどとにかく、カールのヴァイオリン。
彼の弾き方を見ていると、放置していいようなものでもなく、兄よりも、誰よりも才能がある。兄の遺伝子ではないのだろう。
カールを見ていると、そんな予感が確信になりそうになる。
天賦の才能。これは、きちんと勉強させたほうがいいのかもしれない。カールは普通ではない。
難曲を軽々弾けるし、演奏している時の集中ぶりは気持ち悪いほど。子ども離れしている気がする。
この子はこのままいくと、近い将来デビューできるのでは。
ぼくの素人考えで何となくそう思う。
ただ、ぼくにこの子の責任を負う義務は一切なく、レッスン料を負担することはできない。
まだ社会に出てから経験が浅くて、単純に経済的余裕がない…。けれど、この才能を目の当たりにしてそれを放置するのも心が痛む。
本人はどうしたいのかな…
ぼくはこのことをどうか秘密にしてほしいのだけど、と前置きをして上司に相談した。
カールとぼくの関係。カールの両親があんな状況であること。
上司はカールを見てみたい、と言った。
それでカールを連れて職場に行く。職場の会議室でカールはヴァイオリンケースを開ける。
相変わらず人懐っこい笑顔。それをぼくの上司にも向ける。
ぼくの上司に演奏を披露するカール。
毎日思うけれど、この、演奏に集中している様子が卓越していて気持ち悪いのだ。
この年齢にしてテクニックは申し分ない。息づかい、表情、弾き方。
子どもが到底弾かないような曲を堂々と演奏する姿。子どもらしさが消えている。
「やあやあ、随分上手なんだね、カール君。驚いた。誰に習っているの?」
「今はドミニクに習っています」
「ちょっと…。ぼくが教えられるわけないでしょ?」
「だって、いつも教えてくれてる」
「一緒に練習してるだけだよね」
「わかったよ、カール君。君はすごくうまい。どこかの大学教授とか。君の先生は誰なの?」
「そんなのいません。ぼくの先生は、前はお父さん。今はドミニクです」
「そうなの?」
上司は感心して、喜んでいた。
その数日後、会社からカールの動画を投稿しないか、という話が持ちかけられた。
動画でみんなにカールがどれだけすごいのかを見てもらう。
再生回数とチャンネル登録者の数字によって、もし何かしらのチャンスがありそうなら、カールを会社のタレントにして、会社持ちでヴァイオリンのレッスンを受けさせる。
カールにそれを伝えると、さすがは現代っ子。ユーチューバーになれることを心から喜んでいる様子。
今まであまり動画やゲームの類を経験したことがなかったカール。ぼくと過ごすようになったせいで、ぼくはカールに無制限にそういうものを使わせてしまっている。
そしてカールはそれにすぐに適応した。
使い方を教えないうちに何でも自分でできるようになり、ほんの数日でぼくよりも機器を使いこなしている。
その手つきの熟練ぶりと言ったら…。
まあ、今までの抑圧があったのだからいいだろう。
ぼくは彼を、内心不憫に思っているからかもしれない。ものすごく甘やかしている。
早速とりあえず家で撮影をしてみる。
翌日軽く編集をして一本投稿してみる。
投稿直後、何度も見に行く。けれど、誰も見ていない。
そんなものか…。
カールもぼくも、ユーチューバーがどんなに大変なのか、何も知らなかった。
世の中はそんなに甘くない。そう思いながらも動画二本目。
難易度の高い曲を一人で演奏させてその様子をアップロード。
この、カールの神童ぶりが動画で伝わると良いのだけど。
他人とは言え、ぼくもカールのこの能力を誰かに見てほしい、とは思っていて、だけど閲覧数もチャンネル登録も低調。
どうしたら多くの人に見てもらえるのだろう。
まあ、焦ったって仕方ない。
そんなものか、と思いながら、日々の練習がてらぼくらは動画のアップロードを続ける。
何も起こらないまま半年が過ぎた頃、ぼくにメールがきた。テレビ局から。
動画を見て興味を持った。カールを取材させてもらえないか。
ぼくは思った。まだカールを迎えに来ない母親。もしもテレビでカールを見たら彼を迎えに来るのではないか。
カールを母親に引き渡したい気もする。けれど、心のもう一方ではこうして毎日一緒にいてかわいい甥っ子に情と愛着もあって…。
それに、あの母親にカールの才能を渡すのは惜しい。
かわいいカールをあの身勝手な女に渡す…。そんなことをするくらいなら、彼をここに置いておきたい気が…。
とは言え、ぼくにカールを育てることはできない。
だけど彼女にカールを渡したらもう一生彼に会えなくなるかもしれない。
そもそもカールは兄の実の子ではないのだとしたら…ぼくとは何の関係も無くて…それなら…
だけどそうだとしても…。
そうだとしても、カールはぼくの親友だし、ミアよりもぼくの方がずっと、彼の才能を伸ばして成功させられるのでは…。
もちろん、一番は本人が望むとおりに。
本人が一番幸せになれる道を。
カールと話してぼくらはテレビの取材を受けることにした。
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