神童
岸野るか
第1話 カール七歳
兄から子どもを預かってくれないか、と頼まれた。兄夫婦には一人息子がいる。まだ七歳。預かると言って、どうすればいいのかわからないから断った。だけどほんの数日だけ。どうしても、と押し切られる。
仕方なく兄夫婦の家に行くとかわいらしい甥っ子がぼくを迎えてくれた。
甥っ子、カール。
彼が生まれて以来、数回しか会っていないのにぼくを認識して慕ってくれる、本当にかわいい存在。
今日だって会うのは久しぶりなのににこにこしてぼくが来たことを喜んでくれている。
「カール。また大きくなったね」
「ドム!」
「これからぼくと二人だよ。パパとママがいなくて平気かな?」
「……」
「あまり平気そうじゃないね。そしたら、夜になったらゲームしようか」
「する!」
そこに水を差す兄、マンフレート。
「ドム、わかっているだろうけど」
「なに?」
「一日のスケジュール。そこに貼ってあるから」
「スケジュール?」
見ると細かく時間単位ですることが書かれた紙。
「うわ…。何だよ、これ…。ぼくらが子どもの頃よりもひどいな」
「我が家の日常。この子はできるから。休まずにやらせるように」
兄夫婦はカールを抱きしめて旅立とうとしたけれど、カールは寂しがってママから離れない。それはそうだろう。まだこんなに小さい。
そもそもこの夫婦。一人にしておけない子どもを置いて二人で仕事に行くとか…。
前からどうも、二人の様子には違和感があった。
そもそも兄貴。何事にも気力がなくて何を考えているのかわからない。
兄は音大ヴァイオリン科を卒業して無名の演奏家としてささやかな演奏活動で生計を立てているのだけれど、その見た目も演奏もうだつがあがらない。
兄嫁とは大学で出会って学生結婚をした。柄でもないのに子どもができてしまったから。それがカール。
愛し合って望んで結婚したと言うよりは、仕方なく。責任を取るしかなかったから。ぼくにはそう見える。
詳しいことはわからないけれど、一瞬の不注意でそうなってしまった。そのことを背負うのなら、そうするしかなかったのだろう。
だから。逃げ場のない人生に絶望しているのか、兄はますます気力をなくしているように見える。
兄嫁は兄と同じ大学のピアノ科にいたけれど、カールを授かったことで休学。結局復学せずに中退した。
音楽以外のことを知らない兄は音楽で生計を立てるしかなく、妻を伴奏者にして演奏活動を始める。また、数人の生徒を取って講師業も。
今回はなぜか、伴奏者の妻を伴い泊まりで遠い場所まで演奏しに行く、とのこと。あの二人が二人きりで旅行するなんて。何となく違和感がある。
そのうちカールは泣き出し、別れが名残惜しそうな兄夫婦。それなら行かなければいいのに。と言っても、生活のため、そういうわけにもいかないのだろうか。
両親とさよならをしたカールはぼくと二人きりになるとしばらくは落ち込んだように一人で泣いていた。
どうやって慰めたらいいのかよく分からなくて、ぼくはただ夕飯をテーブルに並べながら彼を放置していたけれど、いつまでもそうしているわけにもいかないし…
「カール、機嫌直してよ」
「……」
「一緒にごはん食べよう。二人がいなくて寂しいよね?」
「ねえ、ドム」
「なに?」
「今日も練習しないとだめ?」
「練習?」
「ヴァイオリン」
「ええと、スケジュールによると、そうなってるね」
「……」
「ねえ、毎日本当にあんなスケジュールで練習してるの?」
「そうだよ」
「今日はやりたくない?」
「うん…」
「じゃあ、今日はさぼる?」
「いいの?」
「別に…いいんじゃないかな…」
「本当に?」
「カールが決めなよ」
「じゃあ、そうする」
二人で向き合って食事をする。当たり前なのかもしれないけれど、一人で上手に食事もできるし話も通じる。
子どもの面倒を見るなんて慣れないことをするのは不安だったけれど、今のところはそんなに手間は掛からない。
食後、入浴するよう指示をすると大人しく言われた通り浴室へ行ったので、やはり、そんなに手間は掛からないのだ、と思ってしばらくすると浴室からぼくを呼ぶカールの声。
「ドム!」
「カール、どうした?」
「もう上がる」
「ああ、そう。そうしなよ」
「拭いて」
「え? 自分でしないの?」
「やって」
「じゃあ…」
そんなの、自分でするのかと思っていたけど、そういうものなのかな。子どもの世話なんかしたことがないからわからない。
カールの栗色の髪をごしごしタオルでしごいて体を拭いてパジャマを着せる。
歯を磨いたらもう寝よう、と言ったら、やっぱり少しだけヴァイオリンの練習をする、と言い出す。
「ドム、一緒にやって」
「ぼくが?」
「ドムもヴァイオリンやってたんでしょ?」
「でも、もう辞めたからなあ…」
「なんで辞めたの?」
「難しいし…」
「いつ辞めたの?」
「もう随分前だよ。子どもの頃」
「どうして辞めたの?」
「難しいし、楽しくなかったからさ」
「どうして楽しくなかったの?」
「どうして、か…。カールはヴァイオリンの練習、楽しい?」
「わからない」
「やめたい?」
「わからない」
「音楽、好き?」
「うん。ねえ、ドム」
「うん?」
「怒らないでほしい…」
「何を怒るの?」
「ぼくのヴァイオリン。上手くできなくても」
「もちろん。約束しよう」
急に不安そうな表情をするカール。ぼくの手をつかんで身を寄せてくる。寂しいのかな。それとも、何かある? まさか兄はカールに…
いや、知る必要がないことを探るのはやめよう。ぼくが彼の面倒を見るのはどうせ数日なのだから。
「そしたらカール、見てるから少し弾いてよ」
「じゃあ、そっちの部屋だよ」
電子ピアノにヴァイオリン、楽譜に譜面台。練習に必要な道具が一式揃った部屋に連れて行かれて、カールはヴァイオリンのケースを開ける。
彼の体の大きさに応じた小さめの分数ヴァイオリン。
「カール、これ、いくつ?」
「なにが?」
「サイズ」
「四分の一にしたばっかり」
「そう。これで四分の一か…」
「ぼく、大きくなったでしょ?」
「うん、そうだね」
「これ、オールドなの。パパもこれだったよ」
「そうなんだ。これ、ぼくも使った気がする…。質感に覚えがある…」
兄とぼくは母からきつめの音楽教育を施されて育った。母はピアノ教師。母と毎日家で練習するあの時間は正直、地獄だった。
兄もぼくも物心付く前からヴァイオリンを与えられていた。
肩に乗せた楽器を首で挟んで弓を構える。最初の頃は音を出さずにそんな姿勢をひたすら叩き込まれ、弓の持ち方が違う、姿勢がおかしい、と毎日同じことで怒られる。
基礎は大事なのだろう。だけど、もう少し優しく教えてくれたら良かったのに。
母の教え方はものすごく厳しかった。
子どもなのに自由な時間は全然ない。ひたすらそんな、楽しくもない練習に時間を費やすばかり。
「ドム?」
「うん? あ、ごめん。ぼくはもう、ヴァイオリンを辞めて結構経っているから、どうやって弾くんだっけなって、思い出そうとしてた」
「もう覚えてないの?」
「何年も経ったから、忘れちゃったよ」
「じゃあ、ぼくが教えてあげる。そしたらドムは大人用のヴァイオリンね」
棚からフルサイズの楽器を出してきてぼくに渡すカール。
「うわ。楽器を持つのなんか久しぶりだな」
「ドム、見てて。こうだよ。手はここね」
カールは慣れた様子でチューニングをしてからぼくに楽器の構え方と手の位置を教えてくれる。そんなことはさすがに、幼児期に覚えた基礎中の基礎なので体が覚えていたのだけれど、カールが楽しそうなので黙って言われたとおりに教えてもらう。
カールは定番曲、きらきら星を弾くようぼくに指示をする。さすがにその程度ならぼくだって今でも弾けるのだけど。先生の言うとおりにしよう。言われたとおりに弾いてみる。
「ああ、ドム、だめだよ。力入れすぎて音が汚くなってる。もっと弓を大きく使うんでしょ?」
「そうか、ごめん。もう、弾き方なんか忘れたよ」
なかなか立派な先生ぶり。カールは楽しいようで、ぼくに延々レクチャーしてくる。ぼくなんか、今さらいくら習ったってヴァイオリンを披露する機会もないのに。
「そしたら先生。ぼくのレッスンはもういいから、そろそろ君の練習をしようよ」
「わかった。そしたらドムは見てるだけでいいよ」
「そう?」
「ぼくが弾くところを見てて」
「うん。今は何をやってるの?」
「モーツァルトの協奏曲」
「もうそんなの弾けるんだ。なかなかの進度だね。じゃあ、どうぞ」
カールはヴァイオリンを肩と首に挟んでぼくを上目遣いに見て微笑んで弓を構える。
演奏が始まると、景色が一転。何だろう…。嘘かと思った。冗談? でも違う。そんなわけない。目の前で繰り広げられているこれは、現実。
ぼくの甥っ子、随分弾ける…。ぼくが想像していた子どもの、あの音程の不安定な聞くに堪えない音では全くなかった。むしろ、大人でも出せないような艶のある音をしっかり出している。なんだろう、これ…。
そうか、そうだよな…。兄が必死の思いで相当仕込んだのだろう。自分の無念を晴らすために。
兄は素人のぼくが見たって一生うだつの上がらない地味なヴァイオリン奏者。息子に教えられることといったら、結局それしかないのだろう。そして自分の人生をカールに重ねて追体験しようとしている。カールの人生では成功を夢見て…
兄の書き残していったカールのスケジュールといい、普段カールが受けているのであろう兄からの音楽教育といい…。
彼の普段のことを想像すると…想像でしかないけれど…。かわいそうに…。
「ねえ、ドム。どうだった?」
「あれ、まだ途中じゃないの?」
「だってここから先はまだやってないの。でも今日は譜読みはやりたくない…」
「そっか。じゃあ、今日はいいんじゃないかな…。カール。感動したよ。ものすごく上手いんだね」
「ありがとう」
「毎日たくさん練習してる?」
「してるよ」
「すごくいい音出せるんだね」
「ドムはそういうのわかるの?」
「詳しくはわからないけど…。一応、音楽事務所で働いているからね」
「なあに、それ?」
「会社だよ。ぼくの勤め先はちょっとだけ音楽に関係あるんだよ」
「ドムもお仕事でヴァイオリンを弾いてるの?」
「いや、演奏は一切しないけどね」
「演奏しないのに音楽の仕事って?」
「そうだよね。そう思うよね」
「ねえ、ぼくのヴァイオリン、だめなところ、あった?」
「そんなのぼくにはわからないよ」
「じゃあ、よかった」
カールはほっとした様子で抱きついてくる。この無邪気さなのに、この年齢でこれだけ弾けるということは、日々の練習がどれだけ過酷なのかも容易に想像できて、当時の自分に重ねるとその不憫さに胸が痛む。
「ねえドム」
「うん?」
「今日は終わりでいい?」
「いいよ」
「本当?」
「そんなの、カールが決めたらいいよ」
「ドム、大好き」
にっこり笑ってぼくを見る。いちいち愛情表現をしてくれる。そんな無邪気なところがかわいい。
子どもと接する機会なんか普段は全然ないから、カールの笑顔、仕草、一つ一つが全部かわいい。子どもって不思議だな。
もう夜も遅いし、明日は学校に行ってもらわないといけないし。いつまでもぼくを相手におしゃべりを続けようとする彼をなだめてベッドに入ってもらう。
「カール、もういい加減寝よう」
「ドムともっとお話したい」
「うーん…。そしたら、ベッドに行ってそこであともう少しだけ話そう。カールはいつもどこで寝てるの?」
「自分の部屋」
「一人で寝られる?」
「うん。でも…ドム…」
「うん?」
「……」
「どうした?」
「ぼくが寝たあとで帰らない?」
「まさか。帰らないよ。ぼくが帰ったらカールは一人ぼっちになっちゃうよね?」
「うん。だから…。帰らないで」
「もちろん。ずっといるよ。明日はぼくが起こしてあげる。学校まで一緒に行くから」
「ねえ、ドム」
「うん?」
「ママとパパ、帰ってくるかな…」
「寂しい? たった数日だよ」
「もう、二人とも帰って来ない気がする…」
「大丈夫だって」
「だってね…。ママはパパが嫌いで、パパもママが嫌いなの…」
「そうなの?」
「うん…。いつも喧嘩してるし…」
「そうか…。大人って、いろいろあるからね…。でも、帰ってこないなんてことはないはずだよ。こんなにかわいいカールにもう会えないなんて、ぼくだったら耐えられない。だから大丈夫。帰って来るよ」
子どもが悩んでいる顔を見るのはつらいものだな…。カールはあの夫婦の様子をよく見ていて、いろんなことを感じ取っている。
「ドム…」
「うん?」
「あのさ…」
「うん」
「ママかパパから聞いた?」
「何を?」
「だから、その…」
「何? 特に何も聞いていないけど…何のこと?」
「何でもない…」
「何か心配事? あったら言って」
「うん…。でも、大丈夫…」
「そう?」
「ドム。ぼくが眠るまでここにいて」
「わかった。そしたら、カールが眠るまで本を読んであげようか」
「うん。あ、忘れてた」
「何を?」
「そこにあるぬいぐるみ取って」
「え? ああ、これか。何だこれ。すごくかわいいね」
「いつもテディと一緒に寝てるの」
明日はカールを学校に送ってから仕事に行く。そんな生活も今週だけだし、カールはかわいいし、楽しくやろう。
そうして眠ると、この家に来たからなのか、ぼくは子どもに戻って母親にものすごく責められながらヴァイオリンの練習をさせられている夢を見た。
当時は本当に毎日嫌な気分で、母親が怖くて、練習がつらくて。でもそこから逃げられない苦しい気持ちで…。
夢を見てこんな気分になるなんて…。さっき久々にヴァイオリンを持ったからかな…。
目が覚めて、それが夢だと分かった時にはほっとして、横を向くとカールが立っている。
「ドム…」
「ああ、カール。ごめん、今、嫌な夢を見ていて…。どうしたの?」
「あのね…」
「うん」
「あの…ドム…許して…」
「なにを? どうしたの?」
「ぼく…おねしょしちゃった…」
「え? おねしょしちゃった?」
「ごめんなさい…」
「いや、そうか…」
「ほんとに、ごめんね…」
「いや、いいよ。だけど、カールはまだおねしょ治ってなかったの?」
「いつもするわけじゃない…」
「そうか…」
「ちゃんと寝る前トイレに行ったよ…」
「そうか、わかった。大丈夫。怒ったりしないから」
「今日はしないと思ってた…」
「そう。わかったよ」
「あっちのベッド、濡れてて眠れないの…」
「そうだよね。じゃあ、ここで一緒に寝る?」
「うん…」
「あのさ、おねしょしたら、この後ってどうすればいいの?」
「え?」
「なんて、カールに聞いても知らないよな…」
「……」
「ちょっと待ってて…。ちょっとだけ、カールの部屋を確認してもいい?」
彼の部屋の様子を見に行くと、濡れたベッドはそのままで、着替えて濡れたパジャマが置きっぱなし。こういうのって、どうすればいいんだろう…。
子どもの失敗だし、責めるつもりはないけれど後始末の仕方がわからない。明日は仕事だけど、このベッドを放置するわけにもいかないのだろうし…。
きちんとしておかないとぼくがミアに怒られるかも…。
とりあえずシーツとパジャマは洗濯すればいい。この、カールが描いた失敗が染みたマットレスは?
とりあえず水をかけて薄めて拭き取ってみる。それでいいのかな…。さらに濡れて広がっているだけかも…。
「ドム…」
ぼくが一人でベッドのことを悩んでいる、その姿をカールは見ていたらしい。
「ああ、カール」
「ごめんね…」
「いや、いいんだけど…。これでいいのかな?」
「……」
「カール、気にしないでいいよ。平気だから」
「あのね、ドム…」
「うん?」
「平気だと思ってたから…」
「わかったよ。大丈夫」
「本当はいつもはあれを使ってる…」
「あれって、どれ?」
「これ…」
「ん?」
カールが見せてくれたのは防水のシーツ。普段はそれを使っているらしい。
「そうなんだ。そしたら、どうして今日は敷かなかったの?」
「だって…これを使うと…」
「使うと、何かまずいことでもあるの?」
「だって…これを敷いていたら、ドムは…ぼくがおねしょするって思うでしょ?」
「ぼくはそんなの気にしないけど…。と言うか、言われなかったらぼくはこれがその、おねしょ用のものだなんて思いもしなかっただろうし…」
「恥ずかしいから…おねしょのこと、ドムには知られたくなかったの…」
「ああ、そうか…。そうだよね。そんなこと知られたくないに決まってる。わかるよ、カール。恥ずかしかったんだよね。わかった。ええと…それなのに…ちゃんと教えてくれて、ありがとうね」
「うん…」
カールは昼間の元気をすっかり失って泣きだす。
「ドム…。ごめんなさい…」
「大丈夫だから。泣くことない。こんなのどうにかするよ。ここの始末はもう、明日の朝にしよう」
客室のベッドでカールと二人横になって、まさかここでもう一度おねしょしたりしないだろうか、ここにさっきの防水シーツを…と一瞬思ったけれど、それを言うのもかわいそうだし…。
カールはぼくの隣でもう寝息を立てて眠っている。
ぼくはさっき見た夢を思い出しながら、あんな子ども時代が終わって本当によかった、と今更ながらほっとする。どうして無理やりヴァイオリンを弾かないといけなかったのだろう。
そう思うと、カールは? 物心つく前から兄の無念を押し付けられていたのでは?
でも、ヴァイオリンって、そういう楽器なんだよな。本当に楽しんで演奏している人っているのだろうか。苦しくて辛くて悲しくて。
もちろん、自分の出した音で音楽ができていくのは楽しかったけれど、あんなふうに強制されたら楽しいものも楽しめない。
ぼくは元々才能がなかった。兄も同様だったと思う。ただ、楽器の習得というのはある程度の時間をかけると才能がない人でもある程度のレベルまではいける。
母からの期待は第一子である兄に偏っていたのだと思う。兄はそれを強制され、期待されて重圧をかけられていた。
兄はその期待に応えようと一生懸命だったし、実際ある程度のレベルには到達した。
けれど、所詮はあのレベル。
演奏だけで生きていくほどの力はなく、数名の個人レッスンを抱えて講師業をすることでようやく生活が成り立つ程度。
人生をかけて多大なお金をも費やすのに、稼げるようになる人はごく一部。兄はそういうふうにはなれず、何かを成し遂げるほどのカリスマ性もなく、かと言って今さら他の仕事をするほどの知識や経験もない。
すやすや眠るカールのきれいな顔を眺めながら、この子は、そういうことを強制されて大丈夫なのだろうか、と心配になる。
兄がこの子に、母がしたのと同じような多大な期待をかけて無理な圧力を加えているのは何となく見てわかる。
兄は自分が成し得なかった、より輝かしい未来をこの子で夢見ている。
翌朝。二人で家を出て学校まで送っていく。登校しながら何気なく聞く。
「カール」
「なあに、ドム」
「いつもはどういうふうにヴァイオリンの練習をしているの?」
「パパと二人で」
「楽しい?」
「……」
「楽しくない?」
「わからない…」
「そうか」
「あのさ、ドム」
「うん」
「ドムはどういうお仕事をしてるの?」
「ぼくはね、いろんな演奏家のコンサートのお手伝いをしたりする仕事かな」
「パパのお手伝いも?」
「え?」
「パパも演奏するでしょ?」
「ああ、そうだよね。でも、パパはうちの事務所ではないからね…」
「ぼくのコンサート、いつか手伝ってくれる?」
「もちろん。カールがコンサートをするなら最高の準備をするよ。みんなの前で弾きたい?」
「パパはそうするべきだって。そのためには練習だって」
「たしかにね。だけどカール、君は本当に、いけるかもしれない。人前で弾けると思うよ」
「ぼく、上手かったでしょ?」
「うん。上手かった」
「ぼく、何でも弾けるんだよ」
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