バレンタインか死か選べ
ノックの音がした。
覗き穴の向こうには十七歳くらいの少女が黒いワンピースを来て立っている。いつものポニーテールを今日は解いていて、肩まで降りた髪は微妙にウェーブ掛かっていた
一目でわかった。
二ヵ月前から俺を狙う殺し屋である。
「何の用だ」
「チョコを渡したくて」
「……は?」
「今日はバレンタインデーです」
俺は耳がおかしくなったのかと思った。
何故殺し屋がバレンタインのチョコを持って、のこのこターゲットの家にやって来るというのだろうか。
「……聞こえてますか?」
「聞こえてる」
「じゃあ返事してください。殺しますよ」
そうは言うが、彼女は両手に抱えた紙袋の他に何も持っていない。いつもは長射程のライフルを持っているが、今日は丸腰である。
「聞こえてる。お前はバレンタインのチョコを持ってきた。そうだな?」
「ええ。だから開けてください」
「開けられるわけないだろうが……」
「え……? 何でですか?」
「お前が殺し屋だからだよ」
「だから今日はチョコ持ってきただけだって言ってんじゃないですか。チョコですよチョコ。わかります? カカオが原料のバターと砂糖と」
「わかってるわかってる! 問題はチョコを持っているのが殺し屋だって部分だ! 開けた瞬間バキュンとやられるだろ! それか、チョコに毒が入ってるか」
ドアの向こうの少女は「はぁ、」と溜め息をついて首を振った。
「頭が悪いですね。だから誰かから恨みを買って殺されるんですよ。いいですか、よく聞いてください。バレンタインデーは一年に一度です。そして、私はあなたを毎日殺そうとしています。どっちが優先されるかわかりますか?」
「いや、殺しの依頼だろ」
「そうです、年に一度しかないバレンタインデーです」
こいつ、俺の話を聞く気が無いのか。
「そしてもう一つ考えてください。今扉を開けないと、私は家にライフルを取りに行って今日中にあなたを殺します。だけど、今扉を開ければ少なくとも今日はあなたの命が保証されます」
「お前に狙われても俺はずっと逃げ続けてるぞ。家に入れる方がリスクだ」
「それは……それは私がわざと逃がしているからですよ」
「嘘吐け下手くそ」
「は? 殺しますよ」
「やってみろ。じゃあな」
「あ! 待ってくださいよ。ねぇ開けてくださいよ」
ドンドンドン、と乱暴に扉を殴る音が聞こえたが、無視してソファに寝そべる。溶接用具でも壊せない扉と何重にも防弾した窓。この部屋の中にさえいれば、あの少女が何をしようと安全だ。むざむざ中に入れる必要はない。放っておけばそのうち諦めるだろう。いくら廊下で騒いでも無駄だ。このフロアは全て俺が買い取ってある。
映画を一本見終わり、冷蔵庫から酒を取り出そうと扉を開けた時だった。
ブツブツと玄関から何か呟く声が聞こえる。
忍び足で近づいてみると、ポストの口を開けて、殺し屋が呟いていた。
「最初はテンパリングの意味もわからなくて溶かしたチョコをまた固めるだけでいい感じの手作りチョコが作れると思っていたんですよでも固めたら真っ白になっちゃって全然パッサパサの苦い豆を細かくした何かが出来てしまいまして温度管理が大切だと学んだものですからそこから基礎をしっかり固めてそのあとアレンジとしてフルーツやらホットケーキミックスやらを一つずつ試して一番いい組み合わせはバナナとオレンジを少し乾燥させて」
怖い。こいつ、ずっと手作りチョコの苦労話を喋っている。最初にノックの音がしてから、既に二時間が経過しているのに、呟きは留まる事を知らない。この歳で殺し屋なんてする奴は頭が狂っている奴に決まっているが、よもやここまでとんでもないとは。一体いつまで喋り続けるつもりだろう。
その時、殺し屋は目的の為なら三日以上飲まず食わずで潜伏出来るという噂を聞いたことを思い出す。今呟き続けている殺し屋を見る限り、嘘ではなさそうだ。玄関からずっと出られない。こんな時に限ってちょうど食料の蓄えが切れており、明日には食うものが無くなってしまうのだ。
三日ならまだいい。この少女がもっと忍耐強かったらどうする。
俺が餓死するのが先になりはしないか。
つつ、と汗がこめかみから垂れた。
少女は未だに喋り続けている。
「わかった。おーけー、わかった」
「お、入れてくれますか?」
「入れてやる。ただし、手錠を渡すから手と足に付けろ」
「いいですよ」
あっさりと返事した少女に、ポスト口から手錠を渡す。覗き穴越しに、しっかり両手両足を施錠したのを確認してから扉を開けた。
紙袋を抱えてキョンシーのようにピョンピョンと入って来る少女。
無表情なので余計に死霊っぽい。
殺し屋のキョンシーはそのまま迷いなくソファに座り、目の前のテーブルに紙袋を置いた。両手でもたもたと取り出したのは、一口大のハート型に固められたチョコだった。
全部で八個。
「どうぞ」
「お前がまず食え。そしたら食ってやる」
「じゃあ食べますね」
「待て。俺が選んだ七つを全部食べろ。そうしたら残りの一つを食べてやる」
「ええ……」
そこで少女は初めて表情を崩した。心底嫌そうな顔をしている。
「当たり前だ。これが最大限の譲歩だ」
「一生懸命作ったんですけど。一個一個違う味なんですけど」
「食べてもらえるだけありがたいと思え。なかなかいないぞ、自分の命を狙う殺し屋からもらったチョコを食べる奴」
しかめ面で睨んでくるのを無視して、七つ選んで少女の前に置く。
「……半分」
「あ?」
「私が半分食べますので、それで安全だってわかったらもう半分を食べてください。そうすれば全種類食べれますよね?」
怪しい。どうしてそんなに全種類食べさせたいのだろうか。
しかし、彼女の提案の方が安全かもしれない。俺のやり方だと、十二パーセント以上の確率で俺が死ぬことになる。殺し屋とはそれくらいのギャンブルを平気でやって来る。
「……わかった」
少女は頷くと、チョコを半分齧って渡して来る。彼女が全部飲み込んで、五分待った後、同じものを食べる。
テーブルを挟んで、見つめ合いながらチョコを食べる構図は些か気持ち悪い。しかし相手が変な事をしないか見張っていなければならないので、目を離すことは出来ない。
チョコは美味かった。イチゴやバナナ、オレンジの風味がするチョコや、ウヰスキーが入ったチョコもあり、一瞬目の前の少女が殺し屋だという事を忘れかけた。
やがて何事も無かったかのように、八個を食べ終える。
「……本当に何も無かったんだな」
「だから言ったじゃないですか。チョコをあげたかっただけって」
「何が目的なんだ……?」
「ずっと私は同じ事を言っていますよ。今日はバレンタインデーですから」
でも、と少女は言葉を切る。
それと同時に、彼女に嵌っている手錠がするりと外れ、何処からともなく現れた拳銃が撃鉄を起こされた形で俺の眉間に押し付けられた。
「命拾いしましたね。食べてもらえなかったら、殺してました」
あまりに鮮やか。あまりに慣れている。マジシャンでもこうはいかない。
背中と脇から、大量の汗が流れるのを感じた。
「……助けてくれ」
「だから、今日は殺しませんよ。向こう一ヵ月も殺しません」
殺さない、というのが本当にそのままの意味であることを知る。殺せないのではなく、殺さない。玄関の向こうに居た時に言っていた言葉が蘇る。
『私がわざと逃がしているからですよ』
くるくると拳銃を回してからポケットに入れ、少女は満足そうに玄関へと向かう。当たり前のように足の錠も外れていた。
「ホワイトデー、楽しみにしてますね」
ハッピーバレンタイン、という言葉を残して、殺し屋は扉の向こうへと消えた。
バランスを崩して椅子から転げ落ち、初めて自分が呼吸を忘れていたことに気付く。
向こう一ヵ月は殺さないって、そういう事かよ。
ホワイトデー、何を渡せばいいんだ。
こんなにドキドキするバレンタインデーとホワイトデーは、学生時代にだって無かったぞ、ちくしょうめ。
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