10-3

雪は赤松にも針葉にも絶えずまとわり、山茶花の剥きだした花蕊に結晶が残った。突き抜けた冷気は容赦なく校舎を侵し、なるべく暖を取りたくて廊下に群れる人も今日は少なかった。チャイムが鳴ると声はすっかり雪に染み、屋内ですら白む息が寸胴な廊下に浮かんで消えた。



次の授業も教室だったが、結衣はひたすらこうしゃをさまよった。とてもあのクラスには戻れる状況じゃ無く、色んなことが積もって結衣は押しつぶされそうだった。


いっそ高校ここから飛び出したら、そう思うのに、結衣の足はどうしても靴箱とは反対方向へと向いていた。





東棟の一室は中の作品が褪せぬようカーテンを引いており、教室の前はずっと年中暗かった。結衣は白く息を上げ、瞳を揺らした。美術室の前にクララの姿が見えた。だから、結衣も彼を前にどう説明すればいいか、分からなかった。


クララと呼びかけ、結衣ははたと息をのんだ。今更ながら、彼に何を頼むつもりだったのか、まったく考えていなかった。本当に、つくづく人任せだ。


結衣はクララが手に提げたものを見て止まった。


「それ、」


クララはこの時ばかり、じっとゴミ箱にうつむいていた。


捨ててあった薄桃色の袋には見覚えがあった。それもそのはずで、巾着の形をしたそれは結衣が体操着を持ってきたまま、昨日なくした袋だった。


ただ見つかっても結衣は、鉛が臓器に注がれるような心地だった。袋には頑張って洗い消そうとした痕跡はありつつ、落としきれず滲んだ落書きが一面に黒ずんでいた。


結衣は一瞬、押し黙った。


道理で昨日、見つからない訳だった。まさか美術室前まで捨てに来られているとは頭が回らず、きっと朝もクララが探していたんだろう。

結衣の頭には刹那色んな選択が巡ったが、結局苦笑いするしかなかった。


「そこにあったんだ。……気づかなかったなあ」


どうして、自分がこんな能天気に振る舞うのか。

結衣はそうしながら分からなかった。とにかく惨めなのはひしひしと身に染みた。いつぶりだろう、この感じ。ミサンガごしに手首を握り、結衣はもう何百回となる癖をくり返した。


ミサンガを付けてもらって以来、ずっとある癖だ。苦しい時、怒られた時、怖い時、そういう時に、自分を落ち着けるための癖だった。



思い出した。結衣はクララと出会う前から、ずっとこうだったのだ。



クララが教室にやって来る前から、結衣はいつも一人だった。トイレも、移動教室も一人で行った。

そのうち結衣のものはしばしば無くなるようになった。消しゴムから、シャーペンから、必要なものが必要な時期にどこかへ紛失して、それはトイレやあり得ない場所で見つかったり、見つからなかったりした。

打ち明けたくても、母は段々家に帰ってこなくなった。もともとよくない成績は下がる一方で、先生はやる気が無いからだと、見る目が日を追うごと冷たくなった。

まして結衣の話を聞いてくれる人なんて、誰もいなかった。



我慢するのが唯一の解決だった。だから結衣は我慢して、我慢し続けて、



にわかに音を立ててクララがゴミ箱を漁った。出してきたのは一枚の額縁で、絵もちゃんとはまっていた。クララはおもむろにそれを結衣へと手渡した。


「……捨てたんじゃなかったの?」


額縁は、かつて結衣が止めたのに捨てた作品がいつの間にか完成されていた。絵は結衣の手に、確かに生きている重みを感じた。たとえそれが得体の知れぬ何かから貰ったものだとしても。


そんな淡い期待を胸にしたまま結衣は、その風景に見覚えがあった。

クララの絵はよく描けていたから、どの景色かも鮮明に分かった。何せその場所は、結衣が描いたモデルの写真とそっくりだった。真似て同じ物を描いた以外、あり得なかった。


クララは自分の絵の中を指し、低く唸った。



「ク、ラ、ラ」と。



確かにそう言った。今はもう、結衣が耳を添えなくとも聞こえてしまう。彼の声はあまりに鮮明だった。






そのくせ死後の結衣はまったくそれを覚えて折らず、体から抜け出し自分の死体を見つけてなお、自分は生きていると勘違いした。まったくどこまでも都合よく、死んだ後になって生き長らえようとした。


そんな結衣を、彼は見かね甘やかしてしまった。


絵中の公園は、結衣がミサンガを結んでもらった場所だった。あの瞬間、結衣は再び世界を生きているみたいに、長らえてしまったのだ。彼はきっと、お返ししただけのつもりだっただろう。


クララの声が聞き取れなかったのは、結衣がまだすっかり生きているつもりだったからだ。


彼が本当に言った言葉は「クラモトソラ」、結衣がぬいぐるみにも付けた、仲良しだったそらくんの名前だった。結衣はおばあちゃんに教えてもらったミサンガを、いつも遊ぶ公園であの子にも結んであげたのだ。

でもその子は、結衣が就学する前ぱったり公園に来なくなった。


『お願いが叶うまでは、そのお守りを外しちゃいけないよ———』


今思えば冗談めかした祖母の声がよみがえる。


結衣は声を上げたかったが、いつの間にか喉も、口も、目も皆奪われて何も出来なかった。ただ肩を押さえてくる手が、紙袋頭の下からのぞいた大きな舌が、結衣を待ち望んでいたとばかり覆いつくす痛みはどこまでも続いた。


結衣の抱えていた額縁が廊下に角からぶつかり欠けた。

クララの咀嚼で結衣の骨も派手に音を立てた。もう誰も助けの来ない世界の端で、クララの足下に彼のミサンガがほどけた。




公園でミサンガを結んであげた時、結衣はお願い事を教えてもらっていた。




「ずっと、一緒にいようね?」


結衣の体はすっかり変色し、廊下より冷え切った肉片は見る影も無かった。それでもクララは、二人の都合のいい幻の中で、頭からかぶりついたその亡骸にやさしく体を重ねた。

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クララ 書夏 @SyokaHARUMURA

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