10-2

「先生、」


ようやく授業が終わり、結衣はこわごわ教壇に立った。若い女の英語教員は、授業より低めの声で何と返す。


「宿題のプリントが、返ってきてないです」


結衣はスカートのひだに手のひらを握りこんだ。あら、と先生は仏頂面を崩さぬまま辺りを探った。すぐに出てくるはずも無いものだから、先生は大人しい結衣を疑り深そうな目で一瞥し、チェックシートを兼ねている帳簿を取りだした。


結衣は勝手に身を縮込ませた。英語は特に、中間考査でしっかり赤点を食らった科目だ。中学から苦手ではあったが、先生が優しかったからここまで怯えることは無かった。


それに目立ってサボるほど肝が据わっていない結衣は、ちまちました提出物は曲がりなりにもほとんど出していた。が、上の空な授業態度とか、そもそも成績とかでこの先生の中での結衣の評価は高くないようだ。そういうのを肌で感じとってしまう結衣は、だから今まで極力関わってこなかったのだが今回ばかりは仕方なかった。


先生は帳簿を指でなぞった。


「宿題なら、もらってないはずよ」


えっと結衣は顔を上げたそんなことない、結衣は確かに考査後は一度も提出物を欠かしていなかった。中学の先生はまず自分の間違いを勘ぐってくれたが、高校に入ってますますついて行けない結衣に各担当教諭の態度は徐々に冷めていっていた。


さすがに違いますと返そうとした結衣は、先生の顔を覗いて息が止まった。


「……あ」

「え?」


吸った空気が胃の内容物と混ぜ込んだ後、漏れたような声が出た。驚いた結衣に先生は首をかしげた。


その途端、傾けた方の目がまぶたの輪郭ごと、するりと頬のとこを辿って顔からこぼれ落ちた。


笑えない福笑い顔になった先生が、「そもそも」と残った目を帳簿から上げた。

「あなた……誰だったかしら?」


そう言い終わった途端、最後の音をかたどった先生の口元から灰汁色の唾液とともに、ぼと、ぼとぼとと歯が落ちて溶けだした。


息が出来なかった。喉がどうしても締まって、気づいたら教卓のCDデッキが派手に音を立てて落下していた。


結衣は教卓を下がった。落ちた拍子に飛び出したCDの円盤が蓋の端で傷を付け、床にカラカラと回った。教室にいた皆が、驚いたように教卓を振り向いた。


「あ、……あっ…………」


先生の顔が溶けていく。さっきまで教鞭をふるっていた先生が、のっぺらぼうになっていく。結衣は自分の手首を確かめ、さっと教室を見渡した。


この光景は結衣にしか見えないのか、それとも皆も驚いたように先生を見つめているだろうか。結衣はそれが知りたかったのだ。だが事実はそのどちらでも無く、皆どこを見てもいなかった。


嘘みたいだった。だって、結衣の目に映った彼らは皆、先生と同じように目すら溶けたのっぺらぼうになっていた。

彼らの零点みたいな白紙面が結衣の方を向いて、沈黙の水面下でざわめいた。



結衣は堪えられず、その辺の机を押し倒し教室を飛び出した。口が無ければ言葉も発せ無いはずなのに、ぼわんとした反響がいつまでも頭にこびりつき天井、壁、周りの全てを覆った。


なに、これ。


廊下を走りながら、結衣はミサンガを結んだ手首を握りっぱなしだった。ただでさえ狭い喉を息がせわしなくこすり、顔が上気した。

なぜ教室にいた人間が、いや通り過ぎる人の顔が全て無くなって見える。結衣は今更トイレの鏡で自分の顔を確かめるとも、立ち止まってまじまじ他人の顔を見直すことも出来なかった。こんな時、頼りになるのは一人だけだ。


クララと結衣は呼んだ。

どうしてこんな時に限っていないのだろう。自分の死体を見て痣に侵されていた時も、刃物を持った男に殺されかけた時も、のっぺらぼうになった時も、助けてくれたのはクララだった。


階段にさしかかったところで、急に曲がろうとしていた生徒とぶつかった。足がふらふらし、結衣はうずくまってしまった。クララだったら良いと思ってそのズボンの裾を引いたが、上履きは彼より小さかった。


「大丈夫?」


聞き覚えがある声だった。靴先に書いてあるマジックの文字に目を開き、結衣はとっさに顔を上げてしまった。


「水、飼くん」


結衣にいま無事に顔が残っていたなら、彼女はどんな表情をしていただろう。水飼は資料集を抱え、涼しく切りそろえた前髪の下にはあのどこか芯の冷えた目が結衣を見下ろしていた。


水飼に顔が合って、結衣は不本意ながら安心してしまった。話が通じるとすればこの場に彼しかいなかった。


「なんで……皆顔が無いの」


結衣は歯の奥を鳴らした。廊下は初雪に冷え込み、底まで沈んだ灰白色の中、口の無い生徒たちの声が反響ばかりをくり返した。教室の端から踊り場に顔を失った中年教諭がさしかかったが、彼はこちらに目もくれず階段を下りていった。


ぐつぐつと、どこからともなく嫌なあの感じがせり上がった。結衣は吐き出しそうになりながら、平然とした水飼を睨み心内毒づいた。クララのように助けてくれやしない、水飼が憎かった。


結衣の目を覗いた水飼は、一瞬彼でもそんな顔が出来るのかと失礼なことを思うほど、珍しく寂しそうに歪んだ。


「時間切れだ」


水飼が呟いたが、結衣にはほとんど聞き取ることが出来なかった。


目の前に資料集がうつ伏せで崩れ落ちた。避けられず結衣のみ上げた先で、水飼の体から力が抜けた。彼の顔はすっかりもう、何もなくなっていた。


どろりと水飼の体は、解けて床に沈んでいった。


あっと結衣はただ手首を握りしめて固まった。後には水飼が置いていったもろもろの教科書や本の上に、たった一つ人型の紙がへたっているだけだった。

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