第10話 叶い事
10-1
翌朝、目を覚ました結衣は、布団を被っていても分かる冷気にぶるりと毛布の中で凍えた。
今日は一段と冷える日だ。昨日から曇りっぱなしで太陽が顔を出さないせいだろうか。用を足しに結衣が自室を開けると、リビングにはひさびさ母の姿があった。
「あ……おはよう」
結衣はゴムの緩いパジャマの下を引き上げながらもごつく。母は手鏡片手に紅を重ね塗りしていて、うんともすんとも返さない。机には夜何日分かの夕食のパックがそのまま残っていて、結衣はしまったと洗面所の奥に隠れた。出しっぱなし、ことにごみの放置は母の逆鱗なのだ。
しばらくトイレに籠もっていると、バタン、と外で何度か無造作に色んなところを閉める音がした。忙しい時の母の音だ。最後の完全に無愛想な鍵音がやんで、ようやく時計の秒針がまともに聞こえるようになる。
トイレの水をひねり、朝一番長いため息と共に結衣は洗面所に出たついで手と顔を洗った。
女二人が危ないからって母は警戒しカーテンをぴっちり閉めて出るが、じゃあ電気くらい点けていって欲しかった。結衣は手探りでキッチンの照明をオンにし、煩雑なダイニングの上を照らした。昨日のおでんに一昨日より前のパンや弁当のごみが散乱している。
結衣は仕方なく、ざっくり両手でまとめ、蓋付きごみの方に一切合切一緒くたに捨てた。さっき母がこのテーブルで化粧していた分、ごみがある程度寄せられているからまだ楽だった。
そもそも母は結衣の不始末に嫌そうな顔をするけれど、これは世代を跨いで受け継がれた母の遺伝だ。今ごみを抱えてみても、時々覚えのない菓子袋やカップラーメンの容器が見える。これは母が紛れ込ませたものだろう。忙しいのを娘に当たるのはよして欲しい。
ともあれ今日の昼食は、と机上に金を探したが、今日はそれすら置かれていなかった。
結局何とか冷蔵庫に在るもので昼を見繕ったが、そのぶん時間が押して結衣はいつもの電車の一本後に乗る羽目になった。
教室に着いた時ホームルームは既に始まっていたが、担当は連絡事項を読み上げるだけで帳簿に目を降ろしていたから、結衣はお咎めのないうちにさっと自分の席に着いた。隣のクララもまだ来ていないようで、雑多なプリントが詰めこまれた机の下から端の角がはみ出ていた。
教室でひとりになるのはいつぶりだろう。
授業が始まってもクララは来なかった。6かける6の机が等間隔に並んでいても、空いたその席だけずいぶん広々して見えた。窓には真っ黒な空が重く垂れ、教卓上でイベンチュアリー、と英文の一節を読み上げるCD音声がひとり鳴っている。
あ、
と結衣は瞬いた。見間違いでは無く、空にはぽつぽつと白い雪が現れだした。
今年初めて降る雪だった。そうか、もうそんな時期だったかと結衣は思い返し、ふと懐かしくなった。
昔もよく祖母の病室で預かられ、こうして雪を眺めていたものだ。保育園が見つからず、母も忙しかった時期だと思う。一番お気に入りのぬいぐるみを持たされたまませわしなく置き去りにされ、最初はいじけて閉じこもりがちだったが、祖母は格段優しかったからなんだかんだ家より居心地がよかった。
今考えれば、あそこからの景色を美術の題材にした方がよかったかも知れない。そうすれば一面雪だから、描くことに上手いも下手も出なかったろう。
先週回収されていたA4の宿題が返され、前のプリントをもらった結衣は首をかしげた。
自分の分が無かった。先生がどこかの列か、あるいは他のクラスの山に紛らせたのだろう。結衣は後で取りに行こうと残りの宿題を後ろに回した。
雪は今日一日かけて降り続けるらしい。まだ量は少ないながらも粒の大きい牡丹雪に、明日の朝はよく積もっている予感がした。電車が止まるなら休校だからそれもアリだと不純なことを期待しながら、結衣はノートの端にうさぎの落書きをした。
あれからキーホルダーは駅にも問い合わせたが、多分もう帰っては来るまい。そのキーホルダーというか、うさぎの形自体が結衣は好きだからそこまで残念では無かった。落書きでうさぎを描いてしまうのはもはや、癖に近かった。
とはいえ、これも一応テスト前に提出するノートだ。体裁は整えないと行けないから、結衣は消しゴムをノートの端にかけた。同時に板書も黒板のスペースを失って端から消されていったが、ノートを取る方はすっかり忘れていた。
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