第7話 行列
7-1
携帯に人身事故のニュースが入ってきたのは、七限の授業が終わった後のことだった。
二年はちょうど修学旅行、三年は受験組に合わせて六限で終わる木曜日だった。路線を確かめた結衣は、ばっちり帰宅ルートと被っていてしばらく口を半開きにした。
終礼で教室に来るなり担任は、今日の部活はすべて中止だと連絡した。結衣はここまで電車を一本乗り継いで登校しているが、その本線がやられたらしい。
ここから都心まで一直線に繋がる路線だ、逆路線にはもっと川と田畑しかないへんぴなところまで繋がっているが、パイプラインと言っていい。
ヤバいんじゃない?と事故を気にする声がこそこそと広がる。運転見合わせから更新されないホームページを見つめ、結衣も眉を寄せていた。中学まで徒歩でしか通ったことがない分、こういう対処にはまったく慣れていなかった。
どうしよう。学校に一日泊まることになるのか?
何度も似たような記事を漁り、結衣の指はスマホの画面をせわしなくスクロールした。きっと担任が直にこんな連絡するくらいなのだから、当分復帰は見込めていない状況なのだろう。部活があったクラスメイトは半分くらい喜びを隠しきれていなかったが、その嬉しそうなほとんどは徒歩か自転車通学だ。
どうしよう。どうしたらここから逃げられる?
青ざめた結衣の隣で、コツ、と不意にクララが音を立てた。
はたと結衣の意識がスマホ画面から引き離された。
クララは何度か、指先の爪を木盤上に打ちつけコツ、コツと結衣にしか聞こえぬ音を鳴らした。同時にそれは現実にも教壇の方から聞こえ、結衣は前の音を拾い上げた。
担任は短いチョークで、前に貼った経路変更する各方面へのアクセス表を印刷したプリントを叩いた。
「一応、各先生がその辺の道に立ってるから。分からなかったら聞けよ」
そう言ってやや不機嫌気味に担任はクラスを解散させる。せっかく陸上部がグラウンドを広く使える日に、こんな事故が起こったのが納得いかないのだろう。具体的な道例は読み上げられもしなかったので、関係するクラスメイト何人かは前の貼り紙に集まった。
クララのおかげで平静を取り戻し、結衣は小耳に挟んだルート案内の紙を見に行った。
壇上からなるべく人の波が捌けた後、そのプリントを仰ぐと、結衣の家までの代替路線はバスだった。しかし家まで一番最短と思しき系統の停留所を地図で見るが、地元のはずの結衣さえ覚えのない場所だ。ここから典型的な住宅都市である結衣の家近くまでの交通手段がどれほど需要が無いか、ここに今著しく現れている。
幸か不幸か、今日は昼の勾配でパンを買いそびれたぶん千円札がポケットの中に残っている。
足りないことはあるまいとバスを検索にかけた結衣は、そこでようやくあることに気になり指が速まった。歩きスマホする結衣の後ろをのろのろと付いてくるクララは、その薄べったい液晶パネルを見て四角い頭をぐるぐるひねった。
バスの間隔は一時間弱だった。それを知るや、結衣はぱっと画面の右上に今の時刻を確かめた。———それはもはや可能性なんてやわなものじゃない、予兆らしき肌寒さはすでにいつもの勘のように、結衣の背筋にぞくぞくと走っていた。きっと天が授けた凶兆だから従うほか無い。
珍しく正門から出た結衣が右に折れようとした時、「そっちじゃないよ」とその声はかかった。
「森川さんは、僕と同じ左だよ。これを逃すとバスはなかなか来ないし、一緒に帰ろうか」
正門の内側から柔らかな声がする。真後ろにはクララが立っていて、結衣の目には映らないものの体のこわばりは押さえられなかった。
結衣は今しがた、何とか見えない体でクララを透かし向こうを見つめた。きっと、結衣が見ているはずだったそこには水飼が立っていた。
終着のセンタービル前で降ろされた時には、西空には宵の明星がすっかり瞬いていた。
何用のビルかは知らないが、よくこんな所を終点にしようとしたなと関心する程度にはへんぴな場所だった。ここから河川敷に沿って国道を下り、ショッピングモールの突き当たりで信号を左折してから教習所や団地を迂回すれば中学校区の東端が見えてくる。
「暗いし送るよ。どうせ、僕の家はさらに歩いたところだから」
水飼は一度マップを見ただけで道のりを把握できたのか、結衣より先を迷いなく歩いた。クララはいつもの猫背で、バスを降りても着いてきている。結衣も水飼神社の場所は知っていたから、敢えて別々に歩こうとも提案できず黙って水飼の背に続いた。
多分いつも使う駅から遠い製だろう。知らない街、知らない道の標識に目を泳がせる結衣に、水飼は無愛想な弁事しかなくても他愛のない話をぽんぽん降り続けた。
「あそこのショッピングセンター、もとは社宅が建ってた所なんだけどね……」
水飼はあれから、一度も携帯のマップを取り出すことなく進む。もしかしたらこの辺の土地を知っているのかもしれない、と結衣は思った。校区じゃないが、そうだとしても彼なら十分あり得る。中学で水飼と一緒のクラスだったのは三年の時だけだったが、彼が神社の子というだけでなく別格なのは、結衣以外にも皆なんとなく感じとっていた。
「中学の時の校区とはちょっと外れるけど、ここはゆかりのある寺院だよ」
団地の切れ目で向かいの小森を指し、水飼は言った。結衣も真っ暗がりにぼんやり明かりの灯った雰囲気が気になって目をこらした。中の光はさすがに暖色のLEDだと思うが、提灯の背には神社とまた違ったお堂が切り立っている。
「あ」
その寺を流し見て、結衣はひとつ思い出したことがあった。まるで知らないと思っていた景色が、前にそびえた石碑を中心に周辺からじわりとよみがえってくる。校区の外なのは確かだが、そこは知っている。
結衣、一度ここに来たことがあったのだ。
中三の九月だった。結衣の学年は一度、ここの寺院に来て黙祷を捧げていた。夏休み中に亡くなった、同級生のためだ。
家の工場で働いていた父親が鉄筋を階上から落とし、下に居合わせた同級生の肋骨を潰したらしい。結衣は一度たりとも同じクラスになったことが無かったが、クラスの何人かは目頭を押さえてうつむいていた。
結衣はそこで人生初めて縁のある故人に黙祷を上げた。人の死を悼む余裕はなく、結衣はずっとそわそわしていた気がする。合図があって黙祷したが、しばらくずっと自分ばかりが目をつぶってるんじゃないかと、そんなことを怖がっていた記憶ばかりある。
それから不思議と覚えているのは、その日寺院には水飼がいなかったことだ。
「僕がもしこっちの家に生まれていたら、あの猫の葬儀も仏式だったかもね」
水飼が本気か冗談か分からぬことを振るので、結衣は言葉に詰まって返せなかった。
猫、とは以前グラウンドに現れた野良猫の話だろう。神主を水飼が務めたと聞いた時はまるで同級生が自分とは異なる世界で生きているようでため息しか出なかった。
ちらっと水飼の背を見上げると、さらさら下りる後ろ髪が若干襟足にかかり、距離感が近いのも相まって質感さえ分かるほどだった。
「あれね、結構大変だったよ。神社の境内には棺を入れちゃ駄目だし、飼われてたんでもないから新たに神棚のある家を探さなきゃ駄目でさ」
「え……じゃあどうしたの」
「それも前川先生にお願いした。車も出してもらったし、あの先生はMVPだよ」
どんな風に転がされたのかは知れないが、前川も不憫だ。その先生なら結衣も知っていた。前川は気が弱そうで、一年のフロアにも生物を教えに来ている教諭だ。シャツのチョークがいつもこびりついていて、おじいちゃん先生愛好家の女子にも「ウチらが隙なのはおじいちゃんで、おっさんじゃないから」と線引きされている可哀相な先生だ。この前はクラスの女子生徒が餌付けしたり、それで葬儀一式の肩荷を負わされたりと不憫なことが続いているので、修学旅行を引率している今くらいは現地で美味しいものでも貪っていて欲しい。
「どうにも棺の処理が大変でね。神道では、死を穢れとみなすんだよ」
水飼は校区を東から入り、たびたびヘッドライトの通る車線を傍目に先生遣いの荒さを弁解した。いち生徒が教師を顎で使ったとは、特に水飼ならば思われたくまい。
クララはいつものように物静かで、着いてきていることを忘れてしまいそうなった時にちょうどカサリと音を鳴らし、また結衣の意識を呼び戻しをくり返した。
結衣は水飼とクララの間に挟まれながら、若干見たことある気もする道のりを歩いた。もしかしたら学校の遠足なんかで知っているかもしれないが、何せ明かりがないので昼より感覚は鈍る。
ただ、無いと言ってもおよそ微弱な明かりならそこかしこにあった。電灯もしかり、住宅の電気もしかりだ。
「……この辺、信号多いね」
結衣は前後どちらを相手に話題を振るとも決めず、思ったことを口にした。余計なことをした、と思ったが、水飼はもうもの珍しそうに結衣をふり返っていた。
「森川さんはそう思う?」
「いや、えーと……多分歩き慣れてないから、かな?道は分からないけど信号は見たことある形で、だからそればっかり目が行っちゃう、みたいな」
「ふうん」
うつむいてしどろもどろ噛む結衣に、しかし水飼はもう興味がないようだった。代わりにクララが結衣をのぞき込み、向き直ってしまった水飼の後ろで結衣を励ます。ずいぶん人間らしい所作なのが小憎たらしかった。
信号は指摘したほども無いかと思ったが、車通りの少なさに比べれば渡る場所はやはり多い気がした。急いでいたら思わず赤でも渡りたくなってしまいそうなほど、手狭な道にも信号機はちまちま立って見えた。
「この辺じゃ、信号が赤の時は渡っちゃいけないよ」
水飼が結衣の心を見透かすように忠告する。「絶対にね」
前から差すヘッドライトに結衣は目を細めた。閉店したペットショップや二階建てに細く並ぶ居酒屋の赤茶になった看板が照らされ、再び見えなくなった。一度道の角にあったコンビニを通り過ぎて以来、明かりといえば車道側か、あるいはお愛想程度に玄関を照らす粒大の照明くらいだった。
そんな暗がりだったからだろう。
向こうの白服に身を包んだ歩行者は、結衣の肉眼にもぽっと浮いて見えた。おそらく結衣たちの制服は黒っぽいから、あちらには見えていない。家族連れなのか、白服は一人じゃなくて、何人か固まってゆるゆる動いていた。それもさっきあった水飼の忠告が形無しになるくらい、堂々と車道を渡っている。
「ここらへんはあちらの世界に繋がってるなんて言われててね。特に人間の僕たちは、青信号の間に渡らなきゃいけないんだよ」
水飼は淡々と横断歩道の白を踏みしめ対岸の歩道に脚を伸ばす。結衣はあの白服の群れが気になり、話半分でそっちに目を奪われていた。信号は、青が点滅していた。
「もし赤信号を渡ったら、あの世に連れて行かれてしまうからね」
そう言って結衣は信号を渡りきる。
電信柱の向かいには、背の低いマンションがひっそりと肩を並べていた。植木の途切れ目がベランダから橙の光が漏れて、窓の隙間からはふわりとその家の夕食らしいビーフンの香りが漂う。
程なくして、対の信号で待っていた車がエンジンをかけた。
「……なんてね」
水飼は薄ら笑いを浮かべる。彼の前には塾帰りらしい子を連れて帰る母親の姿が、二つ並んで向こうの信号に渡っていくだけだった。
「今言ったとこで、聞いちゃいないか」
水飼の背に車のエンジン音が風を切って去る。
ふり返っても、そこにいたはずの結衣たちの姿はどういう訳か、忽然と消えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます