5-5

あれから週をまたぎ、テストが返された。

予想していたことだが、結衣の点数は凄惨たるものだった。さすがにクララも見かねたか、今回は彼もテスト用紙を机の中で伸ばしたきり声すらかけてこなかった。


特に億劫なのは、赤点を取ってしまったことだ。そもそも赤点を取るタイプの生徒は二種類いて、いつも騒いで遊んでいるのと、もう一つはこそこそ居眠りしたりゲームに夢中だったりして、大人しく出来ないタイプだ。結衣がどちらに属すかは火を見るより明らかで、そういう生徒は打たれ弱いから扱う先生の態度が変に優しい。優しいというか、身を引いているのだ。三者面談なんかになった時、そういう遠慮を前面に受けて時間が経つのを待つ……分かってはいたが、この苦行が結衣は一番いやだ。















日が照る内はまだ冷え切らないが、もう外は負の風だ。週明けのマラソン練習で、結衣は上だけジャージを羽織ってグラウンドの端に座っていた。体育のグループの反芻が走る間、結葉たちは待ちだった。


隣にはテニスコートがあり、もしコートからグラウンドにはみ出ているテニスボールがあったら仕舞っておけと言いつけられ、結衣は一応あたりを見渡した。教師も人数が足りてないから、余った生徒に暇潰しとして適当な仕事を増やしているだけだ。休憩中の生徒は仲のいい者同士で集まって喋っていたが、注意すらされていない。結衣もひんやりした土の上でしゃがみ込んだ。


そうやって視界がいつもより低くなっていたからだろう。


あ、ボール、とトラックから目を離した結衣は、一つまばたきした。黄色が見えたのは、倉庫と使い古した運動舞踊の部屋が一緒になった棟より日陰になった側だ。あっちをさらに下ったところにあるのが体育館だが、間にフェンスと溝が隔たり直進は出来ないようになっている。


結衣は霜が降りて水気を含みっぱなしの陰を歩いた。下り坂だから、ボールは自然と転がり、溝まで落ちてしまった。汚いが仕方ないので指でつまみ持ち上げる。下草がぐちゃっと結衣の靴の下で音を立てた。


にゃあお


奥の草むらでそう聞こえた気がした。結衣はボールを取り落とした。

日陰の方だったろうか。ぼとりと再び溝にはまったボールに手を足らし、結衣は棟の隅まで目をこらした。


「森川さん、次走るってー」


後ろから髪を二本にまとめた女の子が声をかけに来てくれて、結衣は我に返った。ドッジボールで鼻血を出した時も、真っ先に心配してくれたあの子だ。こんなボール一つくらい、溝に落ちてたって気づくまいと結衣は空っぽの手で立ち上がる。ちょっとしか日陰にいなかったはずなのに、もう体が冷えている。


「ボールあった?」


その女子は日陰に足を踏み入れた。見間違えだったと結衣は笑って誤魔化した。その時、彼女は何かを感じとって立ち止まった。


「?」


結衣は、相手の顔からそれを読み取ることが出来なかった。

女の子は一瞬、奇怪なものでも見たみたいに結衣を見て眉をひそめた。が、口を覆ったあげく、言いにくそうにその子は首をかしげた。


「なんかここ……ちょっと、獣臭いね」


え、と結衣は棒立ちになった。女の子はその臭いを気づけない結衣自体に、若干引いているようにも見えた。その子はそれっきり、さっと一人でグラウンドの方に駆けていってしまった。

















鼻が詰まっている自覚は無かったものの、結衣は臭いの正体を後から知ることになった。


倉庫裏の草むらにいたのは、縞柄猫の亡骸だった。後で女子生徒数名が教師に見回りをお願いして発見された。不思議にもその猫はあばらが浮くほど痩せこけていたらしい。生徒指導部はキャットフードで餌付けしていた女子たちを改めて呼び出し、事情を聞こうとしたが、死んでいたことを伝えるや皆泣き出して全く話にならなかったという。


結局あの猫の死体が、本当に校内にいたものだという確信には至らないまま、その死体は弔われることになった。もしかしたら学校の手違いで起こったことかもしれない、あるいはそうで無くても敷地内だしと、弔う事態に内々で話が揉めていたそうだ。そこにちょうどいい解決策を提案した生徒がいた。


それが水飼だ。


学校は彼が神社の子息だということをそれまで把握していなかったようだ。彼らはその提案を受けるなり、ツテに感謝しながら善意でささやかながら水飼神社に葬儀を立てて貰うことにした。餌をやっていた女子生徒の担任はひたすら頭を下げていて、水飼は持ち前の涼やかな笑顔で応対していた。


「本当に、なんと礼をしていいものやら」

「いいんですよ」


水飼は感謝し倒され、ちょっと困っていそうなくらい目を細めながら、薄くその担任の左の薬指を流し見た。


「……それでお葬儀なんですけど、先生のおうちで上げても構いませんか?」

水飼はぱっと顔を上げた。


「えっ」

「神道では、ご遺体を敷地に持って上がることは出来ないんです」


水飼は申し訳なさそうに眉をひそめた。善意でここまでしてくれる生徒にそんな頼み方をされると、担任も断れなくなってしまう。生徒の尻拭いは担任の責任、とプレッシャーも重くかかり、彼はかたかたと頷いた。


「構わないよ。どうせ僕は、独り身だし」


女子生徒たちの担任は眼鏡の奥で目をしょぼつかせ、こけた頬を気弱そうに緩めた。

















試験の後は部活が再開した。しっかり六限まで埋まった時間割だと、食べ盛りの高校生で食道はごった返していた。購買は13時までパンを売り出し、早く買った生徒から今日も吹き抜けを危なっかしいスピードで鬼ごっこしている。


「あのネコ、死んだの?」


正門前で鳴いてた猫が姿を消してからしばらくたち、噂は沈下しつつまだちらほら聞こえていた。最近食堂の利用が増え、ゆいもそろそろ昼時に食券を買うのが非効率であることに気がついた。今日は予め朝買っておいた分でB定食を頼み、まだ混みきる前の長机にありつく。


「やあ」

食堂の南側から声が掛かる。結衣は後ろめたそうに振り向いた。


「水飼くん」

「よく考えたら、定食ってちょっと量が多かったかな」


水飼は昼を購買で済ませたらしく、菓子パンの袋と手提げの水筒、そして文庫本を脇に抱えていた。結衣は心もちトレーを引いてみるが、B定食はその程度じゃ隠せたものでは無い。チキン南蛮は揚げたてみたいなので、湯気が消えるまでに頬張りたいのを結衣はぐっと我慢する。


「あの猫、第一発見者は森川さんだってね」


悪気鳴く水飼は話を振る。誰から聞いたのと結衣は睨んでしまいそうになるが、よく考えたら体育の授業は水飼のクラスと一緒だった。それにあれは、結衣にとっては過ぎた話でも葬儀を請け負った彼に取ったらつい先日のことだろう。


「……お疲れさまだね」


ぼちぼち箸で皿をつつく結衣の横で、クララは通路の端に身を寄せて電池切れをかましている。このところ、クララは水飼に会うところでは事切れているばかりだ。神社の人とは相性が悪いんだろうかと、結衣は聞いても答えてくれなさそうなことを考える。


「一番大変だったのは前川先生だよ。葬儀と言ってもごく簡易的なものだったら、正規の車も出ないし、全部先生に運んでもらったんだから」


霊柩車代行から送迎まで何とも大変だ。まあ包まずに言えば、買っても無い猫一匹の死でここまで大きくする必要は無かっただろう。葬儀にまで鳴ったのは、きっと無闇に餌をやった女子生徒たちの戒めと、形だけでも浄化した気分になりたいためだ。水飼も人がいいのか、そんな安請け合いでかり出される彼の家の神主も可哀相だと他人事ながら思った。


「猫を飼う時は、責任を持たないとね。お互いに」


彼はそう言って微笑んだ。


「え」


結衣は固まって、思わずチキン南蛮を落とした。ガラス張りの食堂の一角では、猫の葬儀を上げたらしいよとまた誰かが噂している。水飼はもうトレーを持った列の人を避け、奥に消えてしまっている。ほんの一瞬のことで、今更確認しようもない。


だがそのほんの一瞬だ、……水飼の目は、クララを通った気がした。


「もしかして、見えてる……?」


食堂の静かに閉まる扉の隙間で、また反響する生徒の声が切り取られて唸った。そばで猫背になったクララは、じっとその去って行った方をうかがっていた。

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