5-4

『森川さんはさ、聞こえてたの』———


物腰柔らかいあの声がよみがえって、結衣は湯飲みの側面を握りしめた。


夜中にまで思い出すとはまったく困ったものだ。今日は猫の声に怯えたり、水飼と話したりとついてないことが多い。しかし寝て忘れようとするには勉強が追いつかず、結衣は湯気の立ったレモンティーを付けに置いたまま自室に戻った。


シャー芯をカチカチカチカチと出し、出して派もドスをくり返しながら世界史のプリントを眺める。頭に入ってこないがやるしか無く、やるには目覚まし用の手遊びが必要だという負のループに陥りながら、結衣は机に向かっていた。


にゃあお


窓の外で声が聞こえた気がして、結衣は一気に目を開けた。気づけば椅子の背にまで手を掛けていて、出しっぱなしだったシャー芯がぽっきり折れた。


結衣はじっとカーテンの向こうを見透かした。眺めのシャー芯がつるりと指の腹に当たって止まる。気のせい、で済まされそうなその鳴き声に、結衣はじっと耳を澄ました。だがそれは本当に結衣が途切れ途切れ見ていた夢だったのか、ついぞその晩猫の声はしなかった。


テストに野良猫。いやなことが重なって、星座占いでも悪かったのかと思った。だがそんな日でも、まだ嫌なことが学校で閉じているならまだマシだったのだ。

















にゃあお、と声が聞こえるたび、結衣の肩はびくりと震える。あれから声は、学校、家を問わずひとりでペンを動かしていると耳に入ってきた。


姿は一度も見ていない。しかしついに、テストなのに煩いおいう文句も月曜以来聞かなくなった。もしかして、結衣が無いはずの音を聞いているのだろうか。確証を得ようにも、どの人に尋ねようかと考えるだけ足がすくんでしまう。


夜になると、にゃあおと仰ぐ声は何度も聞こえた。ここから高校までは遠いから、きっと近所の別の猫には違いない。しかしいずれにしたって、結衣は猫に家のベランダまで寄せてこられることは一切してないのだ。なのに、カーテンの向こうでは時折窓にキイと爪を立てるような音までする。


















ある昼下がり、まんしょんに帰宅すると廊下で近所のおばさん達が何人か話し込んでいた。


「あ……、森川さんとこのお」


互いにあんまり顔を見合わせる機会が無いから、結衣たちもどんな挨拶をすればいいか分からない。電話口と同じ声でこんにちはあと頭を下げられるので、結衣もモゴモゴと会釈し早く玄関を開けようとする。


「そうそう森川さん」


お隣の叔母さんが急によってくるので、結衣は手の鍵を隠して大袈裟なくらい頷いて見せた。


「っはい」

「最近よく寝られてる?」

「え、あ、……テスト中で、でもはい」

「あら忙しいのねぇ。実はうちもなかなか寝が浅くて、歳かしらあ」

「いえ、そんなことは」

「お世辞なんか言わなくていいのよ。いやね、最近この辺りネコがよく鳴いてるでしょう?」


結衣の心臓がどくりと跳ね上がった。


「夜……、そうなのかもしれない、ですね」

返答の声が小さくなる。


「そうなのよ~。近所の誰かが餌付けでもしたのかしら。子どもが多いマンションだと、こういうことがあって困るのよね」


中身の無い受け答えをして、一同はお愛想程度にからからと笑った。ただ、初めに声をかけてきた隣住まいのおばさんが一瞬、ごく冷めた目で結衣をチラリと見下ろしたのは間違いなかった。結衣は肝をゆっくりと握られるような心地で、震えながら部屋に籠もった。
















明日はテストの締め日だった。最後に組まれた保健体育の座学は何とかなりそうだったから、結衣はそのまま寝床についた。久々に小さな頃の記憶がよみがえり、結衣は冷や汗が引くと同時に疲れがどっと押し寄せた。井戸端会議を牛耳っていたあのおばさんは、結衣が小さい頃からあの部屋に住んでいる古株だった。


今、結衣は夢か現実か分からない延長線上にずっと浮いているみたいな感覚だった。まだ、おばさんが向けてきたあの冷たい目は消えない。私のせいじゃないのになあ、と頭の中でぼやいてみたが、口にも上らぬうちにうとうとと意識は眠りの底へ落ちる。リングの湯飲みに浸したティーパックがそのままだった。




カリ、カリ、キイ、


やがてそんな音が、頭の先でまた聞こえた。

いやな寝覚めだ。結衣はのそりと上体を起こした。いっそこれも夢だったりするのだろうか。


窓越しにはにゃあお、とあの鳴き声もした。カーテンは二重になっていて、薄い方が手前の重い方がちらりとめくれた下より見えて、冷気を孕んでいた。


「しずかにして。お母さんおこるから」


寝ぼけ眼で結衣は呟く。窓の向こうはぎりぎり、前のカーテンが邪魔をして見えなかった。見てみたい、そんな気もしたが、手を出そうとした時ふと自分の手が思ったより冷たくてやめた。マンションは上に行くほど冬は寒くなるのだが、もう夜はこんな気温になるらしい。大人しく布団に腕をおさめ、結衣は中にくるまった。


「……うちじゃ飼えないんだよ」


結衣は長い息を吐いてまどろんだ。そしてそれは間もなく寝息へと変わっていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る