5-6
時はさかのぼって先週末、示し合わせたとおり、水飼は例の猫の亡骸を弔った。
前川宅には餌付けしたという三人の女子生徒が正座しており、神棚の前には白い正装をまとった水飼の姿があった。左の二人は気の沈んだ面持ちで反省した素振りだったが、もう一人は水飼の衣装に始終浮かれた調子で、後々彼に女子トークを持ちかけたりなんかしていた。
葬儀が一通り終わって、女子生徒たちを帰した後に残った二人は前川の車で水飼神社まで走った。
「本格的な火葬は費用がかさむので、こちらで埋葬しておきます」
「本当、何から何まですまないね」
前川はハンドルを切りつつ何度も頭を下げた。
「こちらこそ、家を貸していただきありがとうございます」
水飼は丁寧に返す。こんな家族葬でもないものを、妻帯者だったらたぶん受け入れてもらえなかっただろう。後ろの荷物には小さな棺があって、中に布でくるんだ猫の亡骸が眠っていた。
「しかし、ちょっとびっくりしたな。まさか君本人が神主をしてくれるなんて」
前川はフロントミラー越しにちらりと後部座席の水飼を見た。彼は真っ白な衣に身を包み、上の帽に合わせて普段眉までかかっていた前髪を全部上げている。すっきりした顔立ちは、なるほど神職の家柄らしいとその出生の良さに納得できる。
物珍しさに見入っていたからだろう。気づいた水飼が視線をミラー越しに返し、椅子の背にもたれた。
「形式上そう振る舞っただけです。僕は本来、神主じゃありません」
「ええっ?」
思わず前川はがっくんと車体を揺らした。水飼は髪の型が崩れぬよううなじをひと撫でした。
「神主には資格が要ります。内の神社にも確かにいますが、やはりそういう人って忙しいんですよ」
「で、でもそれだったなら他の日に」
「どうせこの儀もかりそめですから」
いいんですよ、と水飼は前川を押し切り、にこりと黙らせた。はて何がかりそめやら、前川は分からないまま、それでも本件を請け負ってくれた優等生には逆らえなかった。
「あ、そこを右に」
ナビ通り直進して水飼神社の鳥居まで回ろうとしていた前川に、水飼は口を挟んだ。
「神社の裏で下ろしてください。敷地内にご遺体は駄目なんです」
彼の指示通り、前川の車は雑木林へ通れて入った。
やがて神社の裏の、石畳の階段がこけに覆われた道の口に車は停まった。祭祀に使った道具一式と、両手で抱えるほどの棺を下ろして正装のまま水飼は一礼した。
「今日はいろいろ、ありがとうございました」
前川は狐につままれたような顔で、慣れた足取りで石段を登っていく水飼を見送っていた。神社は高台にあるせいか、ここからじゃうっすら影しか拝めない。水飼神社がここにあるということは、彼の家もここに近いのかもしれない。前川は少し気になって、林の入り口に足を踏み入れかけた。
踏み入れて、本当にいいのか?
深い霧の奥に、前川は先に見えなくなる水飼を仰いだ。だがその時、狭い道をすれ違おうとしていた対向車がクラクションを鳴らした。
前川は催眠から解けたように、半ば惜しそうな顔で、舌打ちして運転席に戻った。
境内の裏は一段と霧が濃かった。内ポケット、懐、帯と、装束には何かと物を仕舞うところが多い。祭具をそういう所へふんだんにおさめた水飼は、石段の上まで棺を運んでふうと一息ついた。
裏の雑木林にはほとんど何も無いため、この石段を登るのは関係者くらいだった。こけの生えた石段の目指す先には経大の敷地を示す赤い策が敷かれ、今いるのはそこより下の東屋だ。人は来ない癖、その東屋だけはみすぼらしく石段の途中に構えられ、屋根の下にはただ一つ、大きな井戸が開いていた。神社なので第二のお手水という可能性もあったが、周りに柄杓みたいな物は一つも置いてなかった。
彼が神主を請け負ったのは、今日ここに来るためでもあった。
水飼は埋めると口約束した棺を空け、中から藤色の布地を取りだした。重さは大概があの棺の箱だったようで、中の亡骸は薄い紙束くらい簡単に持ち上がった。彼はさらにその布を端からめくり、亡骸の顔を露わにした。
頬の皮が萎みきり、艶の無い毛がうす黒く見えた。
「まだ残ってるな」
水飼はそう呟き、堅い歯並びの奥に指をつっこむや、手を猫の喉奥まで差した。
当然、息の無い猫はそんなことしても無抵抗で大人しかった。いくらか手が掻き回した後、彼は目当ての物もの掴んだらしく正装の袖をずいと引いた。
なるほど彼は、猫の体の中から何か短い紙切れを取りだしていた。文字は読めぬが墨で文言が綴られていて、髪はふやけたせいか一端がぼろぼろに裂けている。
水飼は紙を井戸に放った。
紙は暗い底にすぐ見えなくなった。あんなのだからどうせ、空気抵抗で水面に落ちるにも時間が掛かるだろう。水飼はゆっくり、視線を猫の亡骸にやった。
そこに彼が抱えていたのは、目がくぼんで無くなり、腐りかけた小さな肉片だった。
生前それは猫だったものにきっと違いないが、既に毛は半分抜け落ち、麦色をした地肌がむき出しになっていた。肉は、あの痩けた亡骸とも、まして餌にありついていた頃の肥えた体とも違った。
つんと異臭が鼻をつき、水飼はさっと布にそれをくるみ直した。石を積み上げた井戸の前に、彼はその足をそろえる。
「もういいよ」
彼はそう言った途端、井戸の上で腕を放した。
ぼちゃっと音がした。また一段と、神社周りの霧が濃くなった気がした。
水飼は何も映さぬ真っ黒な井戸の水面に、自分の白装束を見つめていた。
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