5-3

うだつの上がらぬ週末を挟んでから、結衣たちの高校は考査期間を迎えた。


やっぱり普段からの積み重ねが大事だよな、と結衣は単語リングをペラペラし西北門をくぐった。こうやってまとめた単語集の順番通り出たらまだ答えられそうなものを、何故英単語は文中に散らばるんだろう。昨日は夜遅くまで詰めこんだが、ましてや今回リスニング試験なんて乗り切れそうにない。


テスト前はさすがに余裕もあるまいと、結衣は横目で正門を通りかけたがしかし、キャットフードを抱えた女子生徒が数人、辺りをうろついていた。ネコちゃーんとか、ご飯だよーとか、そう彼女らは三々五々別の方向を探って草むらをかき分けているが、今日はなかなか出てこないらしい。


ビニール袋に分配したコンソメキューブみたいな餌を揺らし、呑気に茂みをうろついていると、向こうから生徒指導部の体育教師が怖い顔で近づいてくるのが見えた。結衣は目を付けられないよう、足早に彼女らと距離を付けた。はたして彼女たちはどうなったことやら。


他人事は他人事として、教壇上のマイクから流れるリスニング問題を解く結衣は、平静を装いひたすらシャーペンをかちかち鳴らしていた。普段はちょっとしたことでやいのやいの騒ぐ教室も、さすがにリスニング中は静かだ。だから結衣もいつもみたいに、周りの反応を見てそれとなく多数決に従うことが出来ない。厄介だ。


ここまで分からない問いは選択肢を③とか(ウ)とか応えていたが、それでは答えが三番目続きで単調になってしまう。さすがに二番も選ぼうか、結衣が伸びたシャーペンの先で②を書ききったところだった。


にゃあお、


とグラウンドで声がした。

結衣は思わず顔を上げた。その間にテストの音源はクエスチョンテン、と一気に問題文を読み上げる。文は紙にも印字されていないから、聞き取るしかないのだ。


にゃあお、にゃあおと、声は確かに開いた窓からした。次の男女の会話文はネイティヴの抑揚そのまま流れ出している。今朝はいなかったはずなのに、あのネコはまた餌ほしさに校門をくぐったのだろうか。声は一匹で、喧嘩する相手もいないだろうに猫はしきりと鳴いていた。


集中しなきゃ、と結衣は用紙にシャー芯をとんとんついた。このくらい、アナウンスの雑音にもならない。


外ではにゃあおとネコが長く声を伸ばしていた。会話文は女声、男声、女声とラリーが続く。結衣の額に、ぷつりと汗が浮かんだ。やがてアナウンスが、クエスチョンイレヴンと唱えた。
















教室を出たそばから背中が丸まっている結衣を、クララは鞄ごときゅっと上から吊るした。二人の足は下校する生徒の流れに従い食堂へと向かっていた。


毎度御膳だけで学校が終わるテスト期間は、食堂の利用客も数が減った。とはいえこの間、食券機に並ぶ人数はあまり変わらない。考査の間は購買が閉まっていて、普段パン派の生徒もこっちに列を成すのだ。


石段から上が見える校舎の吹き抜けは、三学年一気に解放された分いつもよりにぎやかだった。今日の寄り道先を決める女子生徒、テストそっちのけでゲームの攻略法を語る男子生徒の声が入り交じっているせいかもうあの鳴き声は聞こえない。


そういえば、今朝餌をやろうとしていた女子生徒たちも、テストが終わってからは校庭ではしゃぐ様子が見えない。あの後どうなったかは知らないが、中身を確認されたなら餌の袋は没収されただろう。冷めた目で日向の白い反射を眺めていると、奥まった階段側からいつも鬼ごっこしている男子生徒たちが団子になって雪崩れてきた。

今日のテストは詰んだとか、彼らはさも自分がそのことを初めて発見したみたいに大声で騒いでいた。


「あの猫、煩かったよな」


一人が考査中は禁止のはずのクラブバッグを背に回し、片眉を上げた。口を挟まずとも心の中で結衣は同意する。やはり猫のせいで集中が途切れた生徒は一定数いた悪しい。派手な上履きの音に結衣が首を縮めていた時、横を通り過ぎる男子生徒が口を開いた。


「猫?」

「ほら、女のセンパイが餌付けしてたやつ」


クラブバッグの男子生徒は振り向いた。だが彼らは半分ピンと来てない様子だった。


「分かるけど……別に、テストの時はいなかっただろ」


え、とクラブバッグの方が言葉を失った。すると後ろから、いがぐり頭の男子がいやいやと首をつっこむ。


「ケンちゃんもリスニングん時聞いてたじゃん。たぶん体育館側でさ」

「いや聞いてないし」

「聞いてたよ!」


いがぐり頭が言い返すと、今度は聞いてないといった方からも賛同する生徒の声が上がった。結局彼らの内、聞いた者と聞いてない者が反芻に名手別れ、言い合いは代理代理代理戦争みたいにねじれ込んでいった。


結衣は呆気にとられて去って行く彼ら一群を見つめた。石段を上る声は反響の方が大きくなって、あれだけ煩かった声の無いようも聞き取れなくなる。列がじりじりと前に進む中、人に触れぬよう微調整していたクララもじっと彼らの背に紙袋頭を向けていた。


「気になる?」

「わっ」


声が掛かり、結衣は反射的に飛び上がった。食堂のドアから静かに姿を現した水飼はぺたりといつも持っている文庫本を閉じた。こんな短時間で昼を食べ終えた、なんてことはあるまい。食堂は突き当たりの所にも錆びたドアがあるのだ、多分上を通る屋根付き渡り廊下の混雑を避けてこっちをくぐったのだろう。


ひるんだ拍子、結衣の足がクララを踏んだ。ごめん、と謝りそうになって、結衣は口をつぐむ。今は水飼の前だった。


「……気になるって、何が?」

「猫の鳴き声だよ」


水飼は肩にかけたトートバッグを指で指す。中学の頃から変わらずかっちり着こなした黒い詰襟の下では、美化委員の金バッジがピンで留めてあった。結衣に言わせればどこか含みのある笑みで、だって変だろうと水飼はグラウンドの方を眺めた。


「ある人は確かに聞いたって言うのに、他方では全然知らない人もいるなんて」


食券の列はずるずる前進し、ついに発券機が結衣の目の前になる。三塚の手前ちょっと遠慮したが、結衣は350円の天丼を選んだ。

「教室によって、聞こえ方が違ったんじゃない?聞こえる人が体育館に近い方だったとか……」

「残念ながら彼らは皆同じクラスだったよ」


水飼がかぶりを振る。結衣も応えながら、理由はそれじゃ無いと気づいた。声を聞いた結衣の教室自体が、体育館から一番遠い位置にあったのだ。コインが食券機にたまる音に水飼は薄く笑って首をかしげる。


「さあ、何でたと思う?」


下の蓋にしゃがみながら結衣は薄気味悪くなってうつむいた。見かけこそ好青年らしいが、やはり結衣は彼から醸し出されるこの感じが苦手だ。クララは後ろでまた電池切れになっていた。なぜ水飼がこうも話しかけてくるんだろうと、結衣は不可解だった。


「どうかな。皆、集中して聞き逃したんじゃない?」


結衣は食券とおつりを持ってそそくさと順を譲った。できれば水飼ともなるべく早めにお別れしたい。結衣の小柄な背を追うようにクララが続き、後ろ姿を遮った。


「森川さんはさ、聞こえてたの?」


そう遠くないところで水飼が結衣を呼んだ。結衣はふり返りもせず、「分からない」とぶっきらぼうに返した。


隙間風が一際大きく立ち、閉じかけた食堂の扉がつられて一瞬開いた、用に見せかける。実際は結衣を追ってクララが入る振動が人間の目にそう錯覚しただけだった。水飼は吸い込まれていく結衣の背中を、じっと見送っていた。

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