5-2
金曜日、いつものように登校して正門を横切ろうとすると落葉している桜並木の下で生徒たちが群がっていた。猫なで声が響くからまたあの野良だろうと結衣は顔を背けかけ、ぎくりとした。
彼女たちは猫に餌をやっていた。
ペットショップで購入したのか、スマホをかざして「かわいー」と連写音を立てひたすら猫を取り囲っている。猫はにゃあお、と目を線にし脚で顔をぬぐった。
結衣は立ち止まりかけ、その縞模様からのぞくふてぶてしい猫と目が合いそそくさその場を去った。
四限は体育で、何度も外に出るのが億劫だった結衣は、体操着のまま花壇へと水やりをしに行った。
じょうろを抱えるとさっきボールを弾いた腕がじんわりと温度差を伝える。バレーボールはレシーブする瞬間こそばしりと痺れるが、ドッジのように当てられる恐怖が無いから好きだ。だがそのバレーも今日で終わり、テスト明けからはマラソンが待っている。肌寒くなるこの季節、どうせならずっと体育館でいいのにと結衣は赤くなった腕をなでおろした。
クララは、また隣でホースを下げ、水たまりを作っていた。今日のクララは制服のままで、男子はさっき一階の柔剣場で授業を受けていたはずだが、まあ出席していなくたってクララは問題ない。もっとも出席したって剣道はまともなフォームでやってる気がしないし、柔道場にいたって一人寂しくでんぐり返ししているのがオチだ。
等間隔に植えたジュリアンは、先年植えた人の采配がよく濃い色の花弁を満面に咲かせていた。ぴちゃんと跳ねるホースの水が、グラウンドの端で泥になって高い空を映し出す。
百葉箱の後ろの物陰で、下草がざわめいたのはその時だった。
にゃあお
と声がして、結衣は一つにくくっていた髪を返した。校舎の影がかかる手前の日向から脚を忍ばせ、やってきたのはあの猫だった。縞模様は餌のおかげでつややかに、肉垂れた頬を引き上げて猫はにあおうと喉の奥で媚びた声を転がした。
結衣はクララに駆け寄った。
彼女はクララの覚束ない手元からホースを取り、乾いた土を濡らす流線が波を描いた。結衣はホースの口を細め、勢い増した水を日向の方角にたわませた。
猫は素早く草むらに退いた。その反射神経、やはり野良だ。新たに湿った土の匂いが立ちこめる中、猫はまた結衣に向かってにゃあおと鳴いた。肥えた腰を反らせ、水打ちもここには届くまいと見透かしているようだ。
だが何度もにゃあにゃあ鳴いていたせいで、今度は他の生徒たちが反応した。ネコちゃーん、と高く呼ぶ声が靴音に交じり、猫はぴたりと鳴くのを止めた。さすがに毎日人に揉まれるのは好かないのだろうか、猫はそれきり、さっと百葉箱の下を通って姿をくらましてしまった。
結衣は一歩ばかり猫を追いかけて、足が重く止まった。やがて結衣の周りにも、小さい水たまりは出来はじめていた。
じょうろを片付け、下足を通り抜けると、吹き抜けの石段が続く廊下には今日もけたたましい笑い声と激しい靴音が響き渡っていた。四限のチャイムが鳴ってしばらくは、食券機も並ぶ人の列が外まではみ出るほど混雑する。おにぎりを持ってきていて正解だ、と結衣は肩を下ろした。
と、クララが結衣のその肩をちょいとばかしつついた。半袖越しにも結衣よりひんやりとした指の感触が伝わる。クララは再度、結衣の機嫌をうかがうように彼女の周りを一周した。だが彼の紙袋頭は、今微妙にあさっての———百葉箱の方向を向いていた。
「……べつに嫌いじゃないんだよ、猫」
結衣もクララの言いたいことが分かってくるようになり、歯切れ悪く囁いた。
花壇に来た猫を追い払ったのは、花壇を護ろうとしたからじゃない。遠目で見た時から、自分もあの猫に触ってみたいと薄くではあるが確かに期待を抱いた。けれどいざ前にして、結衣の手は猫を撫でるより先に、ホースを握っていた。
「昔、猫を捨てなきゃいけないことがあって。私の家、マンションだからさ」
それはまだマンションの決まりとか、そういうのもよく分かっていない頃の記憶だった。色は違うが灰の縞模様が特徴の猫が近所をうろついていて、当時の結衣でも持ち上げられるほどの大きさだったから、結衣は家につれて入った。缶詰は自力じゃ開けられなかったので、昨晩母が調理したナポリタンの残りを上げた。
だが子どものすることだから、猫はすぐ見つかった。
灰色の毛で汚れたナポリタンの大皿と結衣の服を見た母は、酷くおっかなかった記憶がある。母は当然猫を捨てろと言った。結衣は断る勇気も無く、にゃあと頭をすり寄せる猫との板挟みになって、誰にも助けを求められないのが苦しかった。
そんな物心つく前後のことを鮮明に覚えている。
多分、あれは母が不機嫌なことが多い時期だった。一度餌を与えた猫は、味を占めたのか、三階の結衣の部屋に向かって外からはしきりと猫の鳴き声が聞こえる夜が続いた。どう上がってくるのか、二、三度ベランダではっきりあの甘い声を聞いたこともある。母がそれをん散っていたかは忘れてしまったが、とにかく結衣が布団にくるまった隣部屋で、まだ当時はいた父とおぼしき人に毎夜声を荒げていた。
そんなこんなで、結衣は猫を見るとあの頃のことをふと思い出してしまうのだ。
教室に戻ると、クラスの女子は皆着替えを終えて弁当や購買のパンを広げていた。教室の前には男子のグループもいるから、体操着はトイレで着替える他ない。小島のように点々とある女子グループの合間を縫って制服を取り、セーラーリボンを手に掛けて、結衣は南側の綺麗なトイレに向かった。
断らないとどこまでも着いてきそうなクララにはもちろん、「ダメだから」と言って待てを命じた。
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