第5話 野良
5-1
ある朝、変わらず朝礼に間に合う最終列車で来た結衣は、西北門から正門を横切るところで思わず足を緩めた。
この時間は生徒が一番よく乗る電車の数本後だから、いつも人は捌けていた。だがその日は正門の方で女子生徒を中心に人が集まっていて、結衣は顔を覗かせた。
人だかりの正体は、その中心からする鳴き声で分かった。にゃあ、にゃあと短く聞こえるのは、猫の声だ。
「かわいー」
どこの猫だろう、首輪はなく、去勢を示すV字カットもされてなかった。縞模様の毛並みは艶があり、顔の肉は髭に向かってちょっと弛むくらいの余裕があった。もう時計は言い時刻を示しているのに、群がる生徒は猫に夢中でスマホをかざしていた。ペットショップですぐ買い手が見つかりそうな顔ではないが、考査前で楽しみもない彼らには十分愛でる甲斐があるがあるのだろう。
彼らが走り込んで下足が込むのは恐らく予鈴が鳴る頃だ。その前にさっさと通ってしまおうと、結衣は急ぎ足で正面玄関へと向かった。揉まれ撫でられかったるそうな猫は、鳶色の双眼をその去る結衣の背に向け、短い足で脇腹の毛を掻いた。
正門にいた野良猫の噂は、四限が終わる頃にはクラスにも広まっていた。
昨日の朝礼では近くの事件に伴う注意喚起が出ていたが、皆そんなの今やどこ吹く風だ。やはり高校生に取ったらそっちの方が身近なのだ。教室の前側では二、三人の女子を中心として昼休みにあの猫を見に行こうとはしゃいでいる。きっとどのクラスも似たようなことを言い出す生徒はいるだろうから、今日のグラウンドは混み合いそうだ。
チャイムが鳴るや、結衣はチャック式の財布を持ち出して席を立った。クララもおもむろに後を着いてくる。
食堂に続く廊下はいつもせわしなく人が行き来していた。クララは誰にもぶつからないよう、器用に人を避けながら結衣をのぞき込んだ。
「今日は、お母さんが朝から忙しいんだって」
結衣は食券機の後列に並び、クララにだけ聞こえる声で囁いた。日頃弁当派の結衣が食堂に来るのを不思議に思ったのだろう。いやそもそも食堂自体を珍しがっているのか、クララは食券機前で重く開閉する扉に、ピンと背伸びしては中を覗こうとしていた。
扉は一度バタンと勢いよく開き、パンを持った生徒と、それを追いかけるもう一人が全速力で駆け抜けた。高校生になるが、校内で鬼ごっこをしている男子生徒はまだまだいる。結衣は慣れずびくりとする一方、よくあることなのか常連らしい他の生徒はお喋りを止めどなく続けている。吹き抜けになった石段の上では、野太い奇声と哄笑が混ざり合って響く。
何度か扉は振り子のように緩和しながら往復した後、しばらく経って食堂から出て来る生徒がゆっくり扉を押した。
多分、その所作ひとつとってもさっきの生徒の連れじゃない。結衣は食券機から視線をずらし、その相手を見てハッと顔をこわばらせた。相手も気づいたようで、結衣を見るや扉から斜めに近づいてくる。
「ずいぶん、久しぶりだね」
彼は嫌みの無い笑顔で声をかけた。無言だと傍目にも不自然なので、結衣はぎこちなく笑いかけた。片手に立てかけていた文庫本を閉じ、彼が首をかしげると整った前髪が斜めに落ちる。詰襟を着こなす姿は模範生のそれで、入学後半年以上経つのに汚れのない上靴には四角い字で
「中学以来だね」
「クラス……離れちゃったからね」
「まあ仕方ないか。一年の間は他校から来た子と交じってほしいって、先生も考えるものだよ」
水飼はステンレス製の水筒をぶら下げ、もう片方の脇に文庫本を挟んだ。
本の方を凝視していたら「森川さんが食堂って珍しいね」と話を振られ、結衣は慌てて変な返しをしてしまった。冷静に返答するなら、食堂を使うタイプの生徒としては
日陰になった列の奥には、外に続く扉から絶えず隙間風が吹き付けていた。水飼はざっと列を見渡し、それから伏し目がちになった結衣を見下ろしてにこりと首を傾けた。
「そういえば今日、校庭に野良が出たんだってね」
結衣が話題に困っていると見えたのだろう。生徒間の時事ネタとして、猫の話はきっと王道だ。結衣は何度も小刻みに首を振った。
「面白そうだったよ。森川さんも放課後、一緒に見に行く?」
水飼は冗談か本気か分からない誘い方をする。その問いで結衣は今度さっきと鉛直方向に首を動かした。
「すごく嫌そう」
「嫌じゃなくて、でも私……ほら、テストがあるから」
「残念。とはいえ僕も同じだしね、大人しく机に向かうよ」
水飼は笑い流した。廊下はひゅううと音を立てて、後ろに並ぶ生徒が皆肩を縮こませている。結衣は横のクララを盗み見ると、彼はまんじりともせず電池切れの壁掛け時計みたいになっていた。魂が抜けたように、基本姿勢の猫背になった立ち姿のまま微塵も動かない。さっきまで人と人の間をしなやかにくぐっていたのに、あの体裁きはどこに行ったのだろう。
「そうだ、今日はB定食がおすすめなんだってさ」
そう言い残して、水飼は食券機の列を横切り石段の方へ上っていく。結衣は逆に、去り際の水飼をまじまじとよく観察した。彼は二度とふり返らず、壁に遮られて見えなくなる。いつの間にか前の人は食券を買い終わり、順が結衣に回っていた。
見るとB定食のボタンは売り切れていた。結衣は決めていたとおり、うどんを購入した。
トレーを流して食堂を出ると、外からはいつもより高い歓声が聞こえた。昼に行っていたとおり、女子生徒たちが猫目当てに外を回っているのだろう。
食堂で結衣は400円のうどんを注文した一方、クララはパンの一つも食べることがなかった。所持金の問題より、買ったところでどう食いつくのかという問題があるしと結衣はちょっと居心地悪くなりつつひとり麺をすすった。育ち盛りの若いのが食を抜かすなんて不健康だとも考えたが、そもそもクララは人じゃなかった。
あれから彼はずっと落ち着き泣く、左右後ろと結衣の周りを歩いては、紙袋の頭を彼女の方にもたげていた。
「さっきのは、水飼くん。中学校が同じだった人だよ」
結衣はひさびさ苛立った声を出した。眉をひそめる結衣に、クララはひょろりとした体を折れまげ納得していない感じだった。結衣は面倒くさくなってそっぽを向く。
結衣も本当は分かっていた。苛立っているのは結衣の都合だ。クララは多分、その苛立った結衣を機敏に察してそわそわしているだけなのだ。初めに落ち着きをなくしたのは、結衣の方だった。
結衣が通うこの高校は、電車と徒歩合わせて片道一時間ほどかかる、ほどほど遠い場所だった。通勤ラッシュが激しい反対方面に向かうほど都心に近づき、地元の同級生は皆そっちの高校に進学していった。
水飼はそんな中、たった一人結衣と中学が同じだった。高校が被ったのを水飼は入学してから気づいたと言っていたが、結衣は中学を卒業した時にはもう知るところだった。
けして好きこのんで知ったわけではない。ただ水飼は、学年でもそこそこ有名な氏だったのだ。
彼の家は代々、神社を営んでいた。それも言われたらその地区の人は大体知っているくらい、知られた神社だった。
水飼自身も聞けばなるほどと合点がいくくらい、神社の子息と言われるにふさわしく品のある同級生だ。クラスが一緒になったのは一度だけだが、覚えて貰えているらしい。
ところが結衣は、彼のことがどうにも苦手なのだった。
「……神社の子って、クララも見えたりするのかな」
結衣はクララに尋ねてみる。クララは機嫌でも伺うように首をかしげるばかりだ。まあ、彼に聞いたところで他者の感覚まで知っているわけはあるまい。
結衣は、水飼の何が具体的に苦手かと聞かれても困った。それについて、未だ明確に言語化するのが出来ていない。そんなあいまいな理由で避けるのはよくないと思う。ただ肌感覚的に、その苦手な感じはクララを初めとする何かに働く勘と似ていた。
あの神社に継がれる血、あるいはその場所が持つ特別な趣でもあるのだろうか。
ともかくこの世に無いはずのものが持つ、異質な感じが水飼にもあるのだ。もちろん水飼は確かに人間で、小学校来の友人関係もあった。だがその空気を感じた日以来、結衣は彼と関わってはいけないと何となく遠ざかっていた。
本当にまったく、それさえ無ければ彼は名実ともに申し分ない好青年なのだ。しかし結衣は、未だどうしても水飼が苦手だった。
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