14 女の話

 正式な婚約披露パーティーというわけではないが、客人は多く、華やかなパーティーになった。


 私の視線の先では楽団が音楽を奏で、広間の中央では煌びやかなドレスを纏った客人たちが踊っている。


 ドリンクをテーブルに置いて、隣に立つロイの顔を見上げた。

 私の視線に気付いたロイが、口を付けていたグラスを離す。

「どうしたんだい?」

 灰色の瞳から目を背ける。広間で踊る人たちは花のようだ。

「少し、踊りたくなってしまって」

「イース」

 どうしたんだい、と彼が眉を下げた。

「今までだって、僕はこうしていたじゃないか」


 そうね。そうよ。

 私はどんな場所でも、ロイの横に立っているだけで幸せだったのに。

 なのに、その声のせいで、どうしても望みを言いたくなってしまう。

 その声は、望みを叶えてくれると思ってるから。


「……戻ってきてからの、きみは少し変わったね」

「え?」

「一体、きみは僕みたいな男と、どんな風に過ごして、何を言わせていたんだい?」


 声に不穏があった。嫌な空気になると思って、緊張で肌がピリついた。

 顎を引いた私に、ロイは穏やかさを取り戻して笑いかけた。


「きみはあんまり、家から離れてた時のとこを話さないから」

「……あなたと離れていた時期のことなんて、忘れてしまったから」


 嘘よ。忘れてなんかいない。

 目の前の顔を見る限り、忘れられるわけがない。

 パーティーの喧騒が、どこか遠く聞こえる。

 分かったよ、とロイが頷いた。


「……たまには、踊るのも悪くないかな?」

 そう言ったロイが、私に手を伸ばした。


 伸ばされた手に、私が──。


 その瞬間、いくつもの混じった悲鳴が、パーティー会場を切り裂いた。


「なんだ!?」

 悲鳴は広間の奥からだった。他の空間に続くその扉の奥から転がるように現れたメイドが会場中に叫んだ。

 その服の裾には、すすがついていた。


「お逃げください!」

 尋常でないその様子に、音楽が止まり人々が騒然とする。

「火が! 火が上がっております──火事です!」


 途端に会場中はパニックになった。

 緊張が伝播して悲鳴が飛び交い、食器が割れる音がする。

 そんな客人たちを前に、ロイが高らかに言った。

「落ち着いてください。出口はすぐ、あちらです!」


 この場全員の命を慮るその言葉の横で、私はたった一つの命のことしか考えられなかった。

「グリン」

 私の猫。私と彼の猫。


 すん、と吸い込んだ空気に知らない匂いがした。


「火元!?」

「に、二階の奥の部屋からです」

 ロイの言葉に、避難してきたメイドが答えた。気が付いて火を消そうと試みたが火の回りが早く間に合わなかったと。

 グリン。

 広間の奥から階段を登った二階の部屋で、私はグリンを待たせている。


「イース! 僕たちも外に行こう」

 移動を始めた人たちを見て、ロイが私の腕を掴んだ。

「先に行って」

 私はその手を振り払う。

「私、行かなきゃ」


「イース! どこへ──」

 淑女らしさを捨て置いて、メイドが出てきた奥の扉に向かった。

「そっちは危ないだろう!」

 後ろから掛けられた声に、一度振り向く。

「すぐに戻るわ!」

 ──その顔のところに。


 広間から飛び出して、メイドたちが避難してきた奥へ進む。奥の方から聞こえた弾くような音は、火の粉の飛ぶ音なのか。

 階段の先が気味の悪いほど明るい。──それでも階段を駆け上がる。持ち上げるドレスの裾が重い。


 階段を上がりきると、奥に見たことのない大きさの炎が見えた。形がないそれは屋敷の壁や床を食べるようだった。

 額に汗が伝ったのは、熱さだけのせいじゃない。


 まだ階段ここと部屋からは遠い。大丈夫だ。

 

 閉めていたはずの部屋の扉は開いていた。

 出てきちゃだめよとグリンに言いきかせていた、私の部屋の扉。中に入って部屋の中に呼びかけた。


「グリン! グリンー!」

 いくら呼んでも出てきてくれない。こんな時に。


 慣れない場所で傍にいることもできず一人にさせてしまった。怖がって隠れているのかとベッドの布団を捲る。いない。ベッドの下にもいない。カーテンの向こう。いない。机の下。いない。


 ドアが開いていたから、この部屋から抜け出してしまっている可能性もある。──まさかもう既に。最悪の可能性を想像して目眩がした。


 お願い早く姿を見せて。一階に降りてもう外に逃げている? 部屋の中でまだ探していないところは?

「グリン」

 クローゼットの扉を開けた。足元を見ると、そこには見慣れたその姿があった。

「ここにいたの」

 にゃあ、と鳴いたその声は、悪戯をした時と同じ声。

「隠れんぼなんてしてる場合じゃないのよ。おいで」

 呼び寄せるとすぐに腕の中に飛び込んできた。抱き締めて柔らかな体の奥の心臓の鼓動を確認する。よかった。


 すぐにここから離れなきゃ。

 部屋の外へ出ると、感じたことのない熱気を浴びた。火の手はもうすぐそこに迫っていた。禍々しいほどの明るさに、頭の中まで白く照らされた。


 こんなに熱いのに体の奥から凍りつく。

 怖い。

 グリンを抱くために奮った勇気はもう尽き掛けている。動かなきゃ。そう思うのに火はまるで大きな生き物だった。睨まれれば動けない。


「イース!」


 聞こえた声が、誰のものか分からなかった。それでもその声に再び体が動いた。

「早く! こっちだよ!」

「……ロイ」


 階下に来ていた見慣れた金髪は、急かすように叫んだ。

「そうだよ! 早く!」


 私が行くべき声の先。

 腕の中の柔らかな体温を確かめる。足よ動け、行かなきゃ。戻らなきゃ。

 足を動かしたその時、いっそう強いぜるような音が聞こえた。

「ひ」

 同時に炎が視界に飛び込んでくる。音を立てて勢いを増した火は、階段の手すりと足場を燃やし、そこから壁を伝って侵食した。

「早く! イース!」


 熱い。火が揺れている。

 火が空気を飲み込む音に、思考が飲み込まれる。


「イース! 来るんだ!」

 ロイが火の粉を払いながら階段を登り私に手を伸ばす。


 私の後ろの部屋の奥で、火の手のせいかガラスが割れるような音がした。もう後ろにも逃げられないのか。


「イース」


 別に大きなわけではなかったその声が、はっきりと聞こえた。背後からかかった声の主が、今度はすぐに誰か分かる。

「エル」

 振り向くとそこには、手を伸ばしてくれるロイと同じ顔があった。それでもまったく違うその姿が、ガラスを割って入ってきたのだと、足元に煌めく破片で分かった。


「この馬鹿」


 火に照らされて、その髪は赤く見えた。──そんな髪色など、今更どうでもいい。


 階段を登ってきたロイが、私の背後の姿を見て息を呑んだ。

「きみは……!」


「早く来い」

 音を立てて燃え始める私の部屋の中で、エルが私に手を伸ばした。彼の足がガラスを踏む音がした。


「イース! 僕はこっちだ!」

 ロイが手を伸ばして私を呼ぶ。


 私を前と後ろから呼ぶ顔は同じで、声も同じ。

 それでももう、はっきりと違いが分かる。


 ──だから、手を伸ばすことを躊躇ためらう。

 

 通り過ぎた過去を炎の中に見て逡巡した。


 私が行きたいのは──生きていきたいのは。


「イース!」


 眼前が赤く染まった。と思ったら白く染まった。

 熱い。眩しい。


 天井まで覆った炎が、私を飲み込むように音を立てて迫った。

 目を瞑って腕の中のグリンを強く抱き締めた。



 私の体を包んだのは、覚悟していた熱さじゃなかった。

「馬鹿はお前だ」


 激しい衝撃音がした。爆風と木が割れる音。同時に体の中にその衝撃が伝わった。

 何が起きたのかと、ゆっくり目を開ける。


「……エル」

「あ?」

 いつもと同じ感じの悪い返事。


 私を庇うように抱き締めた目の前のその顔から、血が流れていた。顎を伝った血が落ちる。

「怪我を」

 頭から顔にかけて傷を受けたようだった。足元に血の付いた木片が落ちていた。


「ひどい顔か?」

 赤い炎に照らされて、血はいっそう赤黒く、その髪は金より鮮やかに光って見える。

「お前はこの顔だから好きになったのにな」

「馬鹿ね」

 分からずや。


 目の前の男の顔に額を擦り付けた。

「今の方が男前じゃない」


 命を奪い尽くそうとする凄まじい音がする。

 全てを飲み込もうと炎が舌を伸ばしている。



 彼の髪が、顔が、赤く照らされている。

 その輝きの中で答えは出ている。

「私が好きなのは、あなたの魂よ」

 どんな見目でも関係ない。

 赤く輝くあなたが誰より、美しい。



「イース!」

「ごめんなさい」

 好きだったその顔に私は告げる。

「ありがとう」

 ロイが眼前の火の粉を振り払った。

「その男と、行くのか?」

「ええ」


 この男となら、死んでもいい。

 業火に焼かれても、灰になって混ざり合えるのならそれでよかった。


「分かった」

 ロイが頷いた。

「僕は、遅かったみたいだね」

 私の人生で誰より早く出会った男が、そう言った。


「行くぞ」

 腕の中のグリンごと、エルが私を抱き上げた。

「もう離してやらないからな」

 エルの頭から流れる血が私のドレスに染みを作る。

 血に塗れても、それでもいい。

「ずっと傍にいて」


「あ? ……今更だな」

 

 そしてそのまま──炎が広がりゆく部屋の窓に向けて駆け出した。

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