10 女の話


「イース」

 私の名前を呼ぶ声は、愛した男の声。

 月明かりのせいでその顔がよく見える。──愛した男の顔だ。


 顎を掴まれているせいで、その顔から目が背けられない。

 名前を呼ばれてるのに、呼び返せない。


「グリン」

 足元に現れた存在のおかげで手が離されて、起きちゃったの、と声をかけた。

 腕を伸ばすとグリンはすぐに飛び込んできた。


 境界線を飛び越える気持ちで彼の元に来たのに、その顔を見たら何もかも分からなくなってしまった。

 話そうと思ったのに。

「起きちゃったの?」

 猫に話すしかできなくなってしまった。


「部屋に戻るか?」

「え?」

 彼の言葉の意味を考えて、それが思いやりだと気がついた。

「もうちょっと」

 私はあなたと。

「ここにいる」

「そうかよ」



 日付と体の輪郭の境界線を越えたかった。けれど本を捲り始めた彼に、もうその気はなさそうだった。


 もう一度彼の傷に触れたかった。

 触れた指先を今度こそ離さず、ここまでの経緯すべてを話したかった。

 私とあなたが出会う前の。

 そしてあなたに手を伸ばした理由と、今もあなたを手放せないその理由を。


 聞いてくれたらいいのに。

 出会ったばかりの頃、訳ありかと聞かれて頷いただけだった。それが退路を塞いだ気がする。

 話したい。話せない。

 離したくない。


「眠いか?」

「そうね、ちょっと」

 嘘をついて目を閉じた。

「俺もだ」

 彼の言葉が、嘘か本当かわからない。

 彼は本を置くと、私を背中から抱きしめた。


 それにグリンが驚いて、私の膝から飛び降りた。


「よく眠れそうだ」

「そうなのね」

 背中から心臓の鼓動が伝わる。耳元にかかった息のせいで私の心臓が跳ねた。

「私もよ」

 嘘ばっかりだった。

 出会った時から、隠匿と欺瞞しかない。



 このまま夜よ明けないで。

 姿を見なければ、彼を彼だと思わずに済む。



 朝よ来ないでと思うのに、明日も明後日もあることが希望だった。

 だからゆっくり伝えていけばいいと決めて、腕の中で眠った。




 窓から差し込む太陽の光で明るい部屋の中で、彼の顔が間近にあった。

「起きてたの」

「起きてたよ」

 ソファの上で横たわる私の身体は、彼の腕の中に閉じ込められていた。

「起こしてよ」

「言わなかっただろ」

 鼻先が触れそうな位置で言われる。もう、と息を吐くと、耳元に手が伸びた。

 私の髪を一房手に取って耳にかけて、囁く。

「眩しい」

 ──そんな触れられ方を、私はずっと前からされたかった。


「……エル」

 名前を呼んだ。朝の光の中で呼ぶ名前を、私はもう間違わない。

「イース」

 彼の腕の中は熱い。

 見つめ合って、ここから先は彼の指先に任せようと、もう何も言わなかった。


 秒針のリズムと心臓のリズムが離れていく。

 あのキスの先に、今ならいける。



 そう思ったそのとき、窓の外から大きな硬い音が聞こえた。馬の蹄の音と、地面を転がる車輪の響き。

 小石が車輪に弾かれた音がして、彼が呟いた。

「馬車か」


 屋敷に近づくその音は商人の荷車の音としては速く、客人にしては重いし、そもそも客人がくる予定なんてない。

「待っとけ」

 エルは立ち上がり、訪問者を確かめに行った。



 駆ける馬車の音は止まり、開かれた扉からその声が聞こえた。

「驚いたな」

 一体、何に?

 よく知ったその声に非日常を感じて、ソファから足を下ろした。


 玄関の扉の外に、その姿があった。馬車から降りてきた金髪の人影を、私はよく知っている。

「イース」

 その姿のせいで、声がどちらから聞こえたのかわからなかった。

「……まさかと思ったよ」

 今度の声は確実に馬車から降りてきたその姿からだった。

「本当に僕に似ているじゃないか」


 ロイ。


 綺麗な金髪に、灰色の目。品のいい高い鼻。

 奇しくも今日エルが来ている服と、よく似ている服を着ている。

 違う、エルが似せているのだ。──私はロイがよく着ていた服を選んでいるから。


 驚きを隠さないロイの後ろから、もう一つ人影が降りてきた。

「いや本当に、同じ顔じゃないか」

 年嵩のある声の、低くて重い呟き。

「お父様」


 どうしてここに、お父様が。それにどうして、ロイが一緒なの。

 見られたくなかった。知られるはずがないのに。


 何も言えない私に、父が瞳を伏せて話し始める。

「昨日街に来た楽団がな、この町でロイを見たと言ったんだよ」


 エルの顔を見上げられない代わりに、ロイの顔が視界に入った。その神妙な顔は確かに彼の表情だ。


「私とグレンストール卿、そしてロイと三人で楽団を眺めていたら……どうして今日はここに? と、ロイに話しかけてきてな」


 吹いた風に髪が弄ばれて、視界を遮った。

 邪魔だから直したいのに、指先が動かない。


「昨日あの町で一緒だった女性は一緒じゃないのかい? と言うから、他人の空似だろうと笑ったんだ」


 聞きたくない。聞かせたくないのに、父の語りは続く。


「音楽を気に入ったから食客として招き入れた我が家で、お前の肖像画を見ると、この女性だと」


 私たちは、二人で過ごしていただけなのに。

「肖像画のお前が、ロイと同じ顔の男といたと言ったんだよ」

 誰に何も言ってないのだから、暴かれたくなかった。

 こんな形で暴かれたくなかった。


「ロイと同じ顔だなんて言い過ぎだろう。けれど……お前にその、良い人ができたのなら、どんな男だろうかと見に行こうと思ったんだ」


 そう言うと、父が視線を向けた。──エルに。

「とてもよく似ている……本当に、ロイそっくりだ……」


 父が私に歩み寄った。

 乱れた髪を整えて耳に掛けられると、その顔がよく見える。──憐れむような表情が。


「そんなにロイを愛していたのか……同じ顔の男を探し、傍に置くほど……」


 違うの。

 何も言わないエルに向かって言いたかった。

 けど、何も違わない。何も言えない。


「イース」

 久しぶりだね、と言う声は柔らかかった。

「……ロイ」

 声が震えていたかもしれない。分からない。

 体の芯から冷え切ってしまって、もう感覚がない。


 父が一歩引いて、歩み寄ったロイがその代わりに私の目の前で跪いた。

「妹としか思えないなんて、言ってごめん」

 同じ顔だ。同じ声だ。

 なのにそんな表情も声色も、エルにはなかった。

「きみがこんなにも僕を想って、そして悩んでいるとは知らなかったんだ」

 跪いてそのまま、勝手に私の手を取った。

 私を見上げる灰色の双眸。


「もう一度、考え直させてほしい。だから……帰ってきてくれないか」


「そんなの」

 あまりに勝手だ。

「ごめんね。けど、時間が経たなきゃ……こうならなきゃ、分からなかったんだよ」


 ロイの声は優しい。

 エルの声と同じなのに、どうして違うのか。


 跪くロイの後ろの父と目が合った。

「安心していい、イース」

 何を安心しろと言うの。


「お前の姉さんの結婚相手が、多額の支援をしてくれていたから、ロイの父、グレンストール卿とも……婚約の持参金は、話がついてる」


「そんな」

 どうして今更。


 ──ここに来る前だったら、泣いて喜べたのに。


「淡い初恋だろうと、時間が経てばお前も戻ってくるだろうと思っていたんだ」

 まさか、と父はエルを一瞥した。


「まさかこんなにもロイに似た…………代わりを見つけて、そんな風に過ごしているとは、思わなかったんだ」


 言わないで。代わりだなんて言わないで。

 けれど自分がそうさせた。

 髪の色を染めさせて、似た服を着せた。

 彼に彼の代わりをさせた。

 ──こんな風に明かされたくなかった。


「きみは、イースのために、顔を変えたりしたのか? 身分を? いや、もう、とにかく」

 何も言わないエルを見上げて、父は続けた。

「もう自由にすると良い……ただ、内密にしてほしい。イースがここを離れたら、この屋敷をあげてもいい。だからどうか、言わないでくれ」


 子爵の娘が、好きな男の格好をさせた男を慰めに傍にいさせた──なんて汚点になるからな。


 と、父は言った。


 私とエルの日々を、汚点だと言った。


 そうさせたのは私だった。


「……今日はもう、私たちは帰るから、別れを済ませたら帰ってきなさい」

 何か言おうとしたロイを父が制した。

「ロイ、今日は私と街に戻ってくれるかい?」


 二人は馬車に乗り込んで、その中からロイが私に呼びかけた。


「待ってるよ。あの日からやり直そう」

 彼の純粋な金髪が光の色に透ける。


 それから馬車の扉が閉められて、土煙を立てて走り去っていく。


 風に土埃が舞わなくなっても、私は隣の彼の顔を見れない。私の隣に残っているたった一人なのに。


「よかったな」

 その声は冷たい。


「よかったな。本物が迎えに来てくれてよ」


 名前を呼ばなきゃいけない。

 あなたの名前を呼んで、話さなきゃいけない。


「……エル」

「気付いてたか?」

 私は名前を呼んでやっと、彼の顔を見上げることが出来た。


「お前は『エル』って言うとき、躊躇ためらうんだ」


 ──そんな顔を見たくなかった。


 エルの表情に、私は身動きが取れなくなって、部屋に戻る後ろ姿に手を伸ばすことはできなかった。




 それでも彼は食事を共にしてくれたし、いつものようにフルーツも剥いてくれた。


 それが尚更悲しかった。

 問いただして詰ってくれればいいのに、彼は私に何も聞いてこない。


 気まずい沈黙が流れながら、食後の飲み物を飲んでいた──その時。


「おい! グリン!」

 にゃおと鳴いて、いたずらに光る緑の目がテーブルの上に飛び乗った。

 今日はろくに相手をしていなかったからか。

 私も、エルも。


 一人で痩せっぽっちだった警戒心の強い子猫は、相手をされないと悪戯する天真爛漫な猫になりつつあった。


 名前を呼ばれると、グリンは満足そうに鳴いた。それから私たちを見て──揺れた尾が私のグラスに当たった。


「あっ」

 グラスが床に落ちて、音を立てて割れる。


 驚いたグリンは飛び降りると、一瞬で部屋から消えてしまった。


「もう……」

 椅子を降りて、割れたグラスの破片に手を伸ばす。私の目の前にエルの手が伸びてきた。

「俺がやる」

「いいのよ」

 それでも手を伸ばそうとすると、その手を掴まれた。


「貴族の嬢ちゃんは椅子に座っとけ」

「何それ」

 そんな言い方。

「あ?」

 エルは眉間に皺を寄せて、低い声で唸った。

「こういうことは下々のもんに任せろよ」

「何よ、それ」

 今までそんな風に言わなかったのに。


 どうして急に、私たちの間に線を引いて突き放すの。

 理由は分かってる。冷たくされて然るべきだ。


「私とあなたに、上下なんてないわ」

 だから引くわけにはいかなくて、落ちた破片に向かって手を伸ばした。


 伸ばした指先に尖った破片が刺さって、咄嗟に手を引っ込めた。

「いっ……」

 引っ込めた指先を見れば、赤い血がぷっくりと出てきている。

「この」

 エルが私の手首を掴んだ。

「馬鹿」

 怪我をした指先が口に含まれて、突然のことに息が止まった。


 指先で感じる、エルの熱。口の中は暖かくて、柔らかくて、どこまでも生々しかった。

「エル」

 躊躇ためらってない。私はもう、この名前を呼ぶことを──躊躇わない。


 名前を呼んだら、咥えていた私の指先から唇を離した。

「イース」

 灰色の瞳に見据えられる。

「俺は、」

 開かれた唇に言葉が紡がれるのを待つ。


 終わったら、私のことも話すから。

 だからそれから、これからのことを──。


 言葉を待っていたのに、エルの表情が変わった。

「あ?」

 振り向いて、エルの視線の先を辿る。


 ネズミを咥えるグリンが、私のすぐ後ろにいた。


「きゃあああ!」

 グリンがその場にネズミを置いた。その顔はどこか誇らしげだ。ネズミは動かないので、どうやら死んでいるらしい。

 叫びながらその場を離れた私に、エルが笑う。

「ははは! お前ももう一人前なんだな!」


「狩りができたな!」

 エルはそう言って笑って、グリンの小さな体を抱き上げた。

 グリンはエルの腕の中で、やっと遊んでくれるのかとばかりの嬉しそうな顔をしている。

 二人とも子どもみたいで、親子みたいだった。




「行けよ」

 いきなり言われたから、誰に向けて言ったのか分からなかった。

 エルは私を見ていた。灰色の瞳で。

「どうせ俺とお前じゃ、世界が違うんだ」


「そんなこと」

「あるんだよ」

 すぐに言い返した私を、エルが遮った。

「俺とお前は世界が違う……俺は汚いことをしてたんだ、だから瀕死で倒れてたんだよ」


 グリンはエルの腕の中で、気持ちよさそうに喉を鳴らしている。


「お前のことは助けられたから襲わなかっただけだ。髪の毛を染めるのも、身元や山賊の過去を隠して匿われてると思って……言われたから、傍にいただけだ」


 これは別れの言葉だ。

 私たちは、別れを悟ってやっと、過去の話をすることができた。

 ──傷ついて、やっと。

 傷ついたところから曝け出すことが出来た。


「よかったな。俺はあの男の代わりになったか?」

「…………好きよ」

「あ?」


 我慢ができなかった。今伝えなきゃ届かないと思った。もう戸惑ってる時間の猶予がないから、伝えないといけなかった。

 漏らした私の想いに、エルは顔を顰めて、それから笑った。


「俺と同じ顔をした男のことだろ」

「違うの」

「錯覚だよ」

「違うの、エル」

「違わねえよ!」

 突然上げられた大きな声に、グリンが驚いて腕の中から逃げ出した。


「お前は俺を通してあの男を見てただけだ! 今までも──今も!」

 否定できない。

「同じ顔をしてたから俺を助けたんだろ! 違うか!?」

「違わない……」

 その通りだ。

 私は否定できない。けど言わなきゃいけない。

「私が、間違ってた」

 今まで自分が間違っていたと。


 だから出会ったこと自体を、間違いにも汚点にもしないでほしい。


「……そうだよ。お前は間違ってる。お前が好きなのは、あの男だ。俺じゃない」

 エルはしゃがんで、落ちたままの破片を拾い始めた。

 私が染めさせた金色の髪。

「エル」

「あ?」

 掛けられる言葉は、もうこれしかなかった。

「グリンのことを、よろしくね」


「連れていかねぇのか?」

「ええ。きっと不慣れな場所じゃ、不安で悪戯するわ。だから、よろしくね」

 もうこの家を出たら、私はもうここに帰らない。暗に屋敷のことを言い含めた。

「はは」

 エルは下を向いたままで、破片を拾う手を止めない。

「いい仕事代だ」




 もう私たちの間にはラインが引かれてしまって、きっともう交わることはないんだろうなと思ってしまった。

 あなたの色を変えさせた私に、あなたが引いた線を踏む権利なんてないから。




 暖かい日差しの降り注ぐ玄関の外に、馬車を呼んでいた。私が生まれ育った街に帰るための馬車を。


 その日のグリンは朝から姿を見せなかった。

 屋敷の中のどこかにはいるだろう。跳ねるような足音はしていた。

「探してくる」

 エルが屋敷の中に探しに行った。

 これで見送られずに済む。

「では、お願いします」

 御者は戸惑ったが、そのまま強引に出発させた。


 小さいが自然に恵まれて、過ごしやすい町だった。

 古いが自分たちで手入れをした屋敷には愛着があった。


「……さようなら」

 今日のことも、明日には過去になる。

 過去に別れを告げたくてここに来たのに、ここも過去になってしまった。


 自分が傷ついたなんて言う資格はない。

 傷跡のある彼が、一人にならなくてよかったと、あの日拾った子猫の存在に心から感謝した。




 久しぶりに見た生家は華やかで、屋敷の調度品は新しく高価なものが多く目に付いた。


「おかえり、イース」

 出迎えてくれた父と母と包容を交わすと、その温もりに波立っていた心が少しいだ。

「部屋は変わっていないから、ゆっくりするといい」


 私の部屋は出る前と変わっていなかった。

 この家にふさわしいドレスに着替えようと、クローゼットを開けた。

 その中の彩りに少し気が引けた。


 こんなにも色はあるのに、私は赤色を金色に変えさせる傲慢な女だった。


 世界で一番綺麗な色を、金色だと疑っていなかった。

 赤色の夕日に心を打たれたこともあったのに。


 エル。あなたの髪を思い出せる。出会ったときは、他と同じ赤色で少し癖っ毛だった。


 感傷的になっていると、ノックの音が飛び込んできた。

「イース」

 扉の外からかけられた声は父のもの。

「はい」

「ロイが来ているよ」

 今、その顔を見たくなかった。

 その顔を見てしまえば、感情に浸ることもできない。


「着替えてから、参ります」

 わかったと言って遠ざかる足音を聞いて、今まで纏っていたドレスを脱ぐ。

 ふと窓の外を見ると、青い空に鳥が飛んでいた。

 羨ましく感じて、それから重たいドレスを着て部屋を出て階段を降りた。


 美しく整えられた花と生垣のあるガーデンテラスで、並べられたお菓子に手をつけることなくロイは待っていてくれた。

 金色の髪が風に靡いて、同じ色のまつ毛に縁取られた灰色の目を伏せて、手元で本を読んでいた。

 美しい顔。

 私が好きな男の顔。


「イース」

 私の気配に気づくと、本を畳んでこちらに顔を向けてくれた。

「おかえり」

「ただいま」

 間違えてはいけない。

 呼ぶ名を決して、間違えてはいけない。

「……ロイ」

 向かい合って座ると、私の目の前のティーカップに紅茶が注がれた。


「どんな本を読んでいたの?」

「詩集だよ」

 ロイは読んでいた本の表紙を見せてくれる。

「もうすぐサロン《集まり》で自分の考えた詩の発表をするんだ」

「そうなのね」


 真剣に本を読んでいたのは、詩を考えていたかららしい。


 ──面白いな。どんな奴がどんな顔で書いてんのかと想像すると。

 ──何それ、どんな顔なの?

 ──小難しいヤツが澄まし顔で書いてんだろ。


 私の顔を見て、ロイが目を細めた。

「きみに嬉しそうにされると、僕も嬉しいよ」

「え?」


 私は今、目の前のロイのことではなく、馬鹿ねと答えた会話を思い出していた。

 慌てて口元を手で覆った。

「そうね」

 泣きそうだ。

「嬉しいわ」


 何もかも私から捨てた。

 泣く資格なんてない。

「あなたと一緒にいられて」

 嘆く必要なんてない。



 その日の夕食は家族で取った。

 召使いが食器を用意し、猫だっていない穏やかさを絵に描いたような夕食風景。

 生まれ育った家を離れてた期間は人生のほんの少しのはずなのに、どうにもお客様然とした居心地の悪さを感じてしまう。


 食後に飲み物を飲みながら父が言った。

「姉が良家に嫁いで金銭的に恵まれたのも……これも運命だったのだろう」

 よかったわね、と母が両手を叩いた。

「近いうちにパーティーを開かない? ロイとの婚約を祝って」

「そうだな。それがいい」

 父がグラスを掲げて乾杯しようと言った。


「娘の未来に、祝福を」

 掲げられたグラスの中で運命が揺れていた。


 部屋に戻って、窓の外を眺める。

 月は煌々と輝いて、欠けているのに眩しかった。


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