9 男の話

「水、用意する」

 そう言ってキッチンに向かい、コップに水を入れた。それから女に渡す姿など昔の俺を知る人間が見たら惨めだと笑うだろうか。


「ありがと」

「おう」


 水を受け取った彼女の乱れたままの胸元に先ほどの余韻があった。俺が注いだ水を口に含んで、その胸元が上下する。俺は全然惨めじゃない。


「あの……エル」

「あ?」

 珍しくしおらしい声を出すから、謝る気かと思った。


「あなたは」

 彼女が口を離したコップを受け取って、残っていた水を飲んだ。


「私がここに一人で住んでる理由を、聞かないのね」

「今更だな」

 それに今かよ。

「前戯に過去の話なんて選ばねぇよ」

 記憶の蓋と体を開かせ方を同じにするほど、俺は幼くはない。


「まあが?」

 俺の言葉に、一拍キョトンとして、それから意味がわかったようで小さく笑った。揺れる肩から金色の髪が落ちる。


「そうね」

「そうだ」

 彼女は俺を助けた。そして別人のような穏やかな人生を与えた。

 俺の話はそこから始まって、それがすべてだ。山賊エルドルはただのエルになった。


「まだ、喉が乾いてるの。もうちょっとちょうだい」

「あ?」

 手の中のコップは空だ。キッチンに水を入れに行こうと背を向けようとしたら、彼女に手を掴まれた。

「………………馬鹿」

 なんだよ。

「今、よ」

「だから今、」

 緑色の瞳が俺を見た。その目は足りないと言っていた水分に濡れて光っていた。

 湿ったような唇の色と、乱れたままの胸元。


「……馬鹿はお前だ」

 言外の意味が分かって、そのまま押し倒してやることもできた。

 その手と欲望を振り払って背を向ける。

「水入れてくる。飲んだら部屋に戻って寝ろ。……次喉が渇いたっつったら、水なんて入れてやらねぇからな」




 いつもより早い時間に目が覚めた。朝日の色は彼女と同じ髪の色だから、もう眠れそうにはなかった。

 グリンが起きている気配もない。

 何をしようか、なんて考えるような余裕ができた自分に驚く。

 常に命の瀬戸際だった今までの生活に、そんな余暇はなかった。



 本でも読むといいと言っていた彼女の言葉を思い出して、部屋の隅にある本棚に手を伸ばした。

 どのタイトルも晦渋かいじゅうでよく分からなかったが、それでも一番短いタイトルの本を手に取った。詩集だった。

 小難しいことばかり書いてある。分かりきったことを嘆くように書いてある。


 紙を捲っていると部屋に近づいてくる足音が聞こえたが、そのまま手元の紙を捲った。


 部屋の入り口に彼女が現れた気配がした。

「ろ……」

 声をかけられて、俺は本を閉じる。

「あ?」

 イースは口元を手で覆っていた。本を読む俺の姿を、信じられないとでもいうように。

「本でも読めって言ったのはお前だろ」

 失礼だなと笑うと、そうね、とイースは俺から目を背けた。

「そうね、言ったのは、私だわ」


 俺たちの間に、みゃあ、と鳴き声が飛び込んできた。

「グリン」

 今日は屋敷のどこを寝床にしていたのか。足元に現れたグリンを彼女が抱き上げる。

「おはよう、グリン。……エル」

 自分と同じ目の色の色の子猫を撫でながら、彼女は朝を告げた。



 貴族の屋敷といえども田舎町のひっそりとした屋敷に、客人は来ない。一日は穏やかで、そんな日々を自分が送ることに、罪悪感と後ろめたさはあったが、もうこの日々を手放せなかった。



 本は意外と悪くなかった。字は読めるとはいえ、今までは読めるような環境もなければ、読む必要もなかった。


 この日の夜は紙の文字を照らし出すのに十分な月明かりだったから、俺は窓辺に置かれたソファで本を読んでいた。


 部屋の入り口に現れた気配には気付いていたが、話しかけられなかったので話しかけなかった。


 衣擦れの音とページを捲る音が重なって、俺から声をかけた。

「イース」

「気付いていたの?」

 気付かないわけがないだろう。どんな環境で生きてきたと思ってるんだ。


「寝れないわ」

「あ? 襲うぞ」

 歩み寄ってくる姿は、子猫に手を伸ばすようにに無防備だ。

「なんか言えよ」

「馬鹿」

 馬鹿なのはお前だろ。

 そう言う代わりに手を引いた。


 引いた勢いで俺の上に座らせると、腕の中から見上げてきた。

「ちょっと」

「あ?」

 少し不服そうな顔だが、抵抗はなかった。

「言えよ」

 文句があるなら。

 言えよ。抜け出せよ。止めないから。


 もう、と言うから逃げ出すかと思ったのに、彼女は腕の中に収まり直した。

「話しに来たのよ……あなたと」


 緑色の目に、金髪の俺が映った。赤髪は夕闇に紛れやすかったのに、金色はそれを許してくれない。

「そうか」

「本、面白い?」

「ああ」

 彼女の髪は、昼間嗅いだ花の同じ匂いがした。

「面白いな。どんな奴がどんな顔で書いてんのかと想像すると」

「何それ」

 俺の言葉に、華奢な体が腕の中で小さく揺れた。

「どんな顔なの?」

「小難しいヤツが澄まし顔で書いてんだろ」 

「もう、馬鹿ね」

 そう言う声は楽しそうだ。


「私、この本だったらこれが好きよ」

 そう言いながら、俺の腕の中で本のページを捲る。何度も読んだのだろう。本の後ろの方を開いて一枚、二枚と捲ると、すぐにそのページを見つけたようだった。

「あった。ここの……」

 嬉しそうに振り向いた顔が、俺と目が合うと固まった。


 腕の中でそんな顔をされたら、もうたまらなかった。喉が渇いて仕方なくて、欲望を飲み込みたかった。


「喉、渇かねぇ?」

「…………渇いたって言ったら、どうするの?」


 そんなの決まってる。

 頷かれたらもう、溺れさせることを決めていた。

「私、」

 もう何も言わせたくなかった。

 顎を掴んで顔を上げさせると、白い喉が緊張を飲み込んだ。


「イース」

 名前を呼ぶ。それから、その唇で喉の渇きを癒そうとした。


その時に──足元から小さな声が聞こえた。


「…………グリン」

 彼女の顎から手を離し、足元を見るとそこには子猫のグリンの姿があった。

 俺が名前を呼ぶと、返事をするように鳴いた。

「起きちゃったの?」

 彼女が伸ばした腕の中に、グリンが飛び込んだ。


 水を差された。


「部屋に戻るか?」

「え?」

 グリンを撫でる彼女の手が止まった。

「もうちょっと……ここにいる」

「そうかよ」

 なら俺が言うことはない。


 俺は黙って、彼女が子猫を撫でる様を見ていた。月明かりに、目を閉じることができなかった。

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