8 女の話
テーブルの上にカットされたフルーツが乗った皿が置かれた。
「ありがとう」
「おう」
エルは返事をすると私の向かいに座った。
音を立てて椅子に座る姿に品があるとは言えない。それでも黙っていれば、品のある彼の姿を重ねることができた。
金髪。灰色の瞳。品のある高い鼻。
どうしても、よぎってしまう。
ロイとなら、どんな生活をしていただろうかと。
想像していると、足元に暖かいものが触れた。
「よしよし、お腹いっぱいになった?」
今日拾った子猫。足元のその存在を抱き上げて膝に乗せる。
私と同じ緑色の瞳。
「グリン」
口をついて出たその単語に、すぐにエルが頷いた。
「緑ってことだろ、いいんじゃねぇか」
エルは口に入れたフルーツを飲み込むと、私の膝の上にいる子猫に向かって呼びかけた。
「グリン」
呼ばれていると分かったわけでもないだろうに、にゃあ、と子猫は返事をした。
その声を聞いて、一瞬エルの口の端が緩んだのを私は見逃さなかった。
「こいつ天才だな」
「もう、馬鹿ね」
そんな浮かれた顔をして。
「そうね」
私もそうかもしれない。
そして一人だった生活は二人になり、二人と一匹になった。
「おい、グリンがなんか
「止めてよ! あれは私のネグリジェよ!」
「あ?」
高いところに逃げたグリンを容易く捕まえると、ネグリジェを奪い取り私に向かって勢いよく放り投げた。
「わ」
頭に覆い被さったネグリジェから顔を出すと、エルはグリンに笑いかけていた。
「次はもっと上手くやれよ」
シーツについた猫の毛をバルコニーで払っていると、エルが横から現れてシーツを奪った。
「貸せ」
言い返す間もなく取られて、力強くシーツを叩く。
「ありがと」
それからシーツを被せられて、視界が白くなる。
「ほらよ」
「もう」
シーツから顔を出して、バルコニーで陽を浴びる彼を見つめた。彼の髪の毛が鈍く光った。
灰色の目。品のいい高い鼻……髪の色は、金色が落ちてきていた。
「……エル」
「あ? なんだ?」
彼の足元に絡みついてきた子猫の姿は、迎えた時より丸みを帯びた。
それだけの時間が経った。
だからこそ、提案するのを少し
「そろそろ、また髪の毛を染めに行かない?」
私の提案に、エルは二つ返事だった。髪を染めさせる私の意図を誤解したままだから。
グリンを家に留守番にさせて、私たちは町に出ると、あの日世話になった理容師の店に赴いた。
「私、外で待ってるわ」
「中にいろって」
そんなの暇じゃない。
不満げな私に、エルも負けじと不満げな顔をした。
そんな顔でそんな
「……俺はお前の言うことをきいてんだよ」
言われた言葉がどんな意味か分からなくて首を傾げた。
「馬鹿」
それから彼は理容師の手で再び見事な金髪に染められ、その姿をみて私は思い出した。
──傍にいてほしいの。
私があの日、彼に言った言葉を。
好きな男と同じ顔をしていたから故に、彼に向けた言葉を。
理容師の店から出ようと扉に手をかけたエルが目を細めた。
「なんか聞こえねぇか?」
耳を澄ますと、確かに店の外──町の広場から聞き慣れない音楽が聞こえた。
答えたのは理容師だった。
「流しの音楽隊ですね。たまに来るのですよ」
扉を開くと、揃いの衣装を着た大人たちが楽器を奏で、町の人々が集まって耳を傾けていた。
私たちも聴衆の輪に入る。
「悪くねえな」
随分久しぶりに、こんな優美な楽器の音色を聴いた。
「そうね」
次第に盛り上がりを見せたその場に、集まっていた人々が踊り出した。
ところどころで、パートナーと手を取って流れる音に
エルが私に手を伸ばした。
「踊るか?」
──ああどうして、その顔でそんなこと言うの。
「踊れないわ」
だって、全然一緒に踊ってもらえなかった。
「踊れるって」
その顔でそんなこと言わないで。
「ごちゃごちゃ考えんなよ」
彼は私の手を取ると、腰に手を添えて私の体を引いた。
久しぶりに踏んだステップに足がもたつく。
「下手でしょ」
「そんなの俺もだ」
見上げると、品の高い鼻がすぐ傍にあった。
灰色の目。
至近距離で見つめあって、触れている彼の手は熱い。
「けど、悪くないだろ?」
彼の金色の毛先が、私の顔に当たる。
染められたばかりの金髪には、天使の輪のような艶があった。
それから夜が更けて、音楽団が楽器を仕舞ってダンスパーティーは終わりになった。
明日には別の街に行くらしい。
「面白かったわね」
「そうだな」
余韻に浮かされながら屋敷に戻ると、出迎えが現れた。
「グリン、ただいま」
抱き上げて撫でると、子猫らしい柔軟さですぐに腕の中から抜け出す。お気に入りの場所に戻るのだろう。
「イース」
その声に名前を呼ばれると、未だに心臓が高く跳ねてしまう。
「……なあに?」
その声が、私の好きな男の声だから。──それがあなたでも。
「嫌だったら、止めろよ」
なんの脈絡もなかった。
真隣からかけられた声に、なんのことかと顔を上げると、顔に影が落ちて酸素が奪われた。
「ん、んん……っ」
それは乱暴な口付けだった。まるで貪るような。
どちらのものかわからない唾液で滑って、重なった唇にやっと隙間ができて、息を吸う。
「っ、エ、ル」
途切れ途切れに名前を呼ぶと、糸を引いて唇が離れた。
「イース」
私の頬を包む両手が、熱い。
品のいい高い鼻が私の鼻にあたっている。
灰色の瞳はまるで熱に浮かされたようだった。
どうしてそんなふうに、私の名前を呼ぶの。
「イース」
まるで愛しいものみたいに。
あなたは私を、愛しているはずがないのに。
……あなたって、誰?
ロイ? エル?
私は目の前の男を、誰だと思ってるの?
「言うこと聞く。嫌だったら、」
また唇が重なった。音を立てて唇を甘く
「……言えよ」
離れた唇に、吐息と声がかかった。
──何も言えなかった。
初めてのキスはどんな味かと想像したことがある。頭の中でこの味の果実の名を探す間もなく、また唇が重なって、思考力と酸素が奪われてしまう。
息の吸い方なんて知らない。泳ぐように息継ぎができたと思ったら、また欲に濡れた唇が私を溺れさせた。
視界の端に金髪がチラついたけど、彼のものか私のものかわからない。
「イース」
水音と浅い呼吸の隙間から聞こえたのは衣擦れの音だった。
必死に視線を動かせば、彼が自分の服のボタンを外しているのが見えた。
彼は私の腰を抱いて、もつれ合いながら移動した。
リビングのソファに倒れ込んだ時には、彼の上半身は布を纏っていなかった。
「おい」
ソファの上で、私に覆い被さる彼から声が降る。
「なんか言えよ」
「……言っていいの?」
なんて言えばいいのか、分からないのに。
「あ? 分かった」
灰色の瞳が射るように鈍く光った。
灰がそんなに激しく燃えるなんて知らない。
「何も言うな。言わせねぇ」
低い声は触れ合って聞くと体の奥が揺れるなんて知らなかった。
何度も角度を変えて口付けは深さが増して、誰にも侵されたことのない口腔内に舌が入ってきた。
胸元に熱を感じると、私の服に手がかけられていた。
私はその手に逆らわない。
だってずっと──この顔の男と触れ合うことを夢見てた。
精一杯受け入れながら、私を目の前の男の体を確認する。
服の下から暴かれた硬い筋肉質の体は、自分とは違った。
彼の素肌は私には熱い。
その体の輪郭に触れていく。
彼の胸元からお腹にかけて隆起する傷痕に触れて、指を止めた。
止まった私の指先に、彼が口付けを止めた。
「あ? ……もう痛くねぇよ」
──あの日の傷跡。
あの日出会った、山の中で倒れていた赤毛の男が負っていた傷。
「……あなたは、」
目の前の男の頬に手を添えた。
「エル」
灰色の瞳は、間違いなく愛した男と同じ色。
「お前がそう呼ぶなら、俺はそうだ」
けれどその瞳の奥に宿る感情を、私は知らない。
彼は彼で、彼は彼じゃない。
傷跡に触れて、私の中の熱が急速に冷めた。
「ごめんなさい」
言った途端に、すぐに肌は離れた。
「いや」
私の上から降りてソファに背を向けて立ち上がると、後ろ手で髪を掻いた。──金色の髪を。
「悪かったな」
いつものような憎まれ口ではなかった。
「水、用意する」
彼は私に背を向けたそのまま、キッチンに向かう。
一人残されたソファの上。
どちらのものかわからない顎に伝った液体を、愛と呼んでいいのか分からなかった。
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