7 男の話


 両手にはパンやら野菜やらが入った紙袋を抱えてる。

 俺たちは路地裏を見つめたまま、さっきっから一歩も動いてない。動けない。


「……拾ってもいいかしら?」

「お前、もう俺に馬鹿って言うんじゃねーぞ」

 同じ考えじゃねぇか。


 持っていた紙袋の軽い方をイースに渡す。

「重くないか?」

「大丈夫」

 俺は空いた片手を、路地裏に伸ばす。

「こっち来い…………そこの毛玉」


 俺たちの視線の先には、物陰からこちらの様子を伺う子猫がいる。

 暗がりにも小ささが分かる猫だ。俺たちは買い物の帰りに、路地に逃げ込むその姿を見付けたのだ。


「ほら来い毛玉」

 子猫は俺の伸ばした手を威嚇するように毛を逆立てる。

「馬鹿。そんなふうに言ったら逃げちゃうでしょ!」

「あ?」

 眉間に皺を寄せた俺に、イースが先ほど渡した紙袋を突き渡してきた。

 それからドレスの裾が汚れることも厭わずしゃがみ込むと、子猫に向かって両手を伸ばす。

 あまりに警戒がなさすぎる。


「怪我したらどうする」

「別にいいわよ」

「あ?」

 よくねぇよ。

 俺の視線に怯えることなく、イースは子猫に声をかけた。

「ほら、おいでおいで」

 イースの長い髪はいつも花の匂いがする。

 子猫は鼻をひくつかせて、恐る恐るこちらの様子を伺っている。

「大丈夫よ」

 怖くないわ、と彼女が甘い声を出す。外でそんな声を出すな。

「拾ったら言うことを聞けって言われるぞ」

「ちょっと!」

「ほんとだろ」

 眉を上げるイースに、俺が喉を鳴らして笑っていると、ふと子猫が前足を上げた。


「あ、来そう! おいでおいで〜……」

 再びまなじりを下げたイースに、子猫はおずおずと近付いて来る。路地裏から出て来た子猫の瞳は緑色だった。

「いい子ね」

 すかさず彼女は柔らかく抱き上げて、その子猫を腕に閉じ込めた。


「寂しかったでしょう? 一人で怖かったでしょう?」

 一体どういう気持ちでそれを聞くのか。

 緑の瞳は見つめ合って、子猫はみゃあ、と小さく鳴いた。


「……拾ったじゃないか」

「あなたも一緒だったじゃない」

 腕の中ですっかり大人しくなった子猫の体を撫で、イースが目を細めた。

「痩せてるわね。うちでミルクを飲みましょう」

 献身的なのはこの女のさがか。

 わかってはいたが一晩だけでなく、家に迎える気満々らしい。


「名前を決めなきゃね」

 イースが俺を見た。

「ねえ……エルは、どんな名前がいいと思う?」


 いつも俺の名を呼ぶ前に一拍空く。

 呼びかけて、一拍。それから、エル、と。


「……そうだな」

 エル。

 L、ルイ、レイ……。


「ロイ」


 適当に思いついた名前を口にした。

 その途端彼女は手を止めて、目を見開いて俺を見つめた。


 撫でられる手が止まって、子猫がイースの顔を見上げた。

「おい」

 その目を覗き込んで呼びかけると、はっと息を吸い込んで表情を取り戻した。

「その名前はダメ。他の名前にしましょ」

 そう言って、俺の前を歩き出した。


「私が決めなきゃダメみたいね」

 子猫に語りかけたその表情は見えなかった。

「ふふ。あったかい」


 その子猫の温もりで、彼女の指先の温度は上がるだろうか。

 こうしてあの屋敷で生活を共にする存在が、ひとつ増えることになった。

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